■ クローバー、クローバー
 
 
 
 
 小笠原祥子は怪獣に似ている、と。
 そう評されたのを、私は知っている。
 
 

 
 
 残暑も霞み消えようかという、九月の下旬。
 薔薇の館のサロンから見上げる空は青く、雲一つない。そんな晴れやかな日に、私、小笠原祥子は鬱屈としていた。
 
「はぁ……」
 
 掃除が早く終わったので来てみれば、やはり誰も居ない薔薇の館。一人で静かに過ごすのは嫌いじゃないが、こういう時ほど誰かに居て欲しかった。
 この沈んだ気持ちの原因は、何なのだろう?
 時間があるのでゴールデンルールにそって紅茶を淹れながら、考察してみる。
 例えばシャーペンの芯がことごとく折れていたり、消しゴムで字を消そうとしたら角がぼろりと取れたり。そういう小さな出来事が重なったのも、原因のひとつだろう。
 しかし真の原因は、やはり友の言葉の通りかも知れない。
 
『おや、祥子が不機嫌そうだ。祐巳ちゃん分が足りてないんじゃない?』
 
 休憩時間に廊下ですれ違った令は、実に軽々しくそう言ってくれた。が、否定できない自分がいるのも事実。
 祐巳とはもう三日も会っていない。三日『も』、だ。
 一昨日は山百合会の仕事は休みだったし、昨日は私が家の用事で早々に帰ってしまった。だから、もうすぐ会わなくなって丸三日。
 学園祭が差し迫るにつれ、顔を合わせる機会は必然と多くなっていた、というのもあるのだろう。この三日間はどこかぽっかりと空いているようで、無性に長く感じた。
 
「……来ないかしら」
 
 誰が? ――と問いかける人は、当然皆無。
 約四分の蒸らしを経て淹れた紅茶は、茶葉から淹れただけあって美味しかった。しかしそれで気分が晴れるわけもなく、私はまた窓辺に肘をつく。
 その時だ。今一番会いたい人が、中庭を歩いてきたのは。
 
「何かしら」
 
 今一番会いたい祐巳は、鞄とは別に何かを胸に抱いて歩いてくる。しかし、遠目ではそれが何か分からない。これだけ距離が離れていても分かるのは、祐巳はとても機嫌が良さそうだということ。
 ふと、頬が緩む。
 なんて現金な性格だ。と、私は自身に苦笑する。祐巳の姿が見えた。ついでに、何か良いことがあったみたいな顔をしていた。ただそれだけなのに、心の雲は一瞬にして消え失せてしまったのだ。
 
「ごっ、ごきげんよう、お姉さま」
 
 やがて薔薇の館の二階に着いた祐巳は、慌しくお辞儀をする。多分、私が一人で待ち構えていたことに動揺したのだろう。お辞儀をした拍子に、祐巳が胸元で握っていた何かが、ひらりと舞い落ちた。
 
「ごきげんよう、祐巳。何か落ちたわよ」
「え? ……あっ」
 
 祐巳はまたも慌しく身体を折りたたんで、床に落ちた『何か』を拾い上げる。テーブルの下から昇って来たそれは、祐巳の手のひらに隠されて見えなかった。
 
「それは何?」
 
 まるで三日のブランクなんてなかったように、祐巳に問いかける。すると祐巳は興味を引けたのが嬉しかったのか、笑顔で私のもとに歩み寄ってきた。
 一歩、また一歩。
 祐巳が歩みを進めるたび、ぽっかりと空いた心の孔が満たされていく。
 
