■ 福沢さんちの台所事情
 
 
 
 
 嗚呼、――マリアさま。
 今もどこかで見られているのなら、どうか。
 どうか飢える子羊に、救いの手を。
 
 

 
 
 祐巳は『その音』を聞くのが嫌いだった。
 だってその音には、とても恥ずかしい思いをさせられたことがあったから。その事件以来、こういう状況にならないように気を使ってきたというのに、絶対的な状況下においてそれは困難なことだった。
 
 ぐるぎゅるぐる、ぐー。
 
 ほら、またその音が鳴った。渦を巻く様なイメージと濁音に満ちたその音は、時にカエルの合唱とも形容される『あれ』である。
 
「祐巳。腹の虫が鳴くの、何回目だよ」
「うるさいなぁ。生理的な現象なんだから仕方ないでしょ?」
 
 現在福沢家のリビングには、祐巳と祐麒しかいない。いや、リビングだけではなく、福沢家にはこの二人しかいないのだ。
 
「腹減ったなぁ……」
「……」
「なあ、何か反応してよ」
「お腹減るからやだ」
「……あっそう」
 
 ソファにぐでーって座ったまま、動かない二人。せっかくの日曜日に不健全だとは思うけど、何かするにしても気力がないから動けない。
 そもそも何故こんな状態になってしまったかというと、それは単に両親が旅行に行っているせいだ。二人の結婚記念日に合わせて、姉弟でプレゼントした一泊二日のツアー旅行。故に両親は不在。十二時を回っても、食卓には昼食の欠片も用意されていないのだ。
 
「なあ、やっぱり店屋物頼んだほうがいいんじゃ……?」
「私、今月ピンチだもん」
「そりゃ俺だってそうだよ」
 
 当然一気に旅行の代金を払えるわけなんてないから、プレゼントのために二人でこつこつ積み立てをしてきた。しかし祐巳たちの考えていたツアーよりもワンランク上のツアーが格安で参加できると知り、ちょっと背伸びをしてしまったのが仇となったようである。
 
「何だってこんなことに……」
 
 祐麒の言葉に、祐巳は溜息を返す。
 何か悪いところがあったとしたら、それは旅行をプレゼントしたことではない。お母さんに「ご飯とか、ちゃんと食べられる?」と聞かれて、姉弟揃って「大丈夫だから、安心して行ってきて」と見栄を張ったのがいけなかったのだ。
 
「そろそろきついかも……」
 
 昨日の内に買い置きしてあったインスタント食品は食べつくしてしまったので、今日になってからは何も食べていない。もはや家に食べれるものはなく、かと言ってお母さんに大丈夫と言った手前、非常鞄の中のカンパンに手を出すわけにはいかないし。
 いや、――食べられるものと言ったら、一応あるにはあるのだけど。
 
「うーん……」
 
 祐巳は唸りながら冷蔵庫の中を見る。ニンジン、キャベツ、ハム、お父さんのおつまみのチーズ、カマボコ、香辛料各種、それに卵。ただ食べられるだけなら、一応ある。
 
「よしっ!」
 
 もうお腹も限界。今まで忌避してきたけど、もうそんなことも言っていられない。
 
「祐巳? どうかしかた?」
「私がご飯を作る」
 
 どーんと胸を張って言うと、祐麒はたっぷり十秒ぐらい固まった。
 
「………………はぁ!?」
「何よ、何でそこまで驚くの」
「な、何でって、姉ちゃん料理したことあんのかよ」
「調理実習でなら」
「あのな、素人の料理って、たまにとんでもないことになるんだぞ」
「なによ、もう。そんなこと言うなら食べなければ?」
「……そんな殺生な」
 
 がっくりと肩を落とす弟にいささかの不満を覚えながら、祐巳は台所に立った。一から全て自分で作ったことはないけど、これでも何度かお母さんの手伝いをしたことがあるから、全くの素人でもない。舌も変じゃないって自信はあるから、そこまでおかしな味付けにはならないはずだ。
 祐巳は冷蔵庫から使えそうな材料を出して、メニューを考える。野菜とハムでスープが作れそうだったけど、あいにくコンソメスープの素を切らしているようだったので却下。千切りにしてサラダにすることにした。続いて卵だけど、祐巳がこれを食材にして作れる料理は三つだけ。目玉焼き、スクランブルエッグ、そして玉子焼きだ。
 
