■ なんでこんなに可愛いのかよ 十二月の上旬ともなれば、外気温はずいぶんと低い。 お天道様だって活動時間を狭めるし、虫も動物も眠りこける。早朝なんかはたまに霜が下りていたりして、それを見るたび冬眠したくなる気持ちも分かるというもの。 しかしその寒さも、朝や夜だけ。土曜日の放課後ぐらいになれば太陽は皓々と照り、少しだけだけ冷たい風の中、気持ちまで暖めてくれる。 「……いい天気」 そんな空気の中、蓉子は薔薇の館へ向かっていた。目的地までへの道である中庭は、冬と言うこともあって色褪せていたけれど、微かな陽気はそれを覆いつくしてしまっているように思える。 何かいいことがあったわけではないけど、何かいい気分。そんな調子で歩いていると、不意に声をかけられた。 「あ、 振り返った先にいたのは、祐巳ちゃん。学園祭の後祥子の妹になった、蓉子にとっての孫。その祐巳ちゃんは人懐っこい笑みを浮かべると、蓉子の隣に並んでくる。 「あら。ごきげんよう、祐巳ちゃん」 「ごきげんよう。今から薔薇の館ですか?」 「そうよ。祐巳ちゃんもでしょう? 一緒に行きましょうか」 微笑みかけながらそう言うと、祐巳ちゃんは小さな鈴を鳴らしたような声で「はい」と返事をする。 たったそれだけのことに、ついつい口元が緩んでしまう。祐巳ちゃんは、素直でいい子。従順な子犬のような言動は、やはり見ていて微笑ましいものである。 ストレートに言えば、蓉子は祐巳ちゃんを気に入っていた。孫とは斯くあるべきという理想を描いたような子、ということもあるけど、やっぱり最大のネックはその可愛らしさ。祥子は可愛げがないところが可愛いのだけど、祐巳ちゃんの可愛さは真っ直ぐで、万人を引き付ける魅力を持っている。 「うわ、館の中の方が寒いぐらいですね」 薔薇の館に入ると、祐巳ちゃんは身震いをしてそう言った。そんな小動物的な行動も、魅力の一つだと思う。 「でも、ずっと外にいたら風邪をひいてしまうわ」 当たり障りのない会話を続けながら階段を上り、二階の部屋へと入る。それと同時に、祐巳ちゃんは流しへと向かった。 「今、お茶を淹れますから」 蓉子は「お願いするわ」とだけ言って、自分の指定席にしている椅子へと腰掛ける。 「……」 さて、手持ち無沙汰である。山百合会の幹部連中はまだ来ていないので、一人だけ突っ走って仕事をしていてもつまらない。 そんな時、当然目に入るのは祐巳ちゃんの後ろ姿。それを眺めていると、何となく『聖だったら迷うことなく抱き着いて、ちょっかいをかけるのだろうな』と思った。 ふと、その友の言葉を思い出す。 『祐巳ちゃんに抱きついたならゴーゴーヘブン。失われた楽園がそこにあるよ』 何じゃそりゃ。と、今でも思う。 まあ、確かに抱き心地はよさそうだ。蓉子や聖の身長から見れば、抱き締めやすい体格であるし。 しかし、だからと言って、抱き着くなんて。 「あの……?」 何気なく流しに近づくと、祐巳ちゃんは訝しげな視線を送ってくる。クリッとした瞳が蓉子を映すと、また友の言葉が蘇ってきた。 『蓉子も一度抱き着いてみなよ。ヘブン』 (いや、ヘブンとか意味が分からないし) 『本当にいい気持ちになれるのに』 (だからって、ねぇ……) 『病み付きになるよ、絶対』 (なっても困るって) 『ダイエットにも効果があるらしいよ?』 (……なんだかアブナイ勧誘に聞こえてきた) 悪魔の格好をした聖が、蓉子の頭の中を飛び回っている。そのイメージを振り払うと、蓉子は祐巳ちゃんの手元を覗きこんだ。 「いいから、続けて」 「は、はぁ……」 蓉子がそう言うと、祐巳ちゃんは紅茶を淹れる作業を再開する。紅茶を淹れる手順のチェックをされていると思ったのか、随分と緊張した手付き。 別に、チェックなんてするつもりもない。ただ暇を持て余して、ふらふらと歩み寄っただけのこと。紅茶を淹れる邪魔をしても仕方がない。――と、窓辺の方へと向かった時だった。 「あっ」 祐巳ちゃんがカップを取ろうとして、棚からそれを落としたのは。 「……っと」 祐巳ちゃんの後ろから手を伸ばして、すんでのところでカップを受け止める。 「気を付けなさいね」 「はい、すいません……」 そしてそのまま、カップを祐巳ちゃんの手元へ。