■ 乳頭間、若干1cm
 
 
 
 
 いつも白い天井を見詰めていた。
 近頃は、そうしていることが多い。
 
「はぁ……」
 
 都立病院の、病室の一角で。
 島津由乃は重たい身体に苦労して身を起こした。……まだ、少し動悸がする。
 
(嫌になるなぁ、もう)
 
 心の中で、そう呟く。生まれてこのかた十数年間、由乃を悩ませる動悸や息切れ。胸を押さえて倒れてしまうほどの苦痛。それら全てが、由乃の臆病さから来ていることは知っている。さっさと手術すれば治ることだとも。
 しかし、いつでも躓くのが『死への恐怖』。手術の成功率はほぼ百パーセントだからと言って、絶対じゃない。何せ胸を切り開いて心臓を弄るのだ。それに全く抵抗がない人間なんて、いるはずがない。
 ならば手術を受けようと思うには何が必要なのだろうか。
 勇気? きっかけ?
 答えは、どちらもということになると思う。
 
「それじゃあ、お世話になりました」
「はい。再発はまずないと思いますが、もし何かあったらすぐ言ってきて下さいね」
 
 由乃がうつらうつらと考えていると、不意に人の声がした。まあ、由乃が臥せっているこの病室は四人部屋だから、人の声がするのは当然なのだけど。
 由乃は会話が気になって、仕切りのカーテンの間から様子を窺い見た。そこでは斜向かいのベッドで療養していたはずの、中学生ぐらいの女の子とそのお母さんが担当医師に頭を下げていた。たしかあの女の子は、盲腸で入院していたはず。ということは、手術は無事終わって、今日退院ということなのだろう。
 
(いいなぁ)
 
 ちゃんと成功して、元気になって退院。まったく、理想の姿じゃないか。
 まあ、かく言う由乃だって退院は遠い日のことじゃない。今はちょっと調子が悪くて入院しているけど、先生のお許しさえでれば今すぐにだって退院できるのだ。
 女の子たちが病室を出るのを見届けると、由乃は小さく「退院おめでとう」と言ってからベッドに戻った。胸を押さえると、もう動悸はしない。そろそろ大丈夫だろうと思って、由乃は小説を手に取り読み出した。
 
(早く往診に来ないかな)
 
 先生の診断次第では、すぐ退院できるのだ。個室が空いていないという理由で放り込まれたこの病室とも、さっさとおさらばしたい。
 それから三十分もした頃だろうか。病室の扉が開く小さな音がした後、由乃のベッドを囲うカーテンが開けられた。
 
「あ、せんせ……い?」
「こんにちわ。あなたが由乃ちゃんね」
 
 しかしそこに居たのは由乃の担当の先生ではなく、外国人みたいに顔の彫りが深い女性。白衣を着ているから医者なんだろうけど、今まで一度も見た事がない顔だった。
 
「あの……」
「はじめまして。この度この病院の院長を努めさせて頂くことになりました、佐藤聖です」
 
 佐藤先生はぺこりと慇懃に礼をする。
 この度、この病院の、院長――。
 由乃は失礼ながら、『嘘でしょー』と思った。だって佐藤先生、若すぎる。その上ものすっごい美人。
 
「なぁに、その信用していない目は」
「いえ。あんまりにもお若いようなので」
「うん、実際若いよ。まあ実力ってやつかな」
 
 ああ、自分で言っちゃうんだ、それを。
 由乃は目で呆れを表現してみたけれど、佐藤先生はそれには気付かず続けた。
 
「こう見えても私、手術の成功率百パーセント。まあ、ナイトワークだと昇天率百パーセントだけどね! あっはっは」
 
 ……その上この親父ギャグ。
 由乃は更に佐藤先生に対して訝しく思ったけど、『院長・佐藤聖』とかかれた名札は、どう見ても偽物のようには見えない。
 
「で、でも流石にしっかりしてますね。こうやって患者さん全員に、挨拶に伺っているんでしょう?」
「え? ううん。私は可愛い子にしか挨拶にいかないよ」
 
 何だ、それ。
 まあ、由乃を可愛いと認めてくれることについては、ちょっとだけ嬉しいけど。
 
「そうそう。私が院長に就任したことに際して、病院の名前が変わるから」
「はあ」
「都立スイート病院。私と患者さんの甘やかな一時が過ごせる病院、って意味をこめて」
「……不謹慎ですね。苦しんでいる人が沢山いるっていうのに」
 
