■ 青空の星
 
 
 
 
あの星に行けば、私の理想と逢えるのだろうか。
あの星に行けば、私は幸せだと言えるのか。
 
あの星に行けば、私は――。
 
 

 
 
 ひときわ高く、ボールの弾む音が木霊した。
 風を孕むユニフォームと、まるで切るような、高い音を立てるシューズ。未だ続くボールの弾む音は、荒い息と何を言っているのか分からない言葉を伴って、私の方へと近づいてくる。
 
 放物線を描いているのだろうボールは、しかし正面にいる私にはズームアップしてくるようにしか見えない。
 頭上を通り過ぎようとするボールを、私は跳躍して受け止める。そして振り返れば、感覚で掴んでいた通りの場所にバックボードがある。
 祈るように放つシュート。バックボードに弾かれたボールはリングに当たってもう一度跳ね、そしてその輪の中に吸い込まれる。
 
「ナイッシュ!」
 
 駆けてきたチームメイトが、バンと私の背中を叩いて行く。電子ホイッスルの音が、やけに心地よく聞こえる。
 
「このリード、守りきるよ」
 
 ところどころから聞こえる声は、混ざりあって「はい」なのか「おー」なのか分からなかった。
 そしてまた、ボールは弾む。そしてまた、私は追いかける。
 
 

 
 
 私が集団というものに再び属するようになって知ることは、山のようにあった。
 部内の姉妹関係とか、気さくなチームメイトの好きな食べ物であるとか。そして沢山の、私が知ろうともしなかった名前たち。
 
「可南子さん、おつかれー」
 
 体育館外の、むき出しのコンクリート。私の隣に腰掛ける陰は、声で判別がついた。
 
「しっかし、流石よね。あんな高いボール取っちゃうんだもん。普通の人だったら絶対取れない」
 
 ごめんね、ノーコンで。そんな言葉を並べながら私の隣に座ったのは、香奈枝さんという、部長の妹だった。
 以前まで鬱陶しいぐらいに感じていたこの身長も、今は褒められると純粋に嬉しい。まるで父を褒められているようで、私には誇り高く感じていた。
 
「あれは、私が取れると思って投げたんじゃないの?」
「えーと、そう、可南子さんなら取れると思った。うん」
 
 あははと笑う彼女に、私は「調子がいいんだから」と笑った。
 
「ねえ、休憩三時までだって。外行こうよ」
 
 さっき座ったばかりだというのに、香奈枝さんは立ち上がって私の二の腕を掴む。そうされると無下に断ることも出来なくて、私もまた立ち上がった。
 どこに行きたいの、という私の問いに、彼女は「いいから」とだけ答える。そして体育館を横切っている時、ふいに副部長の声が聞こえた。
 
「あっれー。カナカナ、どこ行くの?」
 
 カナカナ、とは私一人のことではない。二人まとめての呼称だ。
 ――私が集団というものに再び属するようになって知ること。
 それは、まだまだあるものだ。
 
「ちょっと外へ!」
 
 例えばこんな、仲間意識だとか。
 
 

 
 
 冬の終りを告げるような風は、いくら汗が乾いた後とは言え冷たかった。
 銀杏並木から滑るようにやってくる枯葉は、季節の名残。あともう少し経てば、桜の花弁と入れ替わることになるだろう。
 
「私も、中学のころからやっておけばよかったなぁ」
 
 突然の言葉に、私は顔を上げる。彼女の顔のその向こうには、グラウンドで駆け回る生徒の姿が見て取れた。
 
「どうして、そう思うの?」
「だって、そうしておけば、もっと早くお姉さまに認めて貰えたと思うの。もっと長く、姉妹としていられた」
 
 そう言って香奈枝さんは、目を細めて空を見た。薄く白い雲が、空の中で伸びている。
 以前、彼女と部長の馴れ初めを、チームメイトから聞いたことがあった。香奈枝さんは、中学の頃から憧れていた人がバスケ部にいると知って、高等部から入部したこと。運動部の辛さを知らなかった彼女は、何度か泣いたこと。
 それでも彼女は諦めず、人一倍練習に精を出したらしい。部長の妹になりたいと強く望んでいたはずだけど、それは一切言わずに、ただ認められるだけのために努力した。ある日の練習の後、「私の妹になりなさい」とみんなの前で言われた香奈枝さんの流した涙は、今までのどんな涙より美しかったと、チームメイトは夢見るような顔で語っていた。
 
