■ ヘブンズ・スール
 
 
 
 
――体はお姉さまで出来ている。
 
血潮はお姉さまで、心は姉。
幾たびの戦場を超えてお姉さま。
ただの一度も妹はなく。
ただの一度もお姉さまと呼ばれない。
彼の者は常に一人 百合の丘でお姉さまに酔う。
 
故に、生涯に妹はなく。
その体は、きっとお姉さまで出来ていた。
 
 

 
 
 静謐(せいひつ)と満たされた時の中、二人の少女はただ待っていた。
 楕円のテーブルには薔薇を、顔の裏にはすぐ取り出せるように笑顔を準備して、扉が開くのを待っている。
 時は放課後。少女の片割れ、紅薔薇のつぼみ(サーヴァント)は睫を伏せ、何も言わず。もう片方、白薔薇のつぼみ(サーヴァント)もそれは同じであった。
 
「――――」
 
 螺旋のような時の流れの中に、馴れ合いを好む会話はない。少女たちが待つのは、ひたすらに己がお姉さま(マスター)のみ。
 二人のつぼみが望むのは逢瀬であり、その果てにある聖杯(ヘブンズ・スール)――すなわち、ベスト・スール賞のみである。
 
 ギシリ、と。
 朽ち掛けた板を踏む音が、停滞していた空気を振るわせる。
 耳を澄ますと――足音は二つ。それぞれの特徴は、姉である人の存在を知らせていた。
 
「すっかり遅くなってしまったわ」
 
 先陣を切って部屋に入るは、紅薔薇――小笠原祥子。長く黒い髪を憂鬱そうに揺らし、一切の無駄ない動きで椅子へと座る。
 
「ごきげんよう。ごめんなさいね、仕事が立て込んでいるのに遅れてしまって」
 
 祥子の後を追うように姿を見せたのは、白薔薇こと藤堂志摩子。楚々とした一連の動作は、流石日舞の名取というところか。流れるような身の運びで、指定席となっている椅子へと腰を下ろした。
 
「――――っ」
 
 それが、合図だった。
 
「今、お茶を淹れますので」
 
 本日、黄薔薇姉妹は部活で遅れる。役者は揃った。
 ここで紅茶を用意することこそが、紅薔薇のつぼみ(サーヴァント)・福沢祐巳と、白薔薇のつぼみ(サーヴァント)・二条乃梨子に課せられた使命である。
 
 館の中でも、あくまでスカートのプリーツを乱さない。身体の運びはひたすら流麗に、足音さえも忍ばせ、しかし流しに肉薄する速度は神速。
 
 ――そうして、祐巳と乃梨子は対峙した。
 
「退きなさい。白薔薇のつぼみ(サーヴァント)。お茶は私が淹れる」
「ぬかせ、紅。志摩子さんのお茶は、この二条乃梨子が淹れずして誰が淹れるという?」
 
 己がお姉さま(マスター)にお茶をお出ししたいという想いは、五分の割合を以って伯仲する。
 互いに引けぬ、その状況。それこそが闘いを呼ぶ――。
 
「――もらった!」
 
 乃梨子の手が、放擲(ほうてき)される弓矢のごとき速さで繰り出される。
 獲物を掴み殺さんばかりの、屍蝋(しろう)めいたその五指。しかしその手が向かう先は、祐巳の想像していたポイントとはかけ離れていた。
 
「血迷ったか、白」
 
 乃梨子の手が掴んだものは、茶葉の缶ではなくティーバッグ。
 そのティーバッグがカップに落とされるのを見て、祐巳は慇懃(いんぎん)(わら)った。
 
「貴様は知らんだろうがな――」
 
 乃梨子は勢いよくカップに湯を注ぐと、蓋を被せる。
 
「志摩子さんは六時間目、体育だった。きっと喉が渇いていることだろう。故に、迅速にお茶を出すことこそが忠義」
 
 蓋をすること四十五秒。ティーバッグに置ける最適の蒸らし時間を経て産声を上げたそれは。
 
最速なる(ティー・オブ)――」
 
 紅い芳香とともに、姿を現す――。
 
「――紅茶の淹れ方(インスタント)
 
