■ あなたが傍に居ればいい
 
 
 
 
私は彼女を知っている。
 
 
 
彼女の名前は二条乃梨子。志摩子の妹。
 
彼女の名前は佐藤聖。志摩子さんの姉。
 
曰く、市松人形のようにすっきりとした顔立ちの、美形な女の子。
 
曰く、外人モデルのように鼻の高い、かっこいい美人。
 
いつもクールで、てきぱきとした子。
 
いつも飄々としているけど、頼り甲斐のある人。
 
彼女の名前は二条乃梨子。
 
彼女の名前は佐藤聖。
 
姉妹制度で言うところの、私の孫。
 
姉妹制度で言うところの、私のお祖母ちゃん。
 
 
私は彼女を知っている。
まだ、会ったことはないけれど。
 
 

 
 
 始まりは、昨晩の電話だった。
 
『お姉さまに、妹を紹介したいと思います』
 
 電話口で志摩子は、単刀直入にそう言ったのだ。
 
「志摩子ったら、今頃紹介する気になったの?」
 
 今はもう秋も深まったという頃。私はカラカラ笑いながら言うと、志摩子は「由乃さんが妹オーディションをすると言い出して、その拍子に紹介しようか思いたちました」と、少しだけ申し訳なさそうに言った。
 聞けば由乃ちゃんは、江利子に妹を紹介するため、躍起になっているらしい。江利子の孫をやるのも大変だ。
 
『それでは、お待ちしていますので』
 
 それから日時と場所を決めると、私は志摩子の声を名残惜しく思いながら電話を切った。
 だから私は、今こうして薔薇の館にお邪魔しているのである。
 
「うーん、懐かしい」
 
 放課になるにはまだ早い時刻。当然誰もいるはずはなく、私はかつて自分の指定席だった椅子に座ると、ぐっと伸びをした。
 変わっていない。この部屋の雰囲気も、匂いも、すべてあの頃の記憶のまま。まるで高等部時代に戻ったかのような錯覚に、私はゆっくりと目を閉じた。
 
「…………ん?」
 
 それから暫くたった頃。微かだが、階段を上ってくる音が聞こえた。
 時計を見てみると、時刻はもう放課後。誰かが来てもおかしくない。
 じっと耳を澄まし、足音で人物を推測しようとする。――が、残念ながら、一度も聞いたことのない足音だった。
 志摩子のようにしずしずとしたものでもなく、祐巳ちゃんの軽い足音でもない。堂々と階段を上ってくる音は、由乃ちゃんや祥子に通じるものがあったけど、それとは微妙にニョアンスが違うのだ。
 
(以上、佐藤聖による足音人物考察終わり。一致データなし)
 
 無為にそこまで考えると、私はわくわくしてきた。
 乃梨子ちゃんだろうか。それとも、他の一年生だろうか。
 どちらにせよ、私と面識がないのは確か。階段を上ってきた人物が、我が物顔で椅子にふんぞり返る私を見て、一体どんな顔をするだろう。
 
「…………」
 
 相手に気配を気取られないよう、私は押し黙って扉を見詰めた。
 ぎぃ――と、やがて開く扉。果たしてそこに姿を現したのは、祐巳ちゃんに聞いた通りの市松人形だった。
 
「あ――」
 
 少しの驚きと、少しの逡巡。
 市松人形の女の子――二条乃梨子ちゃんは、深くお辞儀をしてから言った。
 
「ごきげんよう。佐藤聖さまですね?」
 
 多分、志摩子から聞いていたのだろうけど、私は「へぇ」と感心した。
 驚きの表情からの立ち直りの早さと、日の打ち所のないお辞儀。全身からにじみ出る、『出来る人間』の雰囲気。
 