 怒りを通り過ぎると呆れに変わるって言うけれど、逆に呆れが怒りに変わった。
 ちょっと、チャラけ過ぎなんじゃないか。そう由乃が強い視線を佐藤先生に向けると、彼女は微笑んで言う。
 
「違うわよ、由乃ちゃん。苦しんでいる人は沢山いるけどね、入院してよかったって思える病院にしたらいいじゃない」
 
 不意に、由乃は毒気を抜かれた。何だ、ちゃんとしたことも言えるんじゃないかって。
 ……ただ、『私と患者さんの甘やかな一時』については何の説明もないけれど。
 
「ちなみに、私の先輩が言っていた言葉だけどね」
「例え誰かの言葉でも、先生がそれを遂行してくれるなら素晴らしいことだと思います」
「うん。任せておいてよ」
 
 佐藤先生のその言葉を聞いて、由乃はやっと笑うことができた。大丈夫、ちょっとおちゃらけているけど、きっと本当は凄く真剣に考えているんだ。
 
「さて、それじゃ少し様子を見させて貰おうかな。胸を出して」
「あ、はい」
 
 診てくれるのはいいけど、由乃の病気のことを知っているのだろうか。
 そんなことを考えながら由乃はパジャマのボタンを外し、下着を取って乳房を外気に晒す。
 
「――ゴクリ」
 
 ……一瞬佐藤先生の目が輝いたのは、見間違えだと思いたい。
 
「発育途上って、至高よね」
「……は?」
「いや、発展途上国には頑張って欲しいなぁと」
「……喧嘩売ってるんですか」
「まさか」
 
 由乃が睨むの何て気にせず、佐藤先生は聴診器を当てる。
 気持ち胸を揉むように動かしているように思えるのは、……気のせいだ。きっと。
 やがて佐藤先生は聴診を終えたのか、名残惜しそうに聴診器を離した。
 
「……残念ながら」
「え……?」
 
 その言葉に、ぞわりとした。
 なんだろう。やっぱり心臓の調子が芳しくないのだろうか。だとしたら、また入院が長引いてしまう。
 
「本当に、残念なことにね」
「は、はい……」
「乳頭間が、私の理想より若干広い」
「……はい?」
「だから、私が理想としている胸より、乳首と乳首の間が少しだけ広いのよ」
「――二十回ぐらい死んだらどうですか」
 
 ……前言撤回だ。佐藤先生は、『おちゃらけて見えるけど真面目な先生』なんかじゃ、全然ない――っ!
 
「そんなキツいこと言わなくてもいいのに。ほら、成長すれば改善されるかも知れないよ」
「うるさい! このヤブ医者っ!」
 
 もう怒った――。
 由乃はベッドの端に置いてあった文庫本を手に取ると、佐藤先生に向けて投げつける。
 
「うわっ、危ないなぁ」
 
 しかし佐藤先生は難なくそれをキャッチすると、枕元に置き直す。
 そういうちょっと紳士的な態度も、今の由乃には気に障った。
 
「何か由乃ちゃん怒らしちゃったみたいだから、また改めてくるね」
「二度と来るなっ!」
 
 今度は水差しを投げようとしたところで、佐藤先生はカーテンの向こうへと消えた。
 バクバクと、激しい運動をしたわけでもないのに動悸が激しい。
 
「はぁ……」
 
 思わず、重たい溜息。
 退院できる日は、まだ遠いようだった。
 
 

 
 