するとどうしたことか、祐巳ちゃんを後ろから抱き締める形になった。 (――これは) 身体に、電流が走ったような感覚。 紅茶の湯気と一緒に立ち昇ってくる香りは、上品なシャンプーの香りで。ふわりと抱き締めた身体は春の日の芝生のように、柔らかに蓉子の腕を受け止める。 「あの、 祐巳ちゃんがそう言って身じろぎすると、無意識のうちに抱擁の力が強まる。少しだけ上擦った声が、鼓膜を通じて甘美な世界を垣間見せる。ツインテールの一房が鼻の下をくすぐると、背筋にゾクっときた。 (これは、……マズイわね) 水野蓉子十八歳。 今頃、開花しちゃったかも知れません。 ――さて、これは何の冗談なのだろう? 由乃は薔薇の館のサロン兼会議室に入るなり、そう思わずにはいられなかった。 「……」 薔薇の館に向かう途中で会って、一緒に(嫌々)ここまできた 「……ねぇ、蓉子」 「何?」 「一つ訊いていいかしら」 「嫌」 「何をしているの? ……って聞けよ」 ……普段まともな人が壊れると、何だか怖い。 「ロ、 随分前から 「あの、 しかしそれを放って置けないのが、友である由乃のさだめ。由乃が軽くたしなめると、 「何故?」 「何故って。祐巳さんが迷惑そうにしてるじゃないですか」 「あら。そうなの、祐巳ちゃん? 私に抱き着かれて迷惑? 私が鬱陶しい? ぶっちゃけ目障り?」 「い、いえ。そうではありませんけど」 「そう。祐巳ちゃんは違うって言っているけれど?」 「……あんな質問の仕方じゃ、違うとしか言えないじゃないですか。いいから離れて下さい。こんなところを祥子さまが見たら、何て言うか」 そう言って、大袈裟に溜息。由乃としては、着実に痛いところを突いたつもりだった。 しかし、由乃に言い負かされるような人が 「いいのよ、私が祐巳ちゃんを妹にするから」 「あの、 「祐巳ちゃんを妹にすると言ったけど」 「で、でも、 「ええ、祥子はプティ・スール。祐巳ちゃんはプリティ・スール」 わけわからん。 っていうか、何。『リ』を入れれば妹は二人持てるとでも言うんですか。この 「ああ、やっぱり祐巳ちゃんの抱き心地は最高」 「……そんなにいいものなのかしら」 「江利子も試してみる?」 「それじゃ、ちょっとお借りして」 「ひゃぅ」 「うーん……」 「どう?」 「私はもうちょっと引き締まった身体の方が好きね。身長も私より高い方がいいわ」 そう言って 「さてと」 すると 「由乃ちゃん」 「な、何ですか」 「孫としての役目を果たしなさい」 「は?」 何を言っているんだこのデコリーナは? と首を傾げると、どうしたことか。 「きゃっ」 「あら、可愛い声」 「は、離して下さい!」 必死にもがいて抗議したけど、 「由乃ちゃん?」 「……なんですか」 暴れ疲れて肩で息していると、 「もうちょっと太った方がいいわよ」 ――これだけやっておいて、言うことはそれだけか。フラッシュレディ。 「うーん、これなら祐巳ちゃんの方がいいわねぇ」 その上、更に喧嘩を売ってくる。 もうあったまきた、と渾身の力で 「私と祐巳さんでは、どこがどう違うって言うんですか!」 「プニプニ感」 「……そんなの、 対立して、いきなり負けそうになる。けれどそこですぐ負けを認めないのが由乃であるわけで、悔し紛れの反論に 「由乃ちゃんも祐巳ちゃんに抱き着いて、確かめてみたらいいじゃない」 「え」 固まる由乃を余所に 「……祐巳さん」 「……由乃さぁん」 相変わらず 「由乃ちゃん」 そんな由乃たちの状況を悟ったのか、 そして由乃の肩に手を置きながら、優しく言ったのだ。 「八秒ね」 もういいよ、ケチ。 というか二秒の差は何なのさ。 「……まあ、それはいいとして」 コホンと咳払いすると、祐巳さんと向き会った。由乃は祐巳さんの肩に両手を置くと、少しだけ緊張して言葉を紡ぐ。 「その、……祐巳さん。いい?」 「……由乃さんなら」 ああもう、何で一々可愛い反応するんだろう。心をあぶって来るような衝動を押さえつけながら、ゆっくり祐巳さんを引き寄せる。後ろでクツクツ笑っている 「――祐巳さん」 完全に身体が密着した瞬間、パチンとブレーカーを落とされたような錯覚。 