「祐巳? 包丁で怪我するといけないし、ここは俺が……」
「ああもう、うるさいなぁ。ここはお姉ちゃんに任せて、あんたはテレビでも見てなさい」
 
 滅多に使わないお姉ちゃん権限を発動させて、かわりに包丁を持とうとする祐麒を押し返した。そこまで心配されると、情けないっての。
 
「よーし」
 
 腕まくりして、ニンジンを洗い、皮を剥き、そして切る。ニンジンを妙な形の千切りにすると、次はキャベツ。
 
「いたっ」
 
 順調じゅんちょう――と思っていたけど、キャベツの芯を取ろうとした時、包丁の先で指を切ってしまった。
 
「あっ、バカ。だから言ったのに」
「あ、……祐麒?」
 
 テレビを見ているはずの祐麒は、何故か祐巳の傍に立っていた。
 
「ああ、もう。血ぃ出てるじゃんか」
「ご、ごめん……」
 
 悪いことなんかしてないはずなのに、怒られているような気分になってつい謝ってしまった。
 
「見せてみて」
 
 祐麒は優しく祐巳の手を取る。そして祐麒は何を思ったのか、血の滲む祐巳の指を口に含んだ。
 
「きゃあっ!」
「ぐぇっ」
 
 それにびっくりして身体を捩ると、不幸なことに祐巳の肘が祐麒の鳩尾にヒットした。もちろん故意ではなかったけど、そうとう強い勢いだったようで、祐麒はゲホゲホとえずいていた。
 
「あ、ごっ、ごめん……。急に指舐めるんだもん。びっくりしちゃった」
「げほっ、げほっ……。いや、俺こそごめん。デリカシーがなかった」
 
 祐麒はそういうと肩を落としながら、救急箱を持ってきて手当てしてくれた。何故かその間祐麒の表情は暗かったけど、その理由は良く分からなかった。分かっていることと言えば、優しい弟を持った祐巳は幸せものだってことだ。
 
「あのさ、祐巳。危ないからやっぱり俺が」
「いいってば。後は玉子焼きだけだから。ね?」
 
 そう言ってチョン、と指で祐麒の額を小突く。すると暗かった表情に急に光が戻って、心なしかデレっとした表情になった。祐麒は優しい子だけど、たまに良く分からない時があるから、お姉ちゃんとしてはちょっと心配。
 それから祐巳は等分に切り易いという理由から、玉子焼きを焼いた。お味の方は、まだ食べてないから分からないけど。
 
「はい、お待たせ」
「おお……」
 
 祐巳が食卓に料理を並べると、祐麒は感嘆の声を漏らした。けれどそれは、決して料理の出来がいいからじゃない。湯気の立つ料理がそこにあるということに、祐麒は感動しているのだ。
 
「なんだ、ちゃんと作れるじゃんか」
「祐麒が心配性なだけでしょ」
 
 口では澄ましているけど、ちょっとだけ褒められたのが嬉しかったりして。気恥ずかしいので早々と「いただきます」をして、自らの手作り料理を摘んだ。
 
「……あのさ、祐巳」
「うん?」
「今気付いたんだけどさ、何でサラダにカマボコが入ってんの?」
「少しでも食べれるものが多い方がいいと思って」
「えーっと。……じゃあこの玉子焼きの甘さって、わざとやったの?」
「え? 美味しくなかった?」
「いや、そんなことはないけどさ」
 
 一口食べてみて「会心の出来だ!」と思ってたけど、祐麒はもうちょっと塩辛い方がいいのかも知れない。祐麒の好みって、祐巳の好みとはずれてる場合が多いから。
 
「ごちそうさま」
 
 しかしそれ以降は何も言ってはこなくて、およそ三分で食事が終了した。何せ玉子焼きとサラダだけだから、ゆっくり食べてもそんなものである。
 
「それにしてもさ……」
「うん?」
「何か中途半端に食べるとさ、もっと食べたいって欲求が沸いてくるよな」
「うん、……そうだね」
 
 それはちょうど祐巳も思っていたところである。育ち盛りの二人が、玉子焼きとサラダを半人前ずつなんて、ちょっと少なすぎる。
 
「……腹減った」
 
 リビングのソファで、またもぐったりしている二人。祐麒の言葉に反応するように祐巳のお腹が鳴ったけど、誰も何も言わなかった。
 何か他になかったかな、と。祐巳が身を起こそうとしたその時だ。プルルルル、と電話が鳴ったのは。
 