 病院の名前が変わってから数日。
 院長の権限とはこんなにあるものなのか、と思えるほど、病院内は変化していた。
 例えば――。
 
「島津さん。採血ですよ」
 
 看護師の蟹名静さんの連れている、二人の少女。共に実習生の腕章を巻いており、察するにこの二人は看護科の生徒なのだろう。つまり、病院が実習生の受け入れを開始したのだ。
 
「あ、紹介しておくわね。二人は百合嘉門高校看護科からきた実習生で」
「藤堂志摩子です」
「福沢祐巳です」
 
 蟹名さんが二人の肩に手を置くと、それぞれ自己紹介してくる。天然パーマなのか、長い髪の先の方がカールしている、凄く顔立ちの整った子が志摩子さん。二つ縛りにした髪をピョコンと揺らしてお辞儀をした、愛らしい感じの子が祐巳さんというらしい。
 
「島津さんと同い年だったかしら。これからも実習の為に連れてくることがあると思うから、よろしくして上げてね」
「ええ、よろしく」
 
 由乃が軽く頭を下げると、二人も「こちらこそ」とお辞儀を返す。礼儀正しい。何だか、この子たちとなら仲良くなれそうだな、と思った。
 
「それじゃ今から採血をします。二人ともよく見ておくように」
「はい」
 
 蟹名さんは由乃の腕を台の上にのせると、上腕をゴムで留めた。それから腕を消毒して、注射器の確認。そして――。
 
「はい、チクっとするわよ」
 
 注射針が、ゆっくりと由乃の腕に刺さる。血を採られるのは慣れているけれど、やっぱり針が刺さる瞬間はピクッて顔をしかめてしまうものだ。
 十秒ぐらいして、一定の量を採り終えたのか注射針が手早く抜かれる。一瞬だけど、これも少し痛い。
 由乃は少しだけ実習生たちの反応が気になって、二人の方を見た。するとどうしたことか、祐巳さんと目が合う。何故か熱っぽい視線で、こっちを見ているのだ。
 
「祐巳さん、どうかして?」
 
 その様子に気付いた志摩子さんが、静かに問いかけた。
 
「あのね、注射針が刺さる瞬間、由乃さんがピクッて目を閉じたの。それがすっごい可愛くて。針が近づいてきて不安そうな表情しているのも、結構そそられちゃった」
「まあ、それは本当? 見たかったわ」
「蟹名先輩、もう一本!」
「待て待て待て待て待てっ! 私そんなに血を採られたら貧血起しちゃうから!」
「まあ、貧血ですって。可愛らしいわ」
 
 志摩子さんはそう言って上品に笑う。何か間違っていやしないか、この二人。
 
「あなたたちっ!」
 
 ――と、ここで蟹名さんの一喝が飛ぶ。
 そこは先輩看護師。指導係として、後進にはビシっと言って置いて貰わないと。
 
「ズルイじゃない! 私だって見たかったのに!」
 
 あー……。ダメだ、この人。いや『この人も』。
 
「儚げな病弱美少女っコが注射針に怯え、その痛みに顔を歪める。なんてエロチシズム!」
「あんたもう看護師ヤメロ」
「絶対嫌よ。それじゃ何のために看護師になったか分からない」
 
 ああ、確かに分からないよ。何故あなたが看護師になれたのかも。
 
「――っと。ごめんなさい、島津さん。取り乱してつい本音が出てしまったわ」
「……本音だったんだ」
「ラーララー」
「歌って誤魔化すな」
「……とにかく失礼したわ。ほら、看護科って女の子ばかりだから、たまにこういうコもいるのよ」
「あ、酷いですよ、蟹名先輩。先輩だってウチの卒業生じゃないですか。それに先輩ガチだし」
「それ以上言ったら採血多量で死なす」
「す、すいませんでした……」
 
 蟹名さんが採血用の注射器を持って嗤うと、祐巳さんは子犬のように怯え出した。
 
(……心臓に悪いなぁ)
 
 島津由乃、十○歳。
 そろそろこの病院が、嫌になってきています。
 
 

 
 
