■ 彼のrevenge
 
 
 
 
「やあ」
 
 爽やかに微笑みを作りながら、片手を挙げるその動作。そしてその台詞。
 世界広しと言えど、そんな挨拶をする人間がどれだけ存在するだろう? そしてその中で、その台詞が似合う人間はどれだけいる?
 たとえそれが千人いて一人だけだったとしても、蓉子はその人の名前を知っている。
 
「蓉子さん、お久しぶりだね」
 
 柏木優。通称ギンナン王子という、そのただ一人の名前を。
 
 

 
 
 やあ、と声をかけられて、気づいたら蓉子は柏木さんと取り残されていた。
 取り残された、と言うのは、それまで一緒にいた人がいたと言うことだ。今日は大学で知り合った女友達と三人、服を見に来ていた。
 そして予てから行こうと決めていたショッピングモールで、彼と出会ったしまった。軽く挨拶している間に友人二人はきゃあきゃあと騒ぎ、「私たちはお邪魔のようだから」と姿を消してしまったのである。
 
「あれ、あそこまで気を使ってくれなくてもいいのにね」
 
 柏木さんは角に消え行く蓉子の友人たちに、笑いながら手を振った。いや、勘違いされてはいないはずである。だって彼は「お久しぶり」と挨拶したのだから。……もちろん、彼女たちの耳にそれが入っていなかった可能性は、多分にあるけれど。
 それにしても、と蓉子は思う。本当になんて時に声をかけてくれたのだ。今頃友人たちは、「蓉子が彼氏を作らないのは意中の人がいたからだ」と噂しているに違いない。彼女たちは年相応に、色恋の話が大好きだから。
 
「どうしたのかな、不機嫌そうな顔して」
「……残念ながら、本当に不機嫌なのよ」
「それはそれは。さっきまでの笑顔が嘘みたいだ」
「あなたは作り笑顔って言葉、知らないの?」
 
 蓉子の言葉に微笑を絶やしたりしないのが、柏木さんの嫌味なところだ。余裕綽々、包み込んでやろうという態度は立派なものなのだろうけど、気に障るものは障る。
 
「さて、どうしようね」
 
 どうしよう、とは、訊くまでもなくこれからのこと。わざわざ二人っきりにしてくれたのだから、と言いたいらしい。
 困ったな、と心底思う。別に彼を置いてけぼりにして帰ることにしてもよかったが、それは今日に限って言えば難しい。実はショッピングの後食事をとり、その後飲みに行く予定で、帰りは遅くなると伝えてあるのだ。
 今から彼女たちを追いかけたってしらけるに決まっているし、今から帰ったのでは親に「ゲンカでもして帰ってきたのか」と心配されてしまう。だからこの現状は、中々やっかいなのである。
 
「とりあえず、どこか入らないか? 往来の邪魔になる」
「……それもそうね」
 
 蓉子はあくまでも快諾ではなく、渋々とした返事をした。この現状を快く思っていないのだから、その辺はきっちりと意思表示をしなければいけない。
 じゃあ行こうか、と柏木さんが入ったのは、有名なコーヒーのチェーン店。本当にとりあえずという感じがして、しかし逆に気取ったお店に連れて行かれなくてよかったとも考えた。
 
「さっきは悪かったね」
 
 コーヒーを注文し終えると、柏木さんはまずそう言った。
 
「僕のせいで、君の予定を狂わせてしまった」
 
 なんだ、分かっていたのか。そう思うと、不思議と不快感は和らいだ。
 
「別に、あなたのせいじゃないわ」
 
 しかしこれは、柏木さんのせいではなく、蓉子の友人たちの早とちりとお節介のせいだ。そう冷静に考えると、蓉子のさっきまでの不機嫌は不条理なものに感じられた。
 
「ちなみに、今日のご予定は?」
「……ショッピングの後、食事。その流れで、バーに行く予定だったけれど」
「バー、ね。蓉子さん、未成年だろう?」
「私はそこまで固くないし、世渡りだって上手くやって行きたいわ」
「なるほどね」
 
