■ Heart's piece
 
 
 
 
 その願いが、叶うことはない。
 いつか粉々に砕かれ、散らばるのだろう。
 だが決して、それを広い集めるような真似はすまい。
 
 

 
 
 暦の上では冬になって、もう久しい頃。
 朱い陽は昏暮の時を告げ、M駅の改札機は忙しなく稼動を続けている。雑踏と喧騒が大雨みたいに降っている、そんなM駅の改札口の前。
 
「お姉さま」
 
 祐巳はそっと、私の制服の袖を引っ張った。
 
「寄り道。して行きませんか」
 
 火曜日の放課後。特に変わったことのない、平凡な平日。
 私は定期入れを制服のポケットに仕舞いながら、今日の予定の思い浮かべる。頭の中のスケジュール帳は、今日のページにおいては白紙。念のため本物のスケジュール帳を見ても、これからの予定はない。
 
「別にいいけれど。どうしたの、急に」
「何となくです。このところ、忙しかったから」
 
 祐巳の答えは曖昧で、それでも嫌という言葉は喉を通さない。確かにここのところ学園祭だ何だと忙しくて、祐巳との時間は減る一方だった。このぐらいの可愛い我がまま、断る理由もない。
 私が『どこに行くの』と訊く前に、祐巳は改札前から歩き出す。いつも祐巳が乗り換えるバスがとまるバス停。丁度そこに停まっていたバスに乗ると、間もなくして発車する。
 
「一体、どこへ行くつもり?」
「ついてからのお楽しみ。ってやつです」
 
 バスに揺られ、十分少々はしただろうか。祐巳が降りるはずのバス停よりの前のバス停で、手を引かれるようにバスから降りる。
 そこからは祐巳の案内に従うがまま、ただ歩いた。普段気にならないカラスの鳴き声や車の走り去る音が、やけに大きく聞こえる。
 一体、どこにいくつもりなのだろうか。どこかの店に寄りたいのかと思っていたが、それにしては閑静に過ぎる。コンクリートの塀と電信柱、楚々とした住宅だけが視界の端を流れていき、もう五分は歩いたかという時だった。
 
「ここです」
 
 祐巳はそう言って、右に折れる。車止めの鉄柱の向こうに見えたのは、滑り台と砂場、それにブランコと丸太の椅子。そこは背の低い木々に囲まれた、小さな公園だった。
 
「どうして?」
 
 それを視認して最初に出てきた言葉は、純粋な疑問だった。何も無いただの平日に、何も特別なものが無い公園。普段からどこに行きたい、何がしたいという欲を発することが少ない祐巳が、わざわざ手を引いて連れてきた場所にしては、何も無さ過ぎる。
 
「強いて理由があるとすれば、ここはもうすぐ無くなってしまうからなんです」
 
 祐巳の話した理由は、こうだ。祐巳は小さい頃、よくこの公園で祐麒さんと一緒に遊んだらしい。時間を見つけてはここまで足を運んで、夕暮れまで走り回った。しかしそんな思い出のあるこの公園も、一ヵ月後には住宅地へと変わり、どこか別の場所へ移設されるらしい。
 
「私、この時期の公園の景色が、大好きだったんです。それで、それが見れなくなる前に、一度お姉さまに見て欲しくて」
「いいのよ」
 
 言いたいことは、解った。祐巳はロマンチストだということも、それは以前から知っていたことだけど、解った。
 
「確かにいい景色ね。好きになれそう」
 
 私は木の枝から漏れる陽に目を細めながら、呟く。無為に歩き出し、丸太のイスの前までくると、ハンカチを敷いて座る。そして、祐巳もまた。
 
「聞かせてくれる? ここにはどんな思い出があるのか」
 
 私が微笑んで言うと、祐巳は破顔して「はい」と頷く。
 そこからが、少し長かった。
 まずこの公園を見つけるまでの経緯と、帰り道が分からなくなって迷子になった話。砂遊びの道具を失くして探し回っている時、野良犬に追いかけられた話。祐巳の座っている丸太の椅子に躓いてこけ、家に帰るまで泣きそうで泣かなかった祐麒さんの話。
 私はその話の一つひとつを聞くたび、ハラハラして、安心して、笑って、少しだけ羨ましくて。――そう、確かに羨望していた。
 私には、そんな思い出はない。幼少期の記憶がないのではなく、『思い出』がないのだ。時に苦く、切なく、でも笑って話せるような思い出が。
 
「もう。時たま無茶をするのは、昔からなのね」
 
 聞いているだけでその光景が思い浮かぶような、綺麗な思い出。それがただ羨ましい。祐巳の笑顔の向こう側にある情景が、欲しい。
 欲しいと思った分だけの、心の間隙。それでも満たされていくのは何故なのだろう?
 それは多分。祐巳が時折見せる、恐ろしい程鋭い感性で、私に必要なものを察知したから、だと思う。最近の祐巳は、こと私を扱う手練に関して、他の追随を許さない。私ですら、私だからこそ持て余す感情を、撫でるように優しく触れ、制す。荒波だった心を、いつの間にか平坦に整えてくれる。
 例えば、今この時だってそう。私の心に足りないものを持ってきて、空いた隙間をすっかり塞いでしまうのだ。思い出を欲する心に『思い出』を放り込んで、まっ平らに。
 
