■ アンニュイ! 空に浮かんだ雲はゆっくり流れ、窓から吹き込む風もまた緩やか。太陽はそれほど強く照るわけでもなく、そこかしこに優しい日溜りを作っている。 「のどかねぇ」 「のどかだねぇ」 十一月も終わりにさしかかった吉日。放課後になって薔薇の館に足を運んだ祐巳と由乃さんは、これでもかというぐらいダレていた。いや、『ダレる』というのはリリアンに相応しくない表現だから、何となく無気力とでも言おうか。大して、意味は変わらないけど。 今まで色々ありすぎた反動と言えばいいのか、さしあたって仕事のない日というのは、往々にしてヒマなのだ。 「……お茶がなくなったわ」 「私も」 「……お茶は飲みたいけど席は立ちたくない人ー」 「はーい」 由乃さんの呼びかけに、二人同時に手を上げた。 「じゃんけん」 「ぽん」 由乃さんはグーで、祐巳はチョキ。祐巳の負け。 「仕方ないなぁ」 緩慢な動きで席をたつと、ティーポットに入れておいた紅茶をカップに注ぐ。今日は誰が来るかなんて分からなかったから、そんなに量は作っていない。二つのカップに紅茶を注ぐと、ポットにはもう一人分ぐらいしか残らなかった。 「はい、紅茶」 「ありがと」 二人同時にカップに手をかけると、二人同時にカップを上げ、二人同じぐらいカップを傾け、二人同時に一口目を飲む。そして、カップを置いて一言。 「のどかねぇ」 「のどかだねぇ」 祐巳たちの座った場所からは、窓が見える。その向こうには、青い空。 「ねえ、祐巳さん」 「何、由乃さん」 「どうして空は青いのかしら」 「さあ?」 「宇宙はどこまで続いているのかしら」 「さあ?」 「祐巳さんはどうして、その髪型なのかしら」 「さあ?」 「ちょっと祐巳さん、自分のことでしょ」 そんなこと言ってもねぇ、と顎に手をやる。子供のころからずっとこれで、髪を結っていないと落ち着かないというか。 最初は、お母さんが結ってくれたんだと記憶している。それで祐麒と姉弟喧嘩をするたびリボンを解かれて、また祐巳が怒って、と言ったやりとりも。 ああ、懐かしき幼少のころ。 「理由はないかな。でも祥子さまがよくリボンを直してくれるから、いいかなって」 「うわ、のろけられちゃった」 「……そう言う由乃さんは?」 祐巳が問うと、由乃さんは顎に手をやり考える。さっきの祐巳の行動の、リプレイ。 「分かんない。気付いたら伸ばしてて、切る気にもなれなかったし。学校の時は邪魔だからこうしてるだけよ」 「えー、もっと決定打みたいなのはないの?」 「うーん。理由をつけるなら、令ちゃんが長い方が似合うって言ってくれたから?」 「うわ、のろけられちゃった」 祐巳も、さっきの由乃さんの台詞をリプレイ。 由乃さんは少しだけ恥ずかしそうにゴホンと咳払いすると、紅茶を一口飲む。併せて祐巳も、紅茶を一口。 「のどかねぇ」 「のどかだねぇ」 本当は考えなくちゃいけないことがあるのに、それが頭の先から抜け出ていく錯覚。こういうのをアンニュイと言うのは知っている。しかし、抜け出し方は知らない。 考えてみれば。 この麗らかな天候も、祐巳たちの状態に関与しているのはないか。何でもできそうな天気だからこそ、何をやっていいか分からない。そもそも、やることがない。 「祐巳さんはさ」 由乃さんが、椅子の背もたれにしなだれかかりながら言った。 「うん?」 「もっと色んな髪型にしてみないの?」 なんだ、まだ髪型の話を引きずっていたのか。 祐巳もまた椅子にしなだれかかりながら、答える。 「出かける時は変えたりするけど、由乃さんは?」 「私は色々できるわよ、例えば」 そう言うと由乃さんは椅子から身を起こし、おもむろに三つ編みにした髪を手に取る。目に力が戻ってきていることから、アンニュイな気分からは抜け出しつつあるらしい。 由乃さんはリボンを解き、先を結っていたヘアゴムを取ると、ふぁさぁ、と髪を広げた。 「うわぁ」 細い髪が風に踊って、何だかそこだけ別世界に見えた。まるで人魚姫みたい。 「えっと、何て言うんだっけ。その髪」 「ソバージュヘア?」 「そう、それ。