 柏木さんは届いたコーヒーの湯気を飛ばしながら、「それは僕もだよ」とゆっくり頷いた。
 
「それじゃあ、バーまで僕がエスコートしようか」
「冗談にしては、真面目な顔をして言うのね」
「そりゃそうだろう。僕は冗談のつもりで言っているんじゃない」
 
 柏木さんは真摯な目で、蓉子の瞳を覗きこんだ。
 
「いいだろう。そういう予定だったんだから」
 
 その瞳に少しだけ動揺しながら、蓉子はおかしいなと思った。今日の彼は、少しばかり強気で強引だ。
 
「あなたの奢りなら、考えて上げるわ」
 
 少しばかり考えてから、蓉子は言った。
 
「オーケー。食事はどこがいい? フランス料理でも、イタリア料理でもいいよ」
 
 ここで蓉子は、決定的なミスを犯した。彼は、俗に言う御曹司なのだった。
 
「……本気なの?」
「君は考えてくれるんじゃなかったのかい?」
「言ったけれど、まだ行くとは言ってないわ」
「でも、一緒に食事するのも嫌なぐらいなら、君はここにはいないだろう?」
 
 まあ、それはそうだ。それにはこのまま帰ることも追いかけることもできないという理由があったからだけど、本当に嫌ならどこかで暇を潰す手段を、真っ先に考えるはずだ。
 現に、今こうして彼とコーヒーを飲んでいることに、嫌悪感はなかった。その理由の一つとして、柏木さんが真剣に話をしていることがあるだろう。いつもの軽薄さはなく、突発的なことなのにどこか自然な雰囲気だった。
 
「それは、そうだけれど」
「すごく美味しいパスタがあるんだよ。あれを食べずに生きていることは、勿体ないことだとすら思う」
「分かったわよ、食事ぐらいご一緒します。だからそのおかしな言い回し、止めてもらえるかしら」
 
 はあ、とため息を吐き、目を伏せて頷いた。こうなったら、本当に奢って貰おうじゃないか。埋め合わせには、ちょうどいい代償だ。
 蓉子だって、もう大学に進学して数ヶ月。男性から食事に誘われたことぐらい、数え切れないほどある。……行くか行かないかは、別にして。
 
「いいね、今日の君はとっつき易くていい。柔和な女性は好きだよ」
「……やっぱり行くの止めようかしら」
「そうすぐ意見を変えようとするなよ。夕食の時間にはまだ早いから、これからショッピングの続きだろう? 僕が見立ててあげようか」
「口うるさそうなコーディネーターより、荷物持ちが欲しいわね」
「分かった、それでもいいよ」
 
 コーヒーを飲み干したことを確認すると、柏木さんはおもむろに席を立つ。彼は「どうぞ、お姫さま」とでも言うように手を差し伸べてきたけど、蓉子は無視して一人で立ち上がった。
 
「やっぱり君は、とっつきにくいかも知れない」
「そう?」
 
 今日はこれでも、社交的に振舞っているつもりだ。たまの休日、イレギュラーなことがあった方が楽しいだろう。
 しかし考えてみれば随分寛容なことだ、と、蓉子は前を歩く柏木さんの背中を見ながら思った。
 
 

 
 
 服は、結局何も買わなかった。
 それもこれも、荷物持ちがうるさいせいだ。駄目だしするわけではなく、何でもかんでも「似合うね」とか「君のイメージにぴったりだ」とか言うから、気に入った服があっても買うに買えなかった。そこで買ったら、柏木さんに決めてもらったみたいで癪だったからだ。
 
 そんな不満足感を引きずっての食事は、やはり彼の提案の通りのパスタだったのだけど、これが意外だった。
 パスタの味が、という意味ではない。パスタは彼があれだけ言うだけもあって、思わず笑みがこぼれてしまうほど美味しかった。意外だったのは、彼との会話なのだ。
 同年代の男女が話すことと言えば、世間話か、それとも共通の知人の噂話。祐巳ちゃんの話題からの流れで、祥子の知られざる過去の話を聞かされ、蓉子は思わず「あは」と声を出して笑ってしまったのだ。
 
「やっと笑ってくれた」
 
 柏木さんは、パスタをフォークに絡ませながら言う。
 だって、笑ってしまうに決まっているではないか。小笠原家ではコロッケもステーキ皿で出され、ナイフとフォークを使って食べるなんて、そんな祥子を想像するだけで笑いがこみ上げた。
 
「私は、笑顔は適度に作っていたつもりだったけれど?」
「笑顔とかそう言うのじゃなくて、笑ってくれたって言うのが論点なんだよ」
 
 柏木さんは、いつになく表情を柔らかくして言った。
 確かに、声に出すほどの笑いと言うのは、蓉子にとって中々ない。何となくお笑い番組を見ていたって、ふき出したりすることはないのだ。
 