「昔はこの丸太と丸太の間が、凄く広く感じてたんです」
 
 祐巳はそう言って立ち上がると、ハンカチをポケットに仕舞ってから丸太の上に立つ。それからピョンと、私の座った丸太とは反対方向にある丸太へと飛んだ。スカートのプリーツは乱れ、ペチコートが見えたけれど、敢えて注意しない。今はそれが、酷く無粋なことに感じたから。
 
「お姉さまも、どうです?」
「それじゃ、やってみようかしら」
 
 祐巳に倣ってハンカチを仕舞い、丸太の上に立つ。それから、さっきまで祐巳が座っていた丸太へと。
 私が丸太に飛びうつる度、祐巳は別の丸太へと移動する。何度も、ピョンピョンと、意味も無く。
 それが何となく楽しかった。それが何より満たしてくれた。だから私は、――その動きを止めた。
 
「……お姉さま?」
 
 時々、不安になる。
 例えば大切な人を失くした時、愛しいと感じた分だけ悲しいように。満たされている程、後からくる空虚は大きいのではないかと、不安になる。
 光があれば、陰ができるように、切っても離せない関係。ジレンマにも似た、答えのない設問。
 
「祐巳」
 
 名を呼び、丸太から下りて近づく。
 この子はいずれ、妹を持つだろう。それが誰であれ、可愛がる準備はある。しかし蓉子さまが祐巳にそうしたように、猫可愛がりできるかどうかは分からない。というか、そうする気概が沸いて来ない。
 所詮この感情は独占欲だ。なんて陳腐で、汎用な欲。しかしそれは、決して満たされることはない。それが満たされることは、祐巳を支えてくれる人が見つからないのと等しいのだから。
 
「捕まえた」
 
 丸太の上に立ったままだった祐巳を、正面から抱き締める。追いかけっこをしていたわけでもないのに、逃すまいと、強く。
 
「捕まってしまいました」
 
 ふふっ、と笑い声が、頭の上から降ってくる。まるで身長が逆転したかのように、私は祐巳の胸へと頭を埋める。
 優しくて、穏やかで、甘やかで。このままこの時が永遠に続けばいいなんて、そんなことを考えてしまう。
 ――永遠なんて、ありえないのに。
 生ある限り、変わる。変わるから、生きている。永遠は、それこそ永遠に触れることのない桃源郷。
 
「祐巳」
「……はい」
「あなたのこと、好きよ」
 
 私の言葉は、祐巳の胸へと吸い込まれる。祐巳は少しの空白の後、ただ「はい」と言った。
 私の背中に回された腕は優しいから。この時間が、本当に幸せだから。――このまま時間が凍り付いてしまえばいい。
 永遠が続くことだとすれば、止めることは終わることだ。
 ふと、空想する。二人抱き会ったまま、氷に閉じ込められるイメージ。いや、水晶の方がいい。とにかく閉じ込められる。時間も凍り付いているから流れないし、全てのものが色褪せない。ヒュウヒュウと、風と木の枝が喧嘩することもない。
 幸せな時間が永遠に続くわけではなく、そこで終わるのだ。綺麗に、幸福に、終わる。悲しいと思う前に終わってしまえば、それはどんなに素敵なことだろう。
 
「お姉さま」
 
 ――けれど。
 時が止まるなんてこと、ありえない。永遠を望むことと、何ら差異がない。
 祐巳の腕からゆっくりと力が抜け、抱擁は解かれる。祐巳はストンと、丸太から下りる。
 その瞬間、心の中に描いた水晶は砕け散った。空想の残滓は夕陽の朱で、キラキラと光る。四散する欠片はそこら中に舞い積もり、二人の周りを埋め尽くす。
 
「そろそろ帰りましょう」
 
 手を引かれ、歩き出す。心に隙間風が吹く。
 幸福な時間の終焉は、それだけで物凄い寂寥感を引き起こした。
 
「そうね」
 
 言いたくも無い台詞を吐いて、手を握り返す。祐巳が右腕に絡みつく。
 
「祐巳」
「はい」
「歩き難いわ」
「はい」
 
 祐巳は離れない。だからそのまま、歩き続ける。
 一歩いっぽ歩く度、舞い散った心の欠片がザクザクと音を立てた。小気味よい音で、ザクザク。
 夕焼けに響くカラスの鳴き声と、目の前を切る枯葉。そして右腕の温もり。――確かに時は動いている。
 
 きっとこんな風に、思い出は出来ていくのだろう。
 だから私は満たされるのだと。
 最後の欠片を踏み砕きながら、強くそう思った。
 
 

 
 
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