いいなぁ、ゆるゆるのウェーブヘア」 祐巳はいいなぁ、いいなぁと繰り返しながら、少し椅子を引いて由乃さんの髪を弄る。波打った髪に指が滑って、中々楽しい。 「長いと色々アレンジもできるのよ」 由乃さんは得意になって、先ほどまで使っていたヘアゴムで髪を結う。祐巳が結っているより少しだけ高い位置で、両サイドの髪を一房ずつ。 するとどうだろう。ふわっと髪の面積が広がって、随分と派手になった。もうちょっと色が抜けていれば、そこいらのアイドルに見えなくもない。 「うわ、すごいすごい」 「祐巳さんもやってみたら?」 「えー。どうしよう。ちゃんとそうなるのかな」 「ま、ものは試しよ」 祐巳が迷っていると、由乃さんはひょいとリボンを解いてしまった。こうなると『まあいいか』という気分になって、祐巳は自分でヘアゴムを取る。 「うーん。祐巳さんの場合、三つ編みにするというより編みこんだ方がいいのかな」 「お任せします」 「ん、任せなさい」 それからどれだけの時間を要しただろうか。由乃さんは祐巳の回りをせかせか動き回って、短い部分以外すべてを三つ編みにしてくれた。 「さ、見てみて」 由乃さんが手渡してくれた手鏡で、身嗜みをチェック。するとそこには――。 「メデューサ?」 もしくは、偽レゲエ風。三つ編みだらけの意味不明な髪型が、鏡の中の世界に存在している。 「あーん、何これ」 「暫くして解いたら、ふわふわヘアーの出来上がり」 「そう……なのかな?」 髪質が硬いから、クセがつくまで相当時間がかかると思うけど。 いや。それ以前に、ふわふわになってもすぐ髪の毛を洗っちゃって、元通りになってしまうだろう。 「……のどかねぇ」 「……のどかだねぇ」 とりあえず、由乃さんに合わせて紅茶を一口。 流石にこのヘンな髪型で、外を歩く勇気はない。笑うか、呆気に取られるか。そう考えると、由乃さん以外の人に見られるのも億劫だ。 もう解いて元通りにしようかな。――何てことを考え出した瞬間に、無情にも部屋の扉は開かれる。 「ごきげんよ……う?」 志摩子さんは扉を開ける途中で動きを止め、目をまん丸にさせた。 「……ごきげんよう」 「ごきげんよう、志摩子さん」 そして、考えること約三秒。志摩子さんは何事もなかったかのように流しへ向かい、ティーポットに残っていた紅茶をカップに注ぐ。 「志摩子さん、それもう温くなってると思うんだけど」 「ええ、構わないわ」 軽く首を振って答えると、志摩子さんは自分の席へと着く。 そして紅茶を一口飲んでから、やっと祐巳たちの方を見る。 「それで、二人とも」 「何でそんな髪型してるの? って訊きたいのよね」 「……ええ」 「髪型の話してたら、成り行きでこうなった」 まあ、確かにそうだけど、ちょっと説明不足たろう。 案の定志摩子さんは、疑問符を浮かべながら可愛らしく首を傾げている。 「あのね、どうして今の髪型なのかって話でね、髪が長いとこんなアレンジができるとか、私がウェーブヘアが羨ましいなぁとか言っていたら、こうなったの」 「大体事情はわかったわ」 明らかに祐巳の説明も分かりにくかったけど、志摩子さんは分かってくれたらしい。志摩子さんは小さく頷くと、祐巳と由乃さんを交互に見る。 片や偽レゲエ風、片やなんちゃってアイドルヘアー。三人の内二人がそんな感じだと言うのに、明らかに祐巳たちの方が浮いていた。 「……祐巳さん」 「……由乃さん」 不意に交わされるアイコンタクト。 ええ、分かってますとも。私たち親友だしね。 視線で言の葉を交わすと、二人一緒に席を立つ。 「さて、志摩子さんはどうしよう」 「やっぱりポニーテールが決まりそうだけど、ちょっとありがちだよね」 「あ、あの、二人とも?」 祐巳と由乃さんが両サイドを固めると、その中心である志摩子さんは肩を強張らせた。 「志摩子さん」 「仲間外れにはしないからね」 祐巳は右肩、由乃さんは左肩にポンと手を置き、言う。 ゆっくりと椅子を引いて立ち上がろうとする志摩子さん。しかし、そう簡単には逃がさない。 