■ 声がきこえる
 
 
 
 
 花寺学院中学二年、秋山貴則(あきやまたかのり)は少々やんちゃな少年だった。
 それは普段の生活態度ではなく、時たまとんでもないことをするから、ということだ。
 貴則をそんな『やんちゃな性格』にさせてしまうものは、お隣さんであるリリアン女学園への憧憬に他ならない。別に入学したいわけじゃない。そんなの性別的に無理だし、そういう女としての憧れではなく、男からみた憧れなのだ。
 
 

 
 
「どうする、今年も挑戦してみるか」
 
 昼休みの喧騒の中、貴則が行動を共にするグループの内の一人、(とし)が言った。
 その提案にどうしようかと顔を見合わせる仲間たち。
 今年も挑戦、というのは、リリアン女学園の学園祭のことだ。貴則も俊も、健全な男子学生。お隣の女子校について、興味がないわけがない。しかし仲間内にリリアンの学園祭のチケットを入手できる者はおらず、去年は学園を取り囲む塀を乗り越えようと挑戦し、無様に散ったのだ。
 
「やってみようぜ、今年も」
 
 意欲的な意見は、他の誰でもない貴則の口から発せられた。
 悔しかったのだ。女子校、それもお嬢さま学校ということで、排他的になっている学園の塀に負けたのが。
 男女不平等だと、不満があるわけじゃない。ただ貴則の中にある強い憧れが、声帯を通して出てきただけ。
 
「何かいい方法はあるのかよ?」
 
 仲間の一人が言った。
 
「任せておけよ」
 
 そして貴則は親指を立て、不敵に笑ってやったのだった。
 
 

 
 
 数日が過ぎ、リリアン女学園中等部の学園祭の日がやってきた。
 当然ながら、正門も裏門も入場制限を行っている。それを一応確認してから、人目を避けて塀に近づいた。
 
「誰も見てないよな?」
「ああ」
 
 門から大分離れた場所に来ると、周囲を確認する。もし見つかって守衛でも呼ばれたら厄介だ。
 
「……よし」
 
 少なくとも見える範囲に、貴則たち以外の人影はない。それを視認すると、貴則は鞄を開け、侵入のための道具を取り出した。
 
「何だ、それ」
「知らないのか? 忍者とかが使ってたやつだよ」
 
 手元を覗き込んでくる俊に、その道具を見せてやる。その道具とは、ロープの先に鍵爪をつけた、簡易的な忍者道具の模造品。
 
「貴則、今回本気じゃん」
 
 そう言って笑う仲間に、「当たり前だろ」と返した。
 この塀に負けたくない。この塀を乗り越えて、この目でリリアン女学園を見たい。媒体越しに見るのは、憧れを募らせるだけだ。
 
「よっ」
 
 鍵爪を学園内に放り込む。遠くに投げすぎると中から気付かれる可能性があるから、鍵爪だけが学園内に入るように、慎重に投げた。
 そして鍵爪が中に入ったら、引っ張ってちゃんと爪が引っかかっているか確認する。――が。
 
「あれ……?」
 
 ロープを引っ張ると、するりと鍵爪が戻ってきてしまった。
 
「ちゃんと引っかかってなかったんじゃないのか?」
 
 俊にそう言われ、貴則はもう一度学園内に鍵爪を放った。今度こそ、完全に中に入っているはずだ。
 
「よっと……。あれ?」
 
 しかし、何度やっても鍵爪は引っかからない。
 何度も、何度も。
 鍵爪を投げては、リリアンが遠ざかっていく気がした。
 
 

 
 
 あの日の失敗から、ちょうど一週間。
 日曜の夜、貴則はまたリリアンの塀の前に立っていた。もう学園祭がどうとかは過ぎたこと。そりゃリリアンの生徒に近づきたいという願望はあったけど、そんな高望みは捨てた。兎角、この堅固な塀に打ち勝ちたい。乗り越え、そして一度でいいから乙女の園と呼ばれる場所の土を踏みたい。
 自分でも不思議なぐらいの執着心と、塀に負けたことへの悔しさだけが、貴則を突き動かしていた。
 