「ええ、そう。あなたは二条乃梨子ちゃんね?」
「はい」
 
 人物の確認が取れたところで、私は椅子から腰を上げる。その足で乃梨子ちゃんの近くへ歩みよると、私は彼女を正視して言った。
 
「では改めてごきげんよう。初めまして」
「はい、初めまして。志摩子さまにはお世話になっています」
 
 二度目のお辞儀から顔を上げた乃梨子ちゃんを、私は遠慮なく鑑賞する。
 遠目で見かけたことは何度かあったけど、ここまで近い距離で、しかも向かい合って見るのは初めて。この距離でないと、分からないことが沢山ある。
 たとえば。
 
「…………」
 
 何も言わず見続ける私を、まっすぐ見詰め返す瞳。
 さらさらの髪の毛は長めのおかっぱで、肌は血色がよくて瑞々しい。市松人形、と形容したが、それの良いところ取りと言おうか。少なくとも彼女には市松人形の不気味さはないし、双眸は生き生きと輝いている。それでいて顔の整い方は人形並みなのだから、将来は和服の似合う美人になるだろう。
 ふと、想像してみる。流麗な着物を見に着けた乃梨子ちゃんと、フリフリレースのドレスを着た志摩子。その二人が、並んで正座している光景を。
 
「ふふっ……」
 
 思わず笑いが漏れる。似合いすぎ、そして可愛らしすぎる。なんと微笑ましく、美しいコントラストだろう。
 
「何がおかしいんですか」
 
 しかし乃梨子ちゃんは、それを侮蔑の笑いと受け取ったのか、即座にクレームをつけてくる。物怖じせずに意見をしてくるところは、悪くない。見詰め合っているあいだ緊張していたのか、少しだけ声が震えているのが可愛らしかった。
 
「いや、別にバカにして笑ったんじゃないよ。いい意味で笑ったんだから」
「……そうですか」
 
 私がにっこり笑ってそう言ってやると、乃梨子ちゃんは溜飲を下げた。ひょっとしたら、呆れられただけかも知れないけど。
 
「今お茶を淹れますので、座ってお待ち下さい」
「ええ、ありがとう」
 
 私は乃梨子ちゃんが背を向けたことを確認すると、椅子に座――ろうとして、途中で止めた。そのまま椅子に手をついて体重をのせ、ぎしっと音を立てる。これはブラフだ。椅子に座ったと見せかけるための。
 私は息を殺して流しへと向かい、乃梨子ちゃんの背後をとる。そして、合掌――。
 
(いっただっきまーす)
 
 心の中で声高に言うと、私は乃梨子ちゃんを抱き締めた。
 
「……っ!」
 
 しかし、何と拍子抜けなことか、乃梨子ちゃんは無反応。ちょっとだけびくって震えたのが小動物みたいで良かったけど、リアクションが薄いのはつまらない。
 
「…………あっれー?」
 
 私は言いながら、乃梨子ちゃんの頬を突付いた。しかしこれにも反応無し。むすっと仏頂面をするばかりで、ちっとも楽しくない。
 
「――聖さまって」
「うん?」
「聞いていた通りの方なんですね」
「あれま、どんな噂をされていたのやら」
 
 私がくくっと笑うと、乃梨子ちゃんは溜息を吐いた。溜息ではないけど、私も真似してふーっと息を吐く。乃梨子ちゃんの耳に向かって。
 
「ひゃっ……」
「おっ、ナイスリアクション」
 
 びくっと震えて、乃梨子ちゃんの髪が鼻を撫でていく。柔らかな感触と、微かなラベンダーの香り。シャンプーかコンディショナーか知らないが、これが孫の香りかと嬉しくなる。
 
「い、いい加減にして下さい。怒りますよ」
「どうぞ? 私は怒った乃梨子ちゃんも見てみたいから」
 
 調子に乗ってふーふーと息を吹きかけていると、乃梨子ちゃんは肩の力を抜いた。これ以上の抵抗は、私を喜ばせるだけだと理解したのだろう。噂に聞いていた通り、聡明な子だ。
 