「きゃっ」
「あ、すいません」
 
 それは由乃がお手洗いを済まし、トイレから出ようとした時のこと。ちょうどトイレに入って来た人と、肩がぶつかってしまったのだ。
 相手を見れば、髪の毛をチョココロネみたいにした女の子。何だかアンティークドールみたいだな、と思いながら廊下に出ようとすると、不意に足元に影が差した。
 
「連れが失礼しました」
 
 そう言ってすれ違っていった子は、おかっぱ頭の女の子。由乃の足元に影を落とした背の高い人物は、無言で会釈をしてトイレに入って行った。……ということは、この二人はさっきの子の友達であるらしい。
 
(珍しいな)
 
 さっきの子達はパジャマ姿だったから、おそらく入院患者なのだろう。友達同士が三人一緒に入院するなんて、中々あることじゃない。もしかしたら病室が一緒だとかで、仲良くなっただけかも知れないけど。
 由乃はそんなことを考えながら、自動販売機でペットボトルのお茶を買った。それを持って、談話室に入る。病室は、お茶を飲むには息苦しい。
 
(暇だなぁ)
 
 こんなとき、令ちゃんがいてくれたらいいのに。
 しかしその従姉は今の時間学校だろうし、両親だって仕事やら家事やらと忙しい時間。暇が嫌ならさっさと退院して学校に行けという話なのだけど、願うだけで出れるならもうとっくの昔に退院している。
 
「ん……?」
 
 と、そんなことを考えていた時。
 談話室の入り口から、先ほどの三人組みが入ってくるではないか。
 
「あ、さっきは失礼しました」
「いえ、いいのよ」
 
 ちょこんと頭を下げたのはチョココロネの女の子。その子を含め、三人ともお茶なりコーヒーなりと手にしていたから、恐らくは由乃と同じ目的でここにやってきたらしい。
 
「あの、ここよろしいですか?」
「え? うん、いいけど」
 
 市松人形みたいなおかっぱヘアーの女の子が、由乃が座っているソファを指差した。
 談話室は大して込んでいない。しかしそれほど大きくはないため、相席するケースが多い。彼女たちだって由乃と大して歳の変わらぬ女の子。わざわざ中年男性のいるソファを選んで座りたくはないらしい。
 
「珍しいわね」
 
 これはいい機会、と思って、由乃は女の子たちに声をかけてみることにした。歳も近いし、いい話し相手になってくれそうだ。
 
「三人ともお友達? 病室が一緒だとか?」
「いえ、入院する前からの友人なんです。何故だか一緒の時期に入院しちゃって、こうしてつるんでいるんです」
 
 ハキハキと答えるのは、先ほどと同じくおかっぱ頭の女の子。
 話を聞いていけば、この子は乃梨子ちゃんというらしい。背の高いワンレングスの女の子は可南子ちゃんで、チョココロネは瞳子ちゃん。全員由乃より一歳下であるらしい。
 
「へぇ、それにしてはみんな元気そうね」
 
 由乃は三人の顔見ながら言う。乃梨子ちゃんたちは、お世辞にも病人らしいとは言えない。足取りも口調もしっかりしているし、どこをどう見たって正常なのだ。
 
「そりゃ、未知の病ですから」
 
 不意に可南子ちゃんが、苦笑混じりに言った。
 
「え……?」
 
 一瞬で、由乃の好奇心が萎縮した。
 未知の病、ということは、治療法が分かっている由乃よりずっと重いということだ。今でこそ元気そうだけど、本当は酷い発作があるのかも知れない。それに軽々しく「元気そう」なんて言ってしまったことが、今更ながら悔やまれた。
 
「どんな病気かは、訊かないほうがいいのかしら」
「いえ、そんな大したことじゃないですから。よかったら話のタネにお話しましょう」
 
 可南子ちゃんはお茶を一口飲むと、ゆっくりと語りだした。気持ち、俯きがちに。
 
「私、このところ凄い勢いで背が伸びているんです」
「ええ。……それで?」
「それだけですけど?」
「……オッケー。私が診断しましょう。病名は成長期です」
「そんな簡単に言わないで下さい。このままの調子で背が伸びていったら、私はいつか東京タワーと同じぐらいの身長になってしまいます」
「……いいんじゃないの? ゴジラが来たら退治よろしくね」
 