「でも、香奈枝さん。高等部に入ってから始めたにしては、相当なものよ」
「そうかな。でも、憧れるってことは、凄く力になるからね」
 
 照れ笑いを浮かべた彼女に、私は深く頷いた。その気持ちはよく分かる。
 憧れること、尊敬すること、敬愛すること。それはどれだけ、私を突き動かしてきたのだろう。
 ただ私は、間違えていた。憧れをメガネに例えるのなら、私はまったく度数の合わないメガネをかけていた。ただ真っ直ぐ見えればよかったのに、そのレンズは恋の盲目の如く私の視界を奪って、歪めた。責任を転嫁するような言い方をすれば、そういうことになる。
 
「可南子さんは、そうじゃないの?」
「……残念ながら、違うわ」
 
 私がもう一度バスケをやろうと思ったのは、誰かに憧れたからじゃない。バスケを続けることで回顧させられる思い出としがらみがなくなったから、理由がなくなったからもう一度やろうと思ったのだ。
 理由があって入部したのではなく、理由がなくなって始めた。そんな、ゼロからのスタート。何もなくたって、充実してさえいれば、それを続ける意味がある。
 
「バスケをやりたくない、って思わなくなったから、入っただけなのよ」
「……そっか」
 
 普段口数の多い彼女も、それ以上は訊いてこなかった。色の濃い青空の下、微かな風が耳朶に触れている。
 それからただ目的もなく歩き、「そこら辺に座ろうか」と香奈枝さんが言った時だ。視界の端、遠くに祐巳さまと瞳子の姿が見えたのは。
 
「可南子さん……?」
 
 心象風景で言うなら、世界がモノクロームで描かれていくようだった。
 瞳子は何に怒っているのか、拗ねているのか、ツンと澄まして先を歩いて行き、祐巳さまは楽しそうに追いかける。大方つまらないことで瞳子の機嫌を損ねたのだろう、その様子を想像するのは容易だった。
 
「可南子さんってば」
 
 私は集団というものに属している。大切な仲間がいる。少しも寂しくない、寂しいはずがない。
 それなのに何故、世界は色を失うのか。どうしてこんなに孤独を、胸が締め付けられるような孤独を、感じているのか。
 色のない空を見上げると、星が見えた気がした。いや、見たかったのかも知れない。火星だとか、マリア様の星だとか称したあの星。あの星に辿り着くことができれば、私は――。
 
「可南子!」
 
 突然の大声に、私は身体は、大袈裟なぐらいビクリと震えた。香奈枝さんが、ただ真っ直ぐに私を見ている。
 
「どうしたの、大声なんて出して」
「だって、何度呼んでも気づいてくれないし。……それに、凄く寂しそうな目をしていたから」
 
 私は香奈枝さんに促されるまま、グラウンドに繋がる階段に腰を下ろした。彼女は、それっきり口を開かない。
 後ろ手をついて空を仰ぐと、もう星は見えなかった。
 
「もうすぐ、春がくるね」
 
 私が「ええ」と頷くと、視界から祐巳さまたちが消えているのに気がついた。拗ねた顔と、楽しそうな笑顔は、まるで冬の残滓のようだと思った。
 風が吹いて、ユニフォームの上に羽織ったコートの襟を揺らす。忍び込んできた風が冷たくて、冷気に晒され続けた手はかじかんでいる。
 
「春がきたら、新しい一年生が入ってくる」
 
 そう言って、冷たい手に、もう一つの手が重なった。
 どうしてこんなに温かく感じるのか、そんなことを考えながら、彼女にもたれるようにしてもう一度空を仰ぐ。
 
「楽しみだわ」
 
 薄い雲に縁取られた青空に、星はない。そして私は、見たいとも思わなかった。
 
 

 
 
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