「……はい、福沢でございます」
『もしもし? 私、リリアン女学園の島津由乃と申しますが……って、祐巳さん?』
「うん、そう」
 
 受話器を手にしながら、力のない返事をする。電話口でこんな調子じゃだめだって分かっていても、全身を包む気だるさは抗いがたい。
 
『何だか元気ないけど、大丈夫?』
「うん、全然大丈夫だよ」
 
 この後に及んで、また「大丈夫」とか言っちゃったよ。と、祐巳は心の中で自嘲した。
 
「それで由乃さん、どうかしたの?」
『ええ。急で悪いんだけど、今から祐巳さんのお宅にお邪魔していい?』
「それは構わないけど……」
 
 何もお構いすることができないかも――と考えて、はたと気付く。いやいや、ちゃんとお構いすることができるじゃないか、と。
 
「うん。待ってるから、絶対に来てね」
『え? ええ、それじゃ二時ぐらいに……』
「いいから今すぐ来て! お願いっ」
『わ、分かった。うん、今から行くね。それじゃ』
「うん! それじゃね」
 
 祐巳は受話器を置くと、小躍りしながらリビングに戻った。ああ、なんでこんなことに気付かなかったんだろう。我が家には、まだ食料が残っていたじゃないか。
 
「姉ちゃん、そのテンションは何なんだよ」
「今から由乃さんが家にくるって」
「それがそんなに嬉しいことか? それに来たって何も出すものは……。あ」
 
 そこで祐麒も気付いたようだ。見る見る表情が明るくなっていく。
 
「そうか、お客さん用の茶菓子!」
「そう!」
 
 一度はお茶菓子の入った缶に目を付けたけど、非常食と同じ理由で手をつけていなかったのだ。でも歴としたお客さまが来るのなら、公然とそれが食べられるのである。
 それじゃあさっそくお茶の用意を、というところで、祐麒がカップを三つ用意していることに気付いた。

 
「ちょっと待った、祐麒も一緒にいるつもり?」
「え? ダメなの?」
「普通友達が来たときに、弟は一緒にお茶しないでしょ」
「そんなこと言わずに、頼むよ。俺だって堂々と茶菓子を食べたい」
 
 別に部屋に持っていって食べればいいんじゃないか、と思ったけど、お母さんに「大丈夫」と言った手前プライドが邪魔をしているのかも知れない。
 
「しょうがないなぁ」
 
 しかし、祐巳も弟を苛める趣味はないし、由乃さんと祐麒は少なくとも知り合いだし。
 祐巳が渋々了承すると、祐麒は「祐巳は座って待っていて」、と元気よくお茶の準備をし出したのだった。
 
 

 
 
 ピンポーン、と。
 福沢家に着いた由乃は、少しだけ慎重にベルを鳴らした。現在一時半過ぎ。祐巳さんが切羽詰った様子で「早くきて」というので、急いでやってきたのだ。
 一体何をそんなに急いでいるのだろう?
 そんな疑問と、友人のお家を訪ねる高揚感にも似た、ちょっとした緊張。まだかな、と待っていると、やがて家の中からどたどたと走る音がした。
 
「いらっしゃい、由乃さんっ!」
「ご、ごきげんよう、祐巳さん」
 
 何なんだ、その勢い。何なんだ、そのテンション。
 流石に先手必勝の由乃も、先手を打たれてしまっては怯んでしまう。
 
「さあ、どうぞっ」
「お、お邪魔します」
 
 祐巳さんの勢いに押されて、家の中に上がらせて貰う。祐巳さんの家を訪れるのは初めてじゃないけど、息急き切っている様子から少し警戒してしまう。
 そしてやがて通されたリビングには、何故か妙に背筋にピシッと伸ばして座っている祐麒君がいた。
 
「や、やあ」
 
 やあ、だって。不意に銀杏キングダムのホモ王子を思いだしたけど、彼と祐麒君ではキャラが違い過ぎる。何だか、無理をして言っているような感じだ。
 
「祐麒ったらどうしても由乃さんとお茶したいって言うから。あ、どうぞ座って」
「……うん」
 
 祐巳さんに勧められて、祐麒君の向かいの席に座る。そして由乃の隣に座る祐巳さん。透明のテーブルの上には紅茶とクッキー、チョコレート。
 さて、この状況は何なんだと考察する。さっきから慌しい祐巳さんに、妙な態度の祐麒君。そしてその彼は、何故か由乃とお茶したいなどと言う。
 
(ひょっとして……改めて弟君を紹介されている?)
 