抱き締めた身体は干したての布団にふっくらと。微かに触れ合った肌はきめ細かくてスベスベ。 「ひゃっ」 強く抱き締めて漏れる声は天使のごとく、脳の髄まで麻痺させるよう。心拍数と体温だけが、うなぎ上りに上がっていく。 「……ああ」 祐巳さん、あなたは何て罪深い女の子なの。 島津由乃十六歳。 地平線の彼方まで続く信号は、全て ――さて、これからどうなるのだろう? 江利子は由乃ちゃんたちを眺めながら、そう思った時。由乃ちゃんは祐巳ちゃんを抱き締めたまま、蓉子に向かってこう言った。 「 「何、由乃ちゃん」 「祐巳さんを私に下さい」 おいおい、と江利子は心の中で突っ込んだ。 由乃ちゃんて前から面白い子だと思っていたけど、こういうベクトルだったっけ? 「ダメよ」 「どうしてですっ」 「祐巳ちゃんは私のものだから」 「 「ちょっと、由乃ちゃん」 流石にここで、江利子による『待った』が入る。令がいない今、由乃ちゃんを嗜めるのは江利子の役目だ。 「少しは言葉を選びなさい。ハァハァなんて、淑女の台詞ではないわ」 「放っておいて下さい。 ――ほっほう。中々素敵な単語センスね、このおさげ。 可愛さ余って憎さ百倍。こめかみがヒクつくのを感じながら、あくまでも静かに応戦する。 「へぇ。デコデコって、具体的にどうしたらいいのかしらね?」 「デコレーションしたデコポン食べながらデコンドーでもマスターしたらどうですか」 「デコンドー? まあ、それはどんな競技なのかしら」 「額で太陽拳を出す競技ですよ、 吐き捨てるように言うと、またにらみ合い。それを間近で見ていた祐巳ちゃんは、涙目でふるふる震えている。 「ほら、デコさまのおデコが眩しいから、祐巳さんが怖がっているじゃありませんか。……ごめんね祐巳さん。怖くないからね。眩しいだけだからね」 由乃ちゃんはそう言いながら、また祐巳ちゃんをキュッと抱き締めた。愉快、愉快すぎて――。 「上等だこの猫かぶ」 「とにかく、祐巳さんは私が飼います」 「あら、私だってペットに欲しいのに」 「――って聞けよ!」 しかも何だ、けっこう危ない会話してるんじゃない。突っ込みは二つ同時には出来ないのよ。お願いだから順番にボケろ。 「私は絶対、祐巳さんを譲りませんから」 「それは私も同じ。祐巳ちゃんは誰にも渡さないわ」 「ちょっと、二人とも」 二人は尚も江利子(と祐巳ちゃん)を無視して、祐巳ちゃん争奪戦を繰り広げる。 あんまり無視ばっかりされると切ないんですが。まあでも面白いからいいか、と思える江利子は、多分得な性格をしていると思う。 「もう。これじゃ埒が明きません。こうなったら、祐巳さんに決めて貰おうじゃないですか」 「ふふふ、望むところじゃない。さあ祐巳ちゃん、あなたは誰のものなの?」 「え、いや、私は……」 二人に詰め寄られ、ずるずると後退する祐巳ちゃん。 可哀想だけど、面白いから助けない。 「さあ」 「わ、私は……」 「誰なの、どっちなの?」 「私は……」 「さあさあさあ!」 異様なテンションで凄まれ、祐巳ちゃんは逃げ道を失う。そして壁際まで追い詰められた時、意を決したように叫んだ。 「わ、私は祥子さまのものですっ!!」 ――その瞬間である。ビスケットの扉が、派手な音を立てて開かれたのは。 「祐巳……!」 そこに立っていたのは、他でもない『祐巳ちゃんの所有者である祥子』。よもや眩しいと言われる江利子の額を陵駕せんばかりの明るい笑顔を浮かべ、手を差し伸べる。 「嬉しいわ。やっと私のものになる覚悟ができたのね!」 「え、いや、あの。お姉さま?」 祥子はそのまま祐巳ちゃんの手を取ると、「ゲット・ザ・プレジャー!」と叫びながら部屋を飛び出して行った。 その日の内に、二人が薔薇の館に戻ることはなかった――。 あの後二人がどこへ行って何をしていたかなんて、江利子は知らない。 ただ、唯一知っているのは。 「ねぇ、お姉さまぁ」 「うふふ、祐ー巳♪」 二人の仲が、とっても良くなったということだけである。 まあ、コレはアレだ。 仲良きことは、美しきかな。――ってヤツ?
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