 ああ、本気で聞いた自分がバカだった。っていうか入院の理由がバカすぎる。
 
「一応訊いておくと、瞳子ちゃんは?」
「私の病気は、放っておくと髪がバネのようになってしまうんです」
「あー、はいはいそう来ると思ってたわよ。病院じゃなくて美容院いきやがれっ」
「まあ。似ているから間違えてしまいましたわ」
 
 やっぱりバカだ。トンでもなくバカ。確かに似てるけど普通間違えない。
 
「あんまり訊くきないけど、仲間外れは寂しいだろうから訊いておくわ。乃梨子ちゃんはどんな病気なの?」
「私は、もうどうしようもなく仏像が好きで――」
「オッケー。病名はフェチです。帰れ」
「それだけじゃないんです。夜な夜な髪の毛が伸びてくるという奇病が……」
「普通よフツー。呪いの市松人形だったら怖いけど、アンタ人間でしょうが」
 
 この三人のアダ名は三バカトリオで決定だ。――なんて思っていたら、談話室のそばを志摩子さんが通っていった。
 実習生として頑張っているんだな、なんて見送っていると、乃梨子ちゃんは妙に熱い視線で志摩子さんを見ている。そして志摩子さんが歩き去った後、彼女は言ったのだ。
 
「その上、女の人を好きになってしまいました……」
 
 ――本当に何なんだ、この病院。
 
 

 
 
 そろそろ由乃は、本気でこの『スイート病院』が嫌になってきた。
 新しく看護師長に就任した水野蓉子さんは、由乃の三つ編みに触れては「今時貴重だわ」とか言って頬擦りしていくし、新しく配属されてきた看護師の小笠原祥子さんは、逆に「二つ縛りの方が可愛いのではなくて?」とか言ってくるし。
 
「……病院代えたい」
 
 由乃が小さく呟いたところで、突然カーテンが開いた。
 
「なーにぶつくさ言ってるの?」
「令ちゃんっ」
 
 そこに現れたのは、他でもない令ちゃん。学校が終わってお見舞いに来てくれたらしい。
 勢い余って令ちゃんに抱き付こうとすると、由乃はその後ろの人物に気が付いた。
 
「……あら、鳥居先生もご一緒でしたの」
「ええ、廊下で会ってね。それより由乃ちゃんが元気そうでよかったわ」
 
 由乃の顔色を見て、「ふふふ」と笑う鳥居先生。
 鳥居先生は、由乃の担当医師だ。医師として由乃は信頼しているけれど、どこか気に食わないところがある。きっとそれは令ちゃんが絶大なる信頼を置いている、ということから起因しているんだろうけど、それだけじゃない気がするのだ。恐らく前世か、または別の世界では、由乃にとって鳥居先生は天敵だったに違いない。
 