「これさえあれば……」
 
 そして貴則の手には、一本の梯子。逆転の発想だ。まず花寺の用務員用倉庫から梯子を拝借し、昼間の内に隠して置く。そして夜に花寺に偲び込んで梯子を入手し、ここまでやって来る、と。
 塀は三メートル以上ある。しかしこの梯子も開けば三メートルには達する。人目に付かないように運ぶのは手間だったが、これがあれば絶対に塀を乗り越えられるのだ。
 
「よしっ……」
 
 塀に梯子を立てかけるなり、貴則はそう呟いた。梯子が塀の高さに届いたのだ。
 慎重に梯子をのぼり、塀の上に立つ。塀の学園側は面取りがしてあり、角がなかった。これでは鍵爪も引っかからないはずだ。貴則たちの行動も、学園側は予測済みだったということか。
 それから苦労して梯子を塀の上にあげ、学園側に下ろした。あのまま置いて行ったら、学園内から出られなくなるからだ。
 
「……やった」
 
 やってやったのだ。梯子からおりて、感慨に耽る。とうとうあのリリアンの敷地に入れたのだ。
 これがどれだけバカなことかとか、見つかったら大変なことになるとか、そんなことは分かっていた。それでも、そのスリルに興奮している自分がいた。
 それから貴則は学園内を歩き回った。時折懐中電灯を光らせながら見周りをする、用務員らしき人物に気を使いながら。
 残念ながらというか、当然ながらというか、施錠された校舎には入ることができなかった。仕方ないと諦めて、貴則は敷地内の探索を続けた。
 お聖堂、体育館、温室、講堂。銀杏並木では銀杏の実を踏んでしまい、匂いがついて取れなかったが、それすら勲章のように感じていた。
 
「……ん?」
 
 ちょうど桜の木が立ち並ぶ道を通りがかった時だった。ふと、一本の桜に気を取られた。
 
「桜の木か」
 
 その桜に気を取られたのは、何てことはない、ただ立て札が立っていたからだ。
 立て札の表記によると、この桜の木は17年前の卒業生によって贈られ、植えられたものらしい。
 
「侵入成功記念、と」
 
 その卒業生たちには悪いと思ったが、貴則は枝を一本折ると、ズボンのポケットに突っ込んだ。
 何か、リリアンに忍びこむことに成功したのだという、戦利品が欲しかった。しかし備品を盗むわけにはいかないので、木の枝は丁度いい。窃盗には違いなかったが、枝が一本折られただけで誰も騒ぎはしないだろう。
 
「あばよ、リリアン」
 
 桜に背を向け、手を振りながら青臭い台詞を吐く。
 帰りの道すがらに見た桜の枝は、まるで息づいているかのように、熱く感じられた。
 
 

 
 
 その翌日からだ。
 その声が聞こえるようになったのは。
 
『あなたが折ったんでしょう?』
 
 詰問する声。
 
『痛いじゃないの。ねえ』
 
 責めたてる声。
 家にいる時も、登校中も、授業中も、友人と遊んでいる時も、その声が聞こえるのだ。
 
『あなたが折ったんでしょう? どうしてこんなことするのよ』
 
 気が狂いそうだった。両親に相談したら耳鼻科に連れて行かれたが、原因は不明だった。これ以上ことを大きくすると精神科に連れて行かれそうだったので、両親にはもう治ったと言った。
 原因は不明。医者はそう言ったが、この声は桜の木の恨み言に違いなかった。
 
『痛い、痛い。どうしてくれるの』
 
 恐ろしかった。
 きっと折ってきた桜の枝を持っているから聞こえるんだと思って、あの枝は早々に捨てた。しかし声が聞こえなくなるどころか、益々その頻度を上げていく。
 気が狂いそうだ――。目に見えない恐怖に、精神は瓦解寸前にまで追い込まれた。
 しかし桜の声はそうとう意地が悪いようで、気がふれる直前になるとパッタリ恨み言を言うのを止める。そして何ヶ月と経ち、忘れかけた頃にまた声が聞こえるのだ。
 
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――!)
 