 その紅茶は速い故に質素。香り立つ湯気に気品はなく、ただ立ち上るのみ。
 紅茶としての下層。本格的な紅茶とは歴然の差であるが。
 
「どうぞ」
「ありがとう。乃梨子」
 
 しかしそれは、姉の求めるものとあれば話が違う。安く凡庸な手段であっても、姉が満足するならそれは無双の一手。
 そこに志摩子の笑みがあったのなら、その時点で勝敗が決するのだ。
 
 志摩子の指先がカップを滑り、湯気が前髪を揺らす。白いカップと朱い唇が、境界線を失くす――。
 
「――熱っ」
 
 そして。
 緊張した空気に響いたのは、小さな叫びだった。
 
「し、志摩子さん!?」
「……大丈夫よ。少し紅茶が熱かっただけだから」
 
 志摩子はチロリと舌を出すと、妹に向かって微笑(わら)う。
 しかしその笑みは、勝利の一手には程遠い――。
 
「所詮はその程度か。よもや喉の渇いている者への紅茶に、フゥフゥをせずに出すとはな!」
「くっ……!」
 
 祐巳の哄笑が、乃梨子の鼓膜を突き刺す。
 志摩子の趣味は渋い。年寄りじみていると言っていいだろう。しかしその舌は、年配者のように熱湯に慣れてはいないのだ。
 
「紅に染まれ。白薔薇のつぼみ(サーヴァント)
 
 乃梨子の紅茶は、不発に終わった。ならば、後はとどめを刺すのみ。
 祐巳は茶葉の缶を持ち、ティースプーンで適量の茶葉を取り出す。
 
投影開始(トレース・オン)――」
 
 祐巳は祥子の方を見遣ると、その表情を凝視する。
 頬の状態から、目尻の筋肉の引き締まり具合。それら全ての情報から、今のお姉さま(マスター)に必要な紅茶の要素を取り出す。
 あの難しそうな表情と、物憂げな睫。こういう時、祥子の飲みたがる紅茶の種類を、祐巳は知っていた。
 
「――投影完了(トレース・オフ)
 
 判った。今の祥子には、渋さ押さえ目の紅茶が最適だ。
 純白のティポットに落ちる茶葉と、勢いよく注がれる湯――。
 
全璧なる(ゴールデン)――」
 
 白薔薇のそれが矢継ぎ早に繰り出される斬撃なら、紅薔薇のそれは一撃必殺の大技。
 重畳(ちょうじょう)たる経験に裏打ちされたジャンピングの時期と、茶葉の量。それは如何に犀利(さいり)な乃梨子を以ってしても、到達しえぬ極みの域――。
 
「――紅茶の抽出法(ルール)
 
 立ち昇る芳香は飛竜如く、サロンの空気を陵駕する。
 紅茶に含まれる酸素量、渋み、まろやかさ、そしてその香りは至高。
 全璧なる紅茶の抽出法(ゴールデンルール)こそ、迅速なる紅茶の淹れ方(ティー・オブ・インスタント)の絶対値――。
 
「――――っ!」
 
 良くない。アレは良くないものだ。
 乃梨子はその芳香を嗅いだ瞬間、冷や汗を流した。
 アレは紅茶であって、紅茶以上でも以下でもない。それでもアレは、乃梨子にとって良くないものだ。
 
 祐巳が淹れた、最高の紅茶。――アレは精神を、魂を喰らう。
 負ではなく、正の力。純粋な魅力で以って、飲み手を支配するだろう。なすなわちそれは、乃梨子の敗北を意味する――。
 
「どうぞ、お姉さま」
 
 雅言を詩吟(うた)うような口調とともに、差し出される最強の紅茶は。
 
「……祐巳」
 
 祥子の苦渋に満ちた声と併せて、受け取られた――。
 
「あなたね、何分待たせれば気が済むの。お茶は乃梨子ちゃんに任せておけばいいのに」
「すっ、すいません……!」
 
 祐巳は祥子の一喝に、なす術もなくひるむ。
 祥子は言いたいことを大声で言えてすっきりしたのか、受け取った紅茶を一口飲むと、恐縮している祐巳に少しだけ頬を緩ませて言う。
 
