■ 一対の平行線
 
 
 
 
 ――目の前を過ぎる三種類の制服と、私服の中高生。若しくは、中高年の男女。
 寄せては返す人の波を見ていると、不意にその世界から切り離されたかのように感じるのは何故だろう。
 誰も彼もに忘れられ、ここにいる理由すら忘れてしまう。そんな逆さまの排他的錯覚。昔はこの感覚を、居心地がいいだなんて思っていたものだが。
 
「……はあ」
 
 私は溜息を吐くと、市民体育館に沿え付けられている時計を見た。
 一時四十三分。中途半端な時間だ。
 時計、というのは、いつも現実を教えてくれる。それは朝の目覚めであったり、授業の終了であったり、またここにいる理由であったり。
 そう、ここにいる理由。それは黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)の応援、それだけである。
 部外者である私が、剣道部の応援に駆けつける理由は実に明瞭だ。
 
『あ、可南子ちゃん。これから部活?』
 
 廊下ですれ違った黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)にそう話しかけられ、軽く話をした。その時に黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)は近々交流試合があると聞き、「よかったら応援にきてよ」、「はい、部活がない日でしたら」。――で、今現在に至るというわけである。
 
「……」
 
 周りを見回しても、見知った顔はない。黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)に会えたら一声かけておこうと待っていたが、流石にこの時間に外をうろついていることはないだろう。
 私はもう一度時計を見上げる。一時四十五分。いい時間だ。
 人並みに乗って市民体育館へ入ると、観客席へと向かう。東西にある玄関から入ってきた人たちが合流するのが、観客席の入り口である。
 
「あら」
 
 ――と。そこに見知った顔が一つ。
 
「あ。……ごきげんよう」
 
 その見知った顔とは、松平瞳子。可南子のクラスメートであり、演劇部であり、縦ロール。
 そして、リリアンにおいて最も人間関係の悪い人間。
 
「……ごきげんよう」
 
 最も人間関係が悪い、というのは、彼女にとってみても同じこと。それなのにお決まりの挨拶をしてくるものだから無視も出来ず、私もその挨拶を返した。
 瞳子は、分別するならどうでもいい人間。しかし彼女から見れば私はさぞ憎い存在であろうことを、私自身自覚している。それなのに瞳子がわざわざ話かけてくることは、意に解せる言動ではない。
 
「可南子さんも応援に?」
 
 瞳子はクラスメートと話す時と同じ声色で、私に話しかけてくる。凄い違和感だ。私と話す時はいつも、棘を孕んだ緊張感のある声をしていたというのに。
 よくよく見てみれば、表情も違う。平素の嫌悪感を顔に塗りたくったような顔ではなく、ひたすら無表情。人を忌避するような表情でなければ、慇懃(いんぎん)さもない。
 思いだしてみると、昨今の瞳子は私にきつく当たらない。学園祭が終わったぐらいだったろうか。私の毒が抜けると同時に、瞳子の視線の鋭さがなくなったのだ。正直、瞳子に対して興味を持っていなかったから、今頃思い出したことなのだが。
 
「そう。黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)の」
黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)の? リリアンではなくて?」
「そうよ」
 
 そう。私はあくまで黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)個人を応援しにきたのだ。
 思えば黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)は、山百合会幹部の中で一番私と近い位置にいたのではないだろうか。
 スポーツを嗜む者としての風格は、おそらくリリアン一。勝負を知っている人間だけが持ちえるあの雰囲気は、純粋に尊敬できる。バスケ部に入部して昔の感覚を思い出すにつれ、切にそう感じるのだ。
 
「……そう」
 
 瞳子はよく理解できないといった顔をしながら、歩き出す。
 会話は終わった。ならば私もこの場から移動するのみなのだが、当然向かう先は瞳子と一緒になる。
 
(何だ、これ……)
 
 観客席のエリアに入るなり、私はそう思わずにはいられなかった。
 人、ヒト、ひと。とにかく人が多い。流石に満員電車とまではいかないが、交流試合にしては観客が多すぎる。
 見回しても、殆ど席が空いていない。遠目に白薔薇姉妹が確認できたが、周りに席が空いていないし、何よりあの二人の邪魔をすることは憚られる。
 
「……立ち見しかないのかしら」
「あら、あそこに空きがありますわよ」
 
 私の独り言に、瞳子は律儀にも言葉を返してくる。
 あそこ、と指差された方向を見れば、確かに席が空いている。丁度、二つ。
 
「……」
 
 よく探せば、一つだけ空いている席もあった。しかし、わざわざ遠く、しかも人に挟まれるようなところを選ぶ理由はない。
 私が二つ空いた席の片方に座ると、瞳子はそれがさも当然であるかのように隣に座った。まあ、瞳子が嫌でないのならどうでもいい。
 所詮、私たちは一対の平行線なのだ。
 お互いがどう思っていようが、平行線が交差することはない。必要以上に干渉しようとしなければ、伯仲も相反もしないのだ。
 
 私はおもむろに腕時計へと視線を落とした。
 一時五十五分。間もなく、試合が始まる――。
 
 

 
 
 さて。
 私が剣道部の交流試合を見にきたことには、もう一つ理由がある。
 それは異なるスポーツに触れ、それによってモチベーションが上がればいい、というものだったのだが――。
 