「ところで由乃ちゃん。さっき『病院代えたい』って聞こえたんだけど」
「……」
 
 ああ、耳聡い。でもいい機会だろう。相談するとしたら、鳥居先生しかいないのだから。
 
「はい。病院を代えたいです」
「ちょっ、由乃!?」
「まあ、それは何故?」
「それは――」
 
 原因がいっぱいありすぎるから、どれから言おうかと迷う。
 ――その時、開けられたカーテンの向こうに、部屋に入ってくる佐藤先生の姿が見えた。
 
「由乃ちゃーん。調子はどう?」
「……まず、院長がこの人だからです」
 
 由乃は佐藤先生を指さして言った。
 
「なるほど」
「ん? 鳥居先生、なんの話?」
 
 佐藤先生はニコニコ笑いながら、由乃のベッドに近づく。そこでやっと、佐藤先生は令ちゃんの存在に気が付いた。
 
「すいません。由乃が失礼なことを言って」
「え、失礼なこと言ってたの? 由乃ちゃんって天の邪鬼っぽいから、愛情の裏返しかな」
 
 令ちゃんが佐藤先生に話しかけると、彼女は「いいっていいって」と手を振った。よくも令ちゃんの前で、そんなことを言ってくれるものだ。
 
「ところで」
 
 佐藤先生は、令ちゃんの格好をしげしげと見ながら言った。
 
「由乃ちゃんの彼氏って、女装が趣味なの?」
「なっ……」
 
 うわ、初対面だからっていきなりタブーを。
 対する令ちゃんは驚きに目を見開いて固まっている。そこで鳥居先生が、説明しますとばかりに令ちゃんと佐藤先生の間に入った。
 
「院長。彼は女性よ。由乃ちゃんの従姉で、支倉令さん」
「……鳥居先生、思いっきり彼とか言ってますけど。というか矛盾してますよ、その台詞……」
「あら、そうなの。じゃあ令ちゃんの彼女が由乃ちゃんなのね」
「佐藤先生、ちっとも話を聞いてないでしょう……?」
 
 がっくりとうな垂れる令ちゃん。由乃の心中、察してくれただろうか。
 
「……まあ院長がこんななので、私は病院を代えたいと思うわけです」
「ちょっと納得してしまうわよね」
「あはは、鳥居先生。院長に向かって酷いこと言うよね。いくら同期だからって」
「言われて仕方ないでしょう? あなたいつも蓉子に『もっとちゃんとしてよ』って怒られているじゃない」
 
 二人の会話から察するに、鳥居先生、佐藤先生、水野看護師長は同期らしい。どうでもいいけど。
 
「とにかく、私はもうこんな病院嫌なんです。紹介状書いて下さい」
「言いたいことは分かったけどね、由乃ちゃん。そんなに簡単に書けないわよ。病状だって――」
「まーまー鳥居先生。由乃ちゃんの言いたいことは分かった。私の権限で書こうじゃないの」
「えっ?」
 
 由乃は驚いて佐藤先生を見た。まさか佐藤先生が書くと言い出すとは思わなかったのだ。
 佐藤先生は颯爽と病室を後にすると、令ちゃんが帰った後、本当に紹介状を持ってきた。都内にある、この病院からもっとも近い病院だ。
 
「あの、佐藤先生」
「うん?」
「これ、本物ですよね?」
「もちろん」
「そんな簡単に病院かえさせてもいいんですか?」
「あの病院は信頼できるいい病院だよ。心臓に関する造詣も深いし、何か問題でも?」
「いえ、あんまりにも呆気なかったので」
「あら、そんなことないのに。私は由乃ちゃんがいなくなると思うと、寂しくてしょうがない。……ねえ、最後にもう一回だけ胸揉んでいい?」
 
 やっぱり聴診するフリして胸揉んでやがったか、このセクハラ院長。むしろ淫長だよ、この人は。
 
「……明日にでも出ていかせて頂きます」
「あら、振られちゃった。まあ、明日はちゃんとお見送りさせて貰うからね」
 
 佐藤先生は「また明日」と言うと、手を振って出て言った。
 由乃の身体から、ふぅと力が抜ける。
 
(何はともあれ)
 
 もうこんな病院とはおさらばだ。
 さようなら、スイート病院。ごきげんよう、新しい病院。
 きっと由乃の将来は、この病院にいるよりは明るくなるはずだ――。
 
 

 
 
 由乃が受診先を都内某病院に移して、早数週間が過ぎた。
 最初の頃は体調はよかったものの、検査の為にしばらく入院。なれない環境と体調を崩し易い時期も重なってか、退院は延ばし延ばしになっていた。
 
「由乃ちゃん、由乃ちゃん」
 
 でもこの入院生活で得たものもある。それがこの年端もいかない少女、菜々ちゃんとの出会いだ。
 由乃の病室は、またも個室が空いていなかったため四人部屋。向かいのベッドに臥せっている田中さんという中年女性のお見舞いにやってきたのが、菜々ちゃんとの出会いだった。
 