「まあ、紅茶は美味しいけれど……」
 
 しかしそれは、勝利の笑みではない。
 そう、この場に勝者など居ないのだ。居るとしたら、祐巳という敗者だけ。
 
「流石は最高級の天然ボケを持つつぼみ(サーヴァント)だ。フゥフゥするのも忘れているぞ?」
「くっ……」
 
 乃梨子の口端に乗るのは、アイロニカルな笑み。
 それに祐巳が反論を口にしようとした時だ。――部屋の扉が、大仰に開かれたのは。
 
「あー、疲れたー。……っと、みなさん、お待たせしました」
「もう、由乃。言う順番が逆でしょう」
「――――」
 
 黄薔薇のつぼみ(サーヴァント)・由乃を先頭にして入ってきたのは、前回の聖杯戦争の勝者――黄薔薇姉妹。
 聖杯(ヘブンズ・スール)、すなわちベスト・スール賞を勝ち取った、最強の名を欲しいままにする姉妹である。
 
「あ、紅茶淹れるね」
「うん、お願い」
 
 由乃はそう告げると、流しに立つ。そして手にしたものは、乃梨子と同じくティーバッグ。運動の後だから、速く飲みたいというのは、祐巳も理解はしたが――。
 
「ふんふんふーん」
 
 由乃はカップにお湯を注ぐと、十秒ほどティーバッグを泳がし――すぐにそれを取り出した。
 
「な、何だと――!?」
 
 祐巳と乃梨子は、同時に驚愕の声を上げる。
 あのように紅茶を淹れれば、渋みが強く、芳香の弱い紅茶が出来るだろう。
 その紅茶の味は、祐巳の紅茶は勿論、乃梨子の紅茶にさえ劣る。
 
「はい、どうぞ」
 
 しかし由乃は、躊躇いなくそれを。
 
「ありがと、由乃」
 
 令に、渡した――。
 
「うん、美味しいよ」
「なっ――!」
 
 令の顔に浮かぶのは、最高級の笑み。柔らかく包み込むむような、優しい視線が由乃に向けられている。
 その笑みこそ、姉が妹に向けるその笑みこそ、祐巳と乃梨子が欲したもの。しかしそれは、黄薔薇姉妹の間にしか存在しない。
 
「負けた、――のか。私は」
 
 祐巳と乃梨子は、同時に床に伏した。
 もう立つ気力も、自身を支えるだけの力も残っていない。
 
 昨年の秋の暮れ、由乃は破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)により姉妹関係を解消した。
 その影響はその他一般生徒にまで悲劇をもたらしたというのに、そんな中由乃は強化の魔術によって自らの心臓を強化。再び令と姉妹の契約を果たした。
 
 ――その絆は、これほどまでに強いというのか。
 
 最愛の妹が淹れてくれた紅茶なら、どんな紅茶だって美味しい。
 黄薔薇姉妹の絆は、そんな風にできている。それに立ち向かおうと言うのが、そもそも無謀だったのか。
 
「このまま、消えるというのか。後一歩だったというのに」
 
 祐巳と乃梨子の身体が、空気へと溶け始める。
 聖杯戦争に敗れたつぼみ(サーヴァント)に残された道は、現世を去るのみ。
 青白い燐光が、二人を包む。己が在りし場所へと帰すため、その光はゆっくりと二人の体へと入り込んでいく。
 
 それを祥子と志摩子は、生温い目で見守っていた。
 
「……何やってるのかしら、あの子たち」
「さあ? さっきから妙に仲がいいですね」
「ねえ、いいから会議を始めましょう」
 
 薔薇の館に、「そうね」と呆れた声が木霊する。
 祐巳と乃梨子が『今年の新聞部はベスト・スール賞などを決めるアンケートを実施しない』と知ったのは、それから三日後のことであった。
 
 

 
 
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