「じゃーん」
 
 少しおどけて、祐巳は手のひらを開く。
 するとそこから姿を現したのは、一本のシロツメクサだった。
 
「あら、珍しいわね」
「でしょう?」
 
 祐巳はそう言って、花咲くように微笑む。
 その笑みに、私もまた笑みを返す。――が、分からないことが一つ。
 
「それで、あなたは何故そんなに嬉しそうなの?」
「えっ?」
 
 私の言葉が信じられないとでも言うように、祐巳は大きく目を見開く。聖さまがここにいたなら、百面相全開と笑ったことだろう。
 
「何故って、珍しいじゃないですか」
「確かにそうだけど、それが祐巳にとって嬉しいの?」
「はい。だって、四葉のクローバーですよ?」
 
 クローバー。
 確かにシロツメクサをそう呼ぶことはあるけれど、それがどうしたというのだろうか。
 私と祐巳との間には、何か大きな食い違いがあるようだ。
 
「あの、お姉さまは何に対して『珍しい』と仰ったのですか?」
 
 祐巳もそれに気付いたのだろう、瞳に疑問の色をのせて、首を傾ける。
 
「九月の末までシロツメクサが咲いていたから。でしょう?」
 
 私の答えに、祐巳は目をぱちくりさせる。その仕草も可愛かったけれど、そんな表情をされる理由は依然として分からないまま。
 
「それで、祐巳が珍しいと思った理由は?」
「葉が四つだからです」
「それがそんなに嬉しいことなの?」
「はい。だって、四葉のクローバーは幸運を呼ぶって言うじゃないですか」
 
 果たして、そうだったろうか。
 思いだしてみれば確かそんな話を聞いたことがある気がするが、あまりインパクトのある言い伝えでもないので、言われるまで思いつきもしなかった。私にとって、その程度の話なのだ。
 
「そう。それで、そのクローバーは誰に貰ったの?」
「え……? どうして貰ったものだって、分かったんですか?」
「分かるわよ」
 
 そう言って私は、祐巳の髪を撫でる。
 祐巳は幼いようでいて、達観した優しさを持っているから。だから祐巳が四葉のクローバーを見つけたとしても、決して摘むことはない。見て愛でるだけか、本当に私に見せたいのなら、そのクローバーの場所まで連れて行くだろう。祐巳という女の子は、そういう人間なのだ。
 
「どうしてです?」
「あなたの姉だから、という答えでいいかしら」
 
 私がはぐらかすと、祐巳は「はぁ」と気のない返事をした。
 
「それで、そのクローバーは?」
「あ、はい。掃除場所に向かう途中で、知らない一年生から貰ったんです。どうぞって、それが凄く嬉しくて。だから私、お姉さまにも見せたくて、その」
「分かったから、もういいわ」
 
 早口で捲くし立てる祐巳を、優しく制する。
 祐巳が伝えたいことは、もう十分に分かったから、みなまで言わせる必要はない。
 
「話は戻るけれど」
 
 私は言いながら、立ったままだった祐巳にあわせるように腰をあげる。
 窓辺から見た中庭に、人影はない。
 
「どうして四葉のクローバーは、幸福を呼ぶのかしら」
 
 それは、難しい質問だったと思う。
 言い伝えの由来を問いただしてどうしようという気はないけれど、祐巳はどう考えているのか、それが知りたかった。
 
「きっと、珍しいからですよ」
 
 しかし祐巳は、私の質問に即答した。
 
「ふとした拍子に珍しいものが見られたら、嬉しいじゃないですか。それが幸福を呼ぶものなら、なおさら」
 
 言って目尻を下げた祐巳は、四葉のクローバーを指でくるくると回す。
 どうぞ、と差し出されたクローバーを、私は緩慢な動作で受け取った。
 そして無為に思うのだ。
 
『ならば私にとっての四葉のクローバーは、祐巳なのよ』
 
 ――と。
 私がここまで好きなれる人は珍しいから。そして祐巳は、幸福を呼んでくれるから。
 でもそんなこと、口に出して言えない。それを言ったら祐巳は、これ以上ないぐらい表情を蕩けさせるだろう。それを見た私もまた、だらしなく表情を緩ませるに違いない。そんな姿を晒したくないから、私は。
 
「あ……お姉さま?」
 
 私はそっと、祐巳を抱き締めた。
 祐巳にふれた部分から身体の中に幸せが浸漬して、結局頬は落ちそうなぐらい緩んでしまう。
 
「くすぐったいですよ」
 
 いくら祐巳が文句を言っても聞きはしない。
 抱き締めている限り、頬が戻らないとは分かっているけど。
 ずっと、抱き締めたまま。
 
 
 小笠原祥子は怪獣に似ている。
 蓉子さまが私の第一印象をそう語ったという話を聞かせてくれたのは、聖さまだったか、江利子さまだったか。
 その形容を反芻し、私は苦笑する。
 怪獣も四葉のクローバーを大事そうに持っていたんじゃ、ただのマスコットだ、と。
 私は苦笑を自嘲に代えて、そう思った。
 
 

 
 
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