「やっぱり、蓉子さんを食事に誘ってよかったよ。実に有意義だ」
 
 柏木さんはそう言うと、フォークに巻きつけたパスタを口に運んだ。見てみれば、彼のお皿はそれでもう空。蓉子の方は、あと二、三口と言ったところだった。
 
「さて、これからどうしようか。僕は予定通り、バーに行きたいと思うけど」
「あなた、さっき私に『未成年だろ』って言ったばかりじゃない」
「僕だって、世渡りは上手に行きたいよ」
「でも、車で来ているでしょう?」
「父の知人が経営しているバーなんだ。頼めば一晩ぐらい車を置かせてもらえるよ」
 
 帰りは電車で、ちゃんと送り届ける。だからどうだと、彼は続けた。
 やっぱり、今日の柏木さんは少し積極的だ。どうしてなのかと思ったけれど、「誘ってよかった」と言うように、彼の方も楽しんでいるのかも知れない。そう考えると、随分と前向きに考えが進んだ。
 
「もう少し、祥子の話を聞いてみたいわね」
 
 柏木さんが積極的なら、蓉子の方もそうだったのかも知れない。ここで帰る選択肢もあったけれど、それが名残惜しく感じられたのだ。
 それは純粋な話への好奇心なのか、彼に対しての許可なのか、いまいち判別はつかない。しかし、一つだけ言えることがある。
 
「柏木さんも」
「……何?」
「意外と、とっつき易いのかもね。会話のレベルがあっている気がするわ」
 
 柏木さんは蓉子の言葉に微妙な笑みで答えると、随分と気障な挙動で車のキーを取り出した。
 
 

 
 
 さて、そのバーはというと、如何にも彼がチョイスしそうな雰囲気のお店だった。暗めの照明に、会話を邪魔しない程度の音量で音楽が流れている。
 琥珀色の液体と、発泡性の液体。柏木さんはバーボンを、蓉子はカシスソーダを頼んでいた。一杯目を蓉子と同じペースで飲んだあたり、彼はそこそこ酒に強いらしい。蓉子も飲めない方ではなかったけど、あれぐらい強い酒だとすぐに酔ってしまいそうだ。
 
「それで、学祭の準備がギリギリになったわけか」
「そうなのよ。法学部だからと言って、頭の固そうなイメージがあるけど、そんなこと全然なかったわ」
 
 カタリと少しの音を立てて、テーブルにカクテルグラスを置く。お酒を飲んでも、飲まれるようなことはしない。ペースぐらいは心得ている。
 柏木さんはと言えば、まるで会話への相槌のように蓉子と同じ角度でグラスを傾け、同じペースで飲んでいる。彼の方がアルコールは回っているはずなのに、蓉子のように饒舌になったりしないのは元からの性格なのか、それとも相当酒に強いのか。後者だったら、俗にいる『ザル』と言う人なのだろうなと思った。
 
「柏木さんの方だって、そんなんじゃな――」
「ねえ、蓉子さん」
 
 柏木さんは、蓉子の言葉を遮って続けた。
 
「僕は『蓉子さん』って下の名前で呼んでいるけど、君はそうしてくれないのかな」
 
 その言葉に、蓉子は黙り込んだ。
 そんなこと、言えるわけがない。祥子と同じように、彼のことを「優さん」と呼べるわけがないではないか。
 そう、祥子と言えば――。
 
「それにしてもあなた、婚約者がいる身でありながら、よく他の女を飲みに誘えるわね」
「おや、さっきの僕の発言は無視かな」
「いいから、まず私の質問に答えなさい」
 
 随分と横暴な言い分だと思ったけど、お酒のせいということにしておく。
 そして蓉子がにらむ様に柏木さんを見ていると、彼は静かに、深い声で言った。
 
「結婚は、しないよ」
「は……?」
 
 そう言った蓉子は、間抜けにも口をポカンと開けていたと思う。だってそれは、全く予想できなかった答えだったから。
 
「……それは、あなたの性的志向によることから?」
「違う。それが彼女のためだからさ」
「じゃあ、同性愛者だっていう話は、婚約を解消させる為のブラフだったっていうの?」
 
 蓉子は言った後、少しだけ怖くなった。蓉子は彼のことを男と認識していないから、バーに行こうという話に頷いたのだ。それを、今更――。
 
「ブラフ、か。そう言っても、差し支えないかも知れないね」
「……なら、どうして祥子から婚約解消の話を切り出された時、怒ったのよ。私たちが高校三年の時の、あの学園祭で」
「一度そうして置いた方が、後々いいからさ。一度そうやって断られれば、さっちゃんは『はいそうですか』と引っ込む性質じゃない。もっと決定的なものを持って、婚約を解消しようとするだろう。そうすれば、どちらにとっても一番ダメージが少ないよ」
 