 普通友人宅に遊びに行って、その弟は同席しないだろう。しかし由乃とお茶したいということは、由乃に気があるって言うことか?
 一体どうしたらいいんだろう。と、頭が混乱し始める。生まれてこのかた、男の人をこういう形で紹介されたことはない。それに言い寄られたりしたら、どう反応したらいいんだろう。ありえないとは思うけど、危なくなったら「無礼者!」って斬りつけていいんだろうか。いや、それ以前に刀なんか持ってないし――。
 
「まあ、一先ずお菓子でも食べながら。ね」
「あ、そ、そうね」
 
 祐巳さんが率先して茶菓子に手を伸ばしたので、由乃もそれに倣う。お茶しているというのに、会話はない。祐巳さんも祐麒君も、何故か真剣な面持ちでお茶菓子を食べていた。何の変哲もない茶菓子なのに、それが貴重なものであるかのように。
 
「それで由乃さん。今日は何か用事が?」
 
 お茶菓子がほとんどなくなったところで、祐巳さんは言った。その表情は、何かを成し遂げたかのように清々としていた。
 
「あ、うん。実はこの前令ちゃんがクッキーを焼いたんだけどね。道場の子供たちに配るつもりが、急に稽古が中止になったから余っちゃって――」
 
 そこまで言って、由乃は戦慄した。祐巳さんの目が、豹変したのだ。
 
(と、()られる――!)
 
 祐巳さんは普段自分の顔を『タヌキ顔』と評しているけど、これがタヌキなものか。その眼光の向こうにあるのは、獲物を捕らんとするハイエナの魂。友をこれほど恐ろしいと思ったことはない。
 
「こ、これがそのクッキーなんだけど」
 
 大きめのタッパーに入れたそれを二人の目の前におくと、獲物を狙う目が一瞬にして移動する。よかった、彼女らの標的はこのクッキーらしい。うんうん、お願いだから由乃は食べないでね。
 
「由乃さんっ!」
 
 姉弟仲良く、声を揃えて言う二人。さっきまでするどい目つきだったのに、今はまるでマリア様を崇めるように由乃を見ていた。
 
「ありがとう。本当にありがとうっ」
 
 祐巳さんは目に涙を溜めてお礼と言い、祐麒君はボクシングの試合で判定勝ちしたボクサーみたなポーズを取っている。本当に面白い姉弟だと思う。
 
「……そんなに令ちゃんの手作りクッキーが嬉しいの?」
「そりゃ嬉しいよ」
「ところで祐麒君、カーテンを開けて日差しに目を細めてるけど、あれは何がしたいの?」
「感動してるんだよ。女の子の手作りだから」
「ふ、ふーん」
 
 男の子にとって見れば、そんなに嬉しいものなんだろうか。ちらり祐麒君の方を見たけど、彼は相変わらず視線を外に向けたまま。そろそろアレな人に見えてこなくもないけど、それだけ嬉しかったということなのだろうと、由乃はそう納得した。
 
(そんなに喜ぶものなのかな)
 
 やがてソファに戻った祐麒君は、本当に嬉しそうに令ちゃんのクッキーを食べているのだった。
 
 

 
 
 あの後家に返った由乃は、令ちゃんにことの次第を話した。
 クッキーが好評だったことに機嫌をよくした令ちゃんは、今度はパウンドケーキを焼いて、由乃と祐巳さんにプレゼントしてくれた。
 そしていつの間にか令ちゃんはお菓子を作るたび、祐巳さんと祐麒君の分も数に入れていた。
 
「私、先月に比べて一キロも……」
 
 翌月の頭に、祐巳さんは沈痛な面持ちでそう言った。
 由乃は薔薇の館のサロンから、窓辺に肘をついて空を見上げる。
 そして思うのだ。
 単純な姉でごめん、――と。
 
 

 
 
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