「おいで、菜々ちゃん」
 
 由乃が手招きすると、菜々ちゃんはするりとカーテンをかきわけ、ベッドの横にある椅子へと腰掛ける。
 
「由乃ちゃん、探検しよ。今度はお庭の方にいくの」
「ごめんね、菜々ちゃん。今日はちょっと体調がよくないみたいなの」
 
 由乃は力なく菜々ちゃんの頭を撫でると、途轍もなくやるせない気持ちになった。
 菜々ちゃんは、まだ物心つくかつかないかというぐらいの歳。故にその純粋さが、時々チクリと胸に刺さるのだ。
 
「由乃ちゃん……」
 
 由乃が苦しそうにしていると、菜々ちゃんはよく手を握ってくれる。心配そうな目で、「由乃ちゃんがよくなりますように」って言って。
 それが、涙が出そうなほど嬉しかった。一生懸命に祈る菜々ちゃんが、本当に愛しかった。
 
 やがて、決心は固まってくる。
 手術を受けるのだ。自分の為、そして何より、菜々ちゃんの為に。
 ちゃんと手術を受けて元気になって、菜々ちゃんの行きたいところに連れて行ってあげよう。菜々ちゃんが気が済むまで駆け回って、疲れて寝てしまうまで遊んであげよう。
 
「待っててね、菜々ちゃん」
「うん?」
「お姉ちゃん、絶対よくなるからね。そうしたら、いっぱい菜々ちゃんと遊んで上げられるから」
「ほんとう!?」
 
 そう言って菜々ちゃんは、本当に嬉しそうに笑った。
 その笑顔に、今一度誓おう。怖からずに手術を受けて、絶対に健康な身体を手に入れるんだって。
 その笑顔を、もう一度。その笑顔を、もっと見たいから。
 
 

 
 
 手術当日。
 さきほど打たれた麻酔は、徐々に由乃の意識をも蝕み始めていた。
 もやもやの視界の中、看護師さんたちが何人か集まってくる。もう暫くすれば、手術が始まるのだろう。
 
(……大丈夫)
 
 由乃はそうやって、何度も自分に言い聞かせてきた。
 絶対に大丈夫。目を閉じて、それっきりなんてことはないと。ちゃんと明日はくるんだって。
 手術というのは、本人の生きようとする意思に大きく左右するらしい。元から成功率ほぼ百パーセントの手術なのだから、それに干渉されることなんてまずないだろうけど、心の準備は万端だ。
 
「もう少しかな」
 
 その時、聞き覚えのある声がした。
 もうぼやけ始めた視界の中、その声の主は執刀医なのだと認めることができた。
 
「島津由乃さん。手術前に関係のないことを言って悪いのだけど」
 
 執刀医は由乃に顔を近づける。彫りの深い顔だ。見たことがある。きっと、名前も知っている――。
 
「今日からこの病院は、シュガシュガ病院という名前に改名します」
 
 そこで由乃の意識は、テレビの電源が消されるみたいに落ちた。
 
 

 
 
 後日のこと。
 手術は大成功だった。手術にするのに裂かれた部分は最小限に押さえられており、素人目に見ても達人技なのだと分かる。
 ……執刀医の名前を知った時は、頭痛がしたけれど。
 
「由乃ちゃん?」
「……どうしたの? 菜々ちゃん」
 
 そして今は、こうして田中さんのお見舞いがてら(というか、それを口実に)、菜々ちゃんのお相手をしている。念願叶ったというやつだ。
 
「由乃ちゃん、なんか悩んでるみたいだった」
「別にそんなことはないのよ」
「菜々は鋭いからね。由乃ちゃんも気を付けないと、ズバリと見抜かれてしまうわよ」
 
 そう言って、田中さんは呵呵と笑った。
 だけど由乃の悩みというのは、きっと菜々ちゃんでも予想できまい。
 
 お風呂や着替えの度に感じる、この違和感。
 乳頭間が、若干狭くなっているんじゃないだろうか? ――なんて。
 
 

 
 
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