 柏木優という人は、時々驚くぐらい祥子を大事にする行動を見せる。そう言われてしまえば、溜飲を下げるしかないではないか。
 
「まあ、だからと言って蓉子さんを誘ったわけじゃないよ。ただ純粋に、君といることが楽しかったから誘ったんだ」
 
 そう言って柏木さんがグラスを傾けると、わずかに残ったバーボンの中、氷がキラリと光った。
 その台詞の中に、どうにも嘘は見当たらなかった。年相応の男が持っている「どうにかしてやろう」という気持ちが、少しも見えない。それに蓉子は、少しだけ安心した。
 
「ねえ、蓉子さん」
 
 しかし彼の次の台詞は、蓉子の気持ちを覆すものだった。
 
「キスしても、いいかな」
 
 ――思考が凍りつくとは、こういう状態を言うのだろう。「なっ」と声を出してから、どうにも言葉が続かなかった。
 何だ、顔には出ていないけど、彼は相当に酔っているのか。蓉子はごまかすようにカシスソーダを一口含む。ゆっくりとそれを飲み干し、「馬鹿なこと言わないで」と言おうとする前に、柏木さんの方が先に口を開いた。
 
「まあ、言うまでもなく冗談だけど」
 
 蓉子の唇は、「馬鹿なこと」の「ば」の字で固まっている。
 
「いや、ちょっと反応を見たかっただけだよ。蓉子さんでも、あんな反応するんだね」
 
 そう言って柏木さんはおかしそうに笑い、通りがかった店員にバーボンのおかわりを頼んだ。
 その笑みを見ていると、フツフツと怒りが込み上がってくる。だから蓉子は、かなり頭に血が回っていた。
 
「できるものなら、してみなさいよ」
 
 そして忘れてはならないのは、思っていた以上にお酒が回っている、ということである。
 
「……」
 
 彼は、その言葉に何の反応も返さなかった。いや、沈黙と言う状態で、返事を返したのか。
 柏木さんは何も言わずに、蓉子の目を見た。まるで宝石でも眺めるかのように、瞳を覗き込んでくる。
 
「――」
 
 ――不意に寄せられる、端正な顔。唇に人肌の温もりを感じて、思わず目を閉じる。
 キス、された。そう認識すると頭がクラッとして、心臓がトクンと跳ねた。
 
「な……」
 
 慌てて顔に引くと、柏木さんは“蓉子の唇の前に指を二本かざして”笑っている。
 
「僕の負けだよ」
「……何がよ」
「僕には君にキスする度胸がなかったからさ。だから度胸試しは君の勝ちだ」
 
 柏木さんはそう言って、未だおかわりの届かないバーボンのグラスをカラリと揺らして笑った。
 どこが、蓉子の勝ちなものか。本当の勝者ならば、こんなに「してやられた」って感じはしない。こんなに、心臓が暴れるはずがないのだ。
 それに柏木さんはキスできなかったのはなく、しなかったのだろう。彼の余裕の笑みが、そう言っている。
 
「君は、キスの直前まで目を閉じないんだな」
 
 そう言ってまた笑ってきたのが、やはり悔しくて。
 だから蓉子は、バーボンのおかわりを持ってきた店員にドライのジントニックを注文した。とてもじゃないが、甘いだけのお酒は飲める気分ではなかった。
 
 

 
 
 家にもっとも近い駅から出ると、冷たい風が火照った身体の熱を奪っていく。
 午後十時前の、夜闇の中。蓉子の足は、少しだけ言うことを聞いてくれない。
 
「ほら、しっかり歩けよ」
「歩けるってば。気安く触らないでちょうだい」
「放って置くと僕の方につかまってくるくせに、よく言うよ」
「うるさいわねぇ……」
 
 自棄酒のような酒は、本当によくない。いつもお酒は飲んでも飲まれるなって言葉、忘れていたはずではないのに。
 しかし真っ直ぐ歩けないほどの千鳥足というわけでもないのに、肩を貸してくるのは何なんだ。
 香水でもつけているのか、彼からは人を落ち着かせるような香りがして、余計に身体が重たくなる。それすなわち、更に柏木さんを頼ることになる、ということだ。
 