「志摩子さん、覚悟しろー」 「きゃっ」 「ほーら、大人しくしないとヘンな髪型にしちゃうわよ」 祐巳は聖さまがよくしていたように、志摩子さんの後ろから抱き着く。これで椅子からは立ち上がれない。 「え、え? 由乃さん? 祐巳さん?」 その間に由乃さんが、さっきまで祐巳のしていたヘアゴムで志摩子さんの髪を結う。志摩子さんは身体を捩って抵抗したけど、全然本気の力じゃなかった。 「もう、仕方ないわね」 そう言って大人しくなったから、二人がかりで志摩子さんの髪を結った。 由乃さんと同じく、ちょっと高い位置で一房ずつ髪を出す。ぴょこんと突き出した髪が普段の志摩子さんらしくなくて、何だか不思議なアクセントになっていた。 「はい、志摩子さん」 由乃さんから手鏡を受け取った志摩子さんは、マジマジと鏡を覗きこむ。 まあ、と目を見開いて見詰めた後、今度は祐巳と由乃さんを交互に見た。 「……ふふっ」 「あら志摩子さん。どうしてそこで笑うの」 「由乃さんだって、笑っているわ」 「うん、そうそう」 「そう言う祐巳さんだって」 志摩子さんを筆頭に、由乃さん、祐巳へと笑いがうつって来る。 ふふっ、が「くすっ」になって。そのうち「あははは」なんて声を上げて笑って。 いつの間にか三人揃って、お腹を抱えて笑っているのだった。 「ごきげんよ……う?」 乃梨子は部屋の中を見た瞬間、我が目を疑いたくなった。 いつも通りの薔薇の館、いつも通りの会議室に、何かヘンな髪型の人たちがいる。 「ごきげんよう、乃梨子」 「ごきげんよう、乃梨子ちゃん」 次々挨拶を放ってくる先輩方に、はぁと生返事を返す。 一体、何があったというのだ。片や三つ編みメデューサ、片や威嚇するコブラ。 ――ああ、でも。 ピョンピョンと突き出すように髪を結った志摩子さん、可愛い。まるでウサギさんみたい。 「はっ……」 ついついボケっと見てしまっていると、ヘンな髪型の二人――つまり祐巳さまと由乃さまが、にやにやと乃梨子の方を見ていた。 不覚。志摩子さんに見惚れているところを見られるなんて、なんたる不覚。 ウケ狙いか何なのか知らないが、こうなったらマルッと流させてもらおう。 「お茶のお代わり、いかがですか?」 乃梨子がいつも通りを装って言うと、祐巳さまと由乃さまはあからさまに『つまらないの』といった表情になる。そうそう見世物になって堪るかというのだ。 「それじゃ、貰おうかしら」 「はい、お姉さま」 微笑んで、返事。乃梨子はヘンな髪型の先輩方を尻目に、流しへと向かう。 紅茶を淹れていると、後ろから「サービス精神が足りないわね」なんて聞こえてきたけど、全部聞こえていないふり。それからボソボソと何か相談していたけど、その話し声は本当に聞こえなかった。 (それにしても、何やってるんだろ……) 志摩子さんたちも、それに乃梨子も。 素直に『何してるんですか』って訊いた方が、幾分気持ちが楽だったろうけど、もう遅い。完全にタイミングを逃してしまった。 「乃梨子ちゃん」 ――と。そんなことを考えていた時だ。 ふと両肩に手が置かれたのは。 「ふふふふふ」 頭を動かして確認して見れば、右には祐巳さま。左には由乃さま。 二人はそれぞれ乃梨子の肩に手を置き、不敵に笑っている。 (……嫌な予感) いや、予感という確定だろう。近い未来に、乃梨子はヘンな髪型にされてしまう。 「乃梨子ちゃん、覚悟しろー」 「きゃっ」 「さあ、乃梨子ちゃんはどんな髪型がお望みかしら」 先輩二人に捕捉され、身動きが取れなくなる。 多勢に無勢。どうしようもできなくなって、この場で唯一乃梨子の味方である(はずの)志摩子さんに視線を投げた。 「お、お姉さま、助けて」 しかし志摩子さんは、聞こえているはずなのに微笑むだけで。 「……のどかだわ」 窓の外に視線を向けて、心底幸せそうに呟いた。 「のどかねぇ」 「のどかだねぇ」 それに続くは、二年生二人。 違う、それだけは絶対に違う――と。 髪の毛をありえない方向に結い上げられながら、乃梨子は心の中で叫ばずにはいられなかった。
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