 声が聞こえるたびに喉は干上がり、声無き謝罪を続けた。
 桜の木の異常なまでの怒りが、声を通して分かる。高い塀と厳重な警備よって守られた乙女の園。そこに通う少女のためだけに咲き、花弁を散らす桜。その場所に不当な方法で進入し、そしてその桜を折ったのだ。桜からすれば、許しがたいことなのだろう。
 
『あなたにこの痛みが分かるの?』
 
 高校に進学して一年と少し経ったある日から、責めたてる声の内容が変わった。
 依然として冷たく詰問する声色で、何度も貴則に問いかける。
 
(分からない、……分からないよ)
 
 心の叫びに、桜の声は返す。
 
『あなたには分からない。あなたには、絶対』
 
 一際冷たい声。
 それっきり、声は聞こえなくなった。
 何ヶ月、何年と経っても、桜の木の声が聞こえることはなかった。
 
 

 
 
 あれから十年以上。
 花寺大学を卒業し、家業を継ぎ、結婚して、子供もできた。
 仕事の関係で知り合った妻は、何の因果か幼稚舎から大学までリリアンという、生粋のお嬢さま。名を美晴(みはる)と言った。
 
「子供の名前は、ずっと前から『さくら』にするって決めていたのよ」
 
 そして子供の名は、さくら。
 聞けば美晴は、リリアン高等部二年の時、桜組の一員だったらしい。当時の桜組は非常にクラスの雰囲気がよく、また美晴が(グラン・スール)(プティ・スール)に囲まれて過ごした、学生時代で最も幸せな時期だった、と。そのため、『さくら』という言葉に思い入れがあるのだとか。
 当然反対する気持ちはあった。しかし、貴則の勝手な行動の末に美晴の思い出を汚すのは憚られた。美晴の両親も良い名前だと同意したので、貴則が反論を唱えることはなく、子供の名前はさくらで決定したのだ。
 
「あなた、またさくらが……」
 
 しかし後に、その名前をつけたことを後悔することになる。
 美晴たっての希望で、さくらはリリアンに入学させた。さくらはそそっかしい子で、よく怪我をする。それだけなら何ら不思議はないのだが、さくらが怪我をする原因は、決まって桜の木が関係していたのだ。
 幼稚舎の頃は桜の木の根っこに足を取られ、突き指。初等部二年の時は桜の木の枝で切創を負い、四年の時はまた根っこに足を取られ、腕の骨にひびが入ってしまった。
 そしてさくらは六年になってまた桜の木で怪我をした時、病院から帰る途中に言ったのだ。
 
「変な声が聞こえるの。とても冷たい声で、凄く怖い……」
 
 なんてことだ――。さくらの言葉に、愕然とした。
 桜の木の怨みは、まだ消えていなかったのだ。桜の木が、人並みの幸せをかみ締めている時を踏み潰すために今まで黙っていたのなら、これほど残酷なことはない。あるいは、娘の名前を『さくら』にしたことを、冒涜だと怒っているのだろうか。
 貴則はすぐさま多額の金を積み、有名な祈祷師のもとへさくらを連れていった。祈り、払い、懺悔した。
 
「もう娘さんが声に悩まされることはありません」
 
 全ての儀式が終わったあと、祈祷師はそう言った。その言葉に、心底安心したのをよく覚えている。
 事実、祈祷師にかかった後から、さくらに声が聞こえることはなくなった。桜の木に関する怪我もしなくなり、健やかに成長していった。
 しかし。
 高等部に進学した後、さくらは久しぶりに大きな怪我をした。体育の授業で失敗し、鎖骨を折ってしまったのだ。
 娘の事故は、悲しむべきこと。なのに貴則は、どこかほっとしていた。
 今回の怪我には、桜の木が関わっていない。それが何より、貴則を安心させてくれた。
 もう、大丈夫。
 そんな安心感を胸に、貴則は病院にさくらを迎えに行った。
 
「ドジだなぁ、さくらは。一体どんなこけ方をしたんだ?」
 
 腕を肩から吊るしたさくらに、苦笑いを浮かべながら言う。
 さっきから俯いているさくらは、返事をしない。
 貴則が「なあ」と言って顔を覗きこむと、さくらは表情を豹変させて言ったのだ。
 
「あなたが折ったんでしょう? 痛いじゃないの。ねえ」
 
 冷たく、責めたてる声――。
 さくらは先週、17歳の誕生日を向かえたばかりだった。
 
 

 
 
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