「……ごめんなさい」
「僕が誘ったんだ。このことは忘れてもらって構わないよ」
 
 それっきり、言葉はなくなった。いつもは目にうるさく感じられる街灯ですら、何も言ってこない。
 そうして五分ぐらい沈黙が続いたところで、柏木さんは口を開いた。
 
「どうして僕が『キスしていいか』なんて訊いたか、分かるかい?」
「えぇ?」
 
 どうにも呂律が回らなくて、間抜けな声で聞き返した。
 柏木さんは、続ける。
 
「君も覚えているだろ。梅雨の時期の、さっちゃんと祐巳ちゃんのケンカ。密葬の後に祐巳ちゃんを連れてきて、それから一緒に庭園を散歩したよね」
「……そうだったわね」
「あの時、君は突然思いついたようにコンビニに行ってしまっただろう。あれ、凄く悔しかったんだよね。誰より気を利かせようと心がけていたのに、あっさり負けてしまった。君の方が、一枚上手だったんだ。だから、そんな君を驚かしてみたかった。つまらない仕返しだけど、何も言わずに置いて行くのも酷いよね。荷物持ちぐらいの手柄をくれたっていいのに」
 
 彼は微笑を浮かべながら、冗談を言うようにそう言った。ちょうど、蓉子の家が面する道に出たところだった。
 
「だから今日、私を誘ったの?」
「まさか。昼間にも言ったけど、今日の蓉子さんはとっつき易かったからだよ」
 
 今日の蓉子さんは。
 それはそうだろうな、と思った。だって前柏木さんと会った時は、お祖母さまは亡くなるわ、祥子は塞ぎ込んでしまうわ、その上蓉子は祐巳ちゃんに嫉妬してしまったりして、とてもじゃないが気分がよい状態ではなかった。今日は彼があまり軽薄な態度を取らなかったから、気分を害さなかったというだけだ。
 
「あの時は悪かったわ。必要以上にツンケンしちゃって」
「じゃあ、キス未遂と相殺にしようか」
「あれと? 安く見られたものだわ」
 
 蓉子の冗談に、彼は遠慮なく笑った。気づけば、『水野』という表札が見えている。
 
「……送ってくれてありがとう」
「いや、僕の方こそ。今日は付き合ってくれて嬉しかったよ」
 
 それじゃ、と背を向けようとする蓉子に、柏木さんは言う。
 
「おやすみ。キスする間際の蓉子さん、可愛かったよ」
「……おやすみなさい。あなたの頭は、相当おねむの様ね」
「違うな、これは酔っているせいだ」
 
 振り返ることも、手を振って笑顔を作ることもせず、蓉子は門を開けた。彼がもう一度だけ「おやすみ」と言ったから、蓉子は多分聞こえないだろうなという声で「おやすみなさい」と言った。
 玄関の扉を開けると、カチリと廊下の電気が点く。
 
「蓉子? おかえりなさい。送ってもらってきたの?」
「まあ、ね」
 
 話し声を聞きつけたのか、廊下の向こうに母が立っていた。蓉子はその母の手前で方向転換すると、階段に足をかける。
 
「そうなの。男の子の声だったわね」
「……あれは通りすがりの酔っ払いの声よ」
「そんな嘘、お母さんに通用すると思っているの?」
 
 まあ、それはそうだろうなと思いながら、でも上手い答えなど浮かばずに階段を上りきる。
 
「お風呂は?」
「……後で入る」
 
 これ以上は柏木さんのことは訊かないみたいだったから、そう答えて自室の扉を開けた。
 一歩、二歩。――母には相当酒が回っていることを悟られたくないから踏ん張ってきたけど、そろそろ限界だ。
 
「……っは」
 
 照明も点けず、ベッドに倒れこむ。心地よい気だるさが、化粧を落とさなくちゃという意思を押さえつけようとする。無為に触れた唇が、熱い。
 柏木さんは、相変わらず気障な男だった。まったく、嫌味な男で、しかし以前ほどは嫌うことができそうにない。
 
『蓉子さん、可愛かったよ』
 
 本当、ふざけた男だ。顔が赤いのはお酒のせいだけじゃないなんて、本当にふざけている。
 
「馬鹿じゃないの」
 
 うわごとの様なその声は夜の空気に溶けて、思いのほか綺麗な響きを持って消えた。
 それが何故だか癪で、やっぱり彼はいけ好かないなと、蓉子は思った。
 
 

 
 
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