「やーー!!」
 
 剣道というのは、想像していた以上に激しいスポーツなのだと思い知らされた。
 始め、の合図の後に出てくる気合の声は、まるで悲鳴。打ち込む度に「面」とか「小手」とか言っているのだろうが、ほとんど叫び声だから元の言葉が分からない。
 ぶつかり合う竹刀の音は軽く、しかし鋭い。踏み込んだ足が床を打つ音は、さながら太鼓のようだ。
 
「逆胴なんて、芸が細かいわ」
 
 審判の上げる赤い旗を見ながら、瞳子が言った。
 
「瞳子さん、剣道をやっていたの?」
「いいえ。従兄がやっていたから、多少知っているだけですわ」
「そう……。あ、ねえ、あれは何をしているの?」
「合議、ですわ。胴が入った時、一人の審判が旗を下に向けて交差させていたでしょう? あれは胴が無効だったと主張している合図で、その審判が物言いをつけたのよ」
「それで、結局赤の旗が上がったということは?」
「リリアンに一本、ということ」
 
 なるほど、と顎に手をやり頷く。こんな時、少しでも剣道の造詣に深い人間がいると助かる。
 
「ねえ、あれはどうして相手に旗が上がったの?」
「あれは出小手。こちらからは見え難かったですけど、ちゃんと一本入っていましたわ」
 
 ふと、そこでまた違和感。私と瞳子は、かつてこれほどまでスムーズに話をすることができたことがあっただろうか。
 それが本当に不思議だった。私は以前の協調性の欠片もない行動に、一言の詫びも言っていない。瞳子も目くじらを立てて痛罵を浴びせてきたり、過剰な対抗心を燃やしていたことに関して、何の申し開きをしていないのだ。
 何か例えるものがあるとすれば、それは『戦友』のようなものなのだろう。
 私たちは宿敵同士いうほど近い存在ではなく、友達ほど馴れ合ってもいない。ただ同じことに対し、心を燃やしていた。私たちを繋ぐものがあるとしたら、それだけしかない。
 
「礼」
 
 選手達は一列に並び、審判の声と共に頭を下げる。
 試合は終わった。訊いて確かめる必要もないぐらいの大勝だ。
 
「よかったわね」
「は?」
 
 私が周りに合わせて拍手していると、瞳子は唐突に言った。
 
黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)が勝って」
「――ああ」
 
 そうね、と呟いた私の声は。
 自分でも聴いたことがないぐらい、優しい色をしていた。
 
 

 
 
 試合が終わって市民体育館を出ると、空が仄かに赤みを差していた。どこか遠くでカラスが鳴き、その声は高く響く。
 結果で言うなら、リリアンは決勝で負けた。しかし、黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)は全勝だった。
 あくまで黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)の応援に来たのだから、それは最良の結果だったのだろう。それでも少し悔しさが残るというのは、やっぱり私はリリアンの生徒、ということだ。
 
「はぁ」
 
 試合の緊張感と狭苦しい観客席から開放されて、私は大きく息を吐く。何故か今も同行している瞳子は、チラと少しだけこちらを伺い、すぐに顔の向きを戻した。
 まあ、収穫はあったと言っていいだろう。あまり触れたことのなかった剣道は新鮮だったし、やっぱり黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)は尊敬できる人なのだと再認識した。
 
「可南子さん」
 
 ちょうど市民体育館を囲む公園を出たところで、瞳子が言った。
 
「送っていきますわ。乗って下さいまし」
 
 瞳子がブルンと縦ロールを揺らして示した方角には、一台の車。その車のボンネットについたスリーポインテッドスターは、高級車の証に違いなかった。
 
「いいえ」
 
 しかし、運転手付きの車があるからと言って、私を送っていく理由にはならない。借りを作るようなのが嫌なのではなく、そこまでしてもらう理由がない。
 私たちはたまたま応援という理由が重なって、たまたま一緒にいただけ。それは本当になんでもない、一対の平行線。私は私の道を行くし、瞳子も瞳子の道を行く。レールが重なることなど、ありえない。
 
「それじゃ」
「――待って」
 
 そのまま歩き出そうとすると、瞳子は私の腕を掴んで言った。
 
「お願いだから、乗っていって。帰途に着く友人を理由もなしに見送るなんて、松平の恥です。可南子さんは『送ってもらう理由がない』と考えているのでしょうけど、ここは私のわがままを聞くと思って」
 
 瞳子の推測は、当たり。そして、彼女は私の次の台詞も予想できているのだろう。
 
『どうして私があなたのわがままを聞かなければいけないの?』
 
 きっとそう言っただろう。以前の私なら、間違いなく。
 
「……分かったわ」
 
 しかし、私がその台詞を口にすることはない。
 私は、変わったから。もうネガティブな思考に囚われたりしないし、拒み続けることは止めたのだ。
 私は体育館にでも入るような気の軽さで、車の後部座席に座る。瞳子は小さな声で「ありがとう」と言ったけれど、聞こえていないフリをした。
 
 私たちは、一対の平行線。
 交差することはなく、伯仲も相反もしない。
 本当に、ただの平行線。
 
(帰途に着く友人、ね――)
 
 けれどこんな風に、歩み寄ることは出来るのかも知れない。
 発車と同時に、流れ出した景色。
 車窓に映り込んだ『友人』は私と同じように、視線を外へと向けているのだった。
 
 

 
 
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