「……気に入った」
「は?」
 
 そう、気に入った。食って掛かろうとするところなんて、江利子に対する由乃ちゃんにそっくり。忌憚のない意見を言うところは、蓉子や景さんにそっくりだ。
 私は乃梨子ちゃんの「は?」に対する返事をせずに、そっと腕を解いた。説明しても、分かってくれないだろう。これはお祖母ちゃんの醍醐味であるわけだし。
 
「ねえ、お茶はまだ?」
 
 私が椅子に腰掛けて言うと、乃梨子ちゃんは無言で紅茶を持ってきた。小さく「どうぞ」と言う声は少しの棘を孕んでいて、そういうところも私を上機嫌にさせてくれた。
 
「ありがとう」
 
 私は微笑して言ったけど、乃梨子ちゃんは少しもこっちを見ていなかった。いい、ますます気に入った。
 
「…………」
 
 それからは、ひたすら無言。いや、一応会話はあったか。
 志摩子遅いねぇ。来る前に教室を覗いてきたら、何か話し合いをしていました。ああ、そう。
 と、これだけ。だが私の方から気を利かせて話しかけようなんてつもり、さらさらない。
 
「――どうして」
 
 その沈黙に耐えかねたのか、それとも本当に言いたいことなのか。
 乃梨子ちゃんは椅子から立ち上がると、窓辺に手をついて言った。
 
「どうして、何も訊かないんですか。言うべきこととか、あるんじゃないですか」
 
 咎めるような口調はスパイシーで、背筋にゾクゾクくる。
 爪を立ててくる子猫は、何と可愛いことだろう。
 
「どうしてって言われてもね。別に訊きたいことなんてないし」
 
 私の言葉を受けた乃梨子ちゃんは、「でも」と食い下がる。だって、本当に訊くことなんてないのだ。今までのやり取りで乃梨子ちゃんがどういう人間か、私にどういう感情を持っているか分かったんだから。
 
「あー、強いて言うことがあるとすれば」
 
 しかしあまり意地悪をしても可哀想だ。私は立ち上がると、乃梨子ちゃんがいる窓辺近くの壁に背を預けた。乃梨子ちゃんは視線を外に向けたまま、私は虚空を見詰めたまま言った。
 
「志摩子のそばに居て上げて。あの子、時々すごい寂しがりやになるから。その時はそばに居て上げて欲しいな」
 
 それからまた、沈黙。気付けば空は明度を落として、黄昏の足音を響かせている。
 穏やかで辛辣な静寂は、私にとって満ち足りたもの。私はいつしか、乃梨子ちゃんとすごす時間をこの上なく楽しく感じていた。
 
「……それだけですか?」
「それだけよ。なあに、私に『志摩子のことよろしく』って言って欲しいの?」
「言って欲しいわけではありませんけど、言うべきことだと思います」
 
 私はちらと乃梨子ちゃんの顔を見た。相変わらず中庭を見下ろしたまま、こっちを見ようとしない彼女。気丈で気概に溢れた瞳は、しかし繊細なガラス細工のように見えた。
 
「言わないよ、そんなこと」
 
 私は彼女の横顔を眺めながら、精一杯優しい声で言った。きっと乃梨子ちゃんは、もっと志摩子を大切にするべきだと思っているのだろう。それは理解するが、みなまで語る必要はない。いまさら足し算や九九を教えたって、仕方ないではないか。
 
「あなたは志摩子のそばにいて、好きにすればいい」
 
 だから突き放す。
 志摩子の隣で、志摩子のために、乃梨子ちゃんなりの行動をとればいい。そこに私の意見なんか要らない。
 何故なら――。
 
「あ――」
 
 乃梨子ちゃんは窓の外を見ながら、不意に表情を緩めたから。窓の外では、透き通るような笑顔を浮かべた志摩子が、こちらに向かって来ていたから。
 そんな二人に、何を言うことがある?
 それでもまだ私に何か言えというのなら、もうこう言うしかない。
 
『お幸せに』
 
 なーんて。
 ちょっと妬けるけれど。
 
 

 
 
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