■ You know me by heart?
 
 
 
 
「よ、由乃さまっ」
「……はい?」
 
 それは放課後になって、祐巳さんと一緒に薔薇の館に向かっている最中。
 一人の一年生が、緊張した面持ちで由乃と対峙した。
 
「えーっと……」
 
 見覚えは、ある。確か祐巳さんと歩いていると、よく挨拶をしてくるグループの中の一人だった。
 しかし名前はもちろん、クラス名さえ知らない。そんな一人の一年生。
 
「あのっ、これ! よ、よかったら食べて下さい。幹部のみなさんの分もありますので」
「え? ……ああ、ありがとう」
「そ、それでは、ごきげんよう!」
 
 そう言って由乃にタータンチェック柄の紙袋を渡すと、その一年生はスカートをバサバサはためかせて走り去った。リリアンではご法度のその行為を、由乃は注意するべきなんだろう。だけど呼び止めようと思いついた時には、彼女の姿はもう見えなかった。
 
「よかったじゃない」
 
 にこにこと笑いながら言う祐巳さんに、由乃は意図して口を尖がらせた。しょっちゅう一年生にお菓子を貰っている祐巳さんに言われても、皮肉にしか聞こえない。
 でもこの人はそういう天然なんだってよく知っているから、由乃は「はぁ」と肩の力を抜いた。
 
「ね、中身はなんだろう」
「さあ。食べて下さいってことは、鉄アレイとかではなさそうだけど」
 
 由乃の冗談を無視して、祐巳さんは紙袋を覗き込んだり、すんすんと匂いを嗅いでみたり。こんな姿祥子さまが見たら、電光石火で注意するに違いない。
 
「まあ、開けてみれば分かることよ」
 
 由乃はそう言ってから、中庭を横断する足を踏み出す。
 自分でもよく分からない感情を、持て余したまま。
 
 

 
 
「ふーん。これがその一年生がくれたお菓子なんだ」
 
 珍しく一番乗りで薔薇の館にやってきていた令ちゃんが、さっき由乃が貰ったお菓子を鑑賞しながら言った。
 お菓子とは、見るからに手作りのマフィン。見て分かるだけでも、『ラズベリーヨーグルト』、『レモンとサワークリーム』、『アプリコット』、『ピナコラーダ』――と、多種多様。これだけの種類を学園の授業で作るとも思えないから、おそらく家で作ってきてくれたのだろう。
 
「それにしても由乃、どうしてそんなに不満そうなの?」
「そうなんですよ。由乃さんったら、あのお菓子を貰った後、全然嬉しそうじゃないんです」
「……違うわよ」
 
 いや、嬉しくないわけじゃない。わざわざ後輩がお菓子を作ってきてくれたことは、素直に喜んでいいこと。それにこのマフィンは由乃個人に宛てられた、最初の献上品なのだから。
 
「じゃあ、どうして?」
 
 令ちゃんの質問に、適当な言葉が浮かばない。
 だって先手必勝の由乃が、先手を打たれた挙句そのまま逃げられたとなったら、悔しいじゃないか。けどそれは理由としてあまりに情けなくて、幼稚で。だから言えない。
 思えばあの一年生、せめて名前ぐらいは聞いておくべきだった。これじゃあお菓子の感想もお礼も、次に会うまでできない。そんなもどかしさも、今由乃に不満をもたらしている一因だった。
 
「分かんない」
「それじゃ私にも分からないね」
 
 令ちゃんは苦笑を一つ漏らすと、大サービスで由乃と祐巳さんに紅茶を淹れてくれた。渋み控えめで淹れてあったそれは、きっと早く機嫌直してよと言ってるんだろう。令ちゃんは割とそういう小細工が好きだった。
 
「ごきげんよう」
 
 ――と、そこに入ってきたのは白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)こと二条乃梨子ちゃん。
 彼女は礼儀正しく会釈すると、テーブルの上のお菓子には目もくれず、自分のお茶を淹れに流しに向かった。
 
「ねえ、乃梨子ちゃん」
「はい」
 
 祐巳さんは紅茶を持って座った乃梨子ちゃんに、人懐っこい笑みを浮かべて呼びかけた。
 
「えっとね、背は私より少し小さくて、髪は肩までのサラサラヘアーの一年生、知ってる?」
 
 祐巳さんの訊くその質問は、先の一年生の特徴だった。
 
「ちょっと祐巳さん」
「分かるんなら知っておいた方がいいでしょ?」
 
 それはまあ、確かに。知っておけば突然教室を訪ねてリベンジ――いや、お礼にいけるかも知れない。
 しかし乃梨子ちゃんの次の言葉は、やはりと言うか、何と言うか。
 
「髪は肩までのサラサラヘアー、って、対象が多すぎて特定できません」
 
 まあ、普遍的な髪型だったし、それもそうだろう。かと言って他に特徴と言われても、誰かに似ていたというわけでもないし。結局手掛かりも何もないから、ここで立ち往生だった。
 
「それにしても、私も見たかったな」
「何を?」
「由乃にお菓子をくれた一年生」
 
 令ちゃんはザッハトルテ風のマフィンを、フォークとナイフで切りながら言う。その緩んだ頬の向こうで何を考えているか、手に取るように分かる。きっと未来の孫に想いを馳せているに違いない。
 
「お姉さまは私に妹ができたら、その子を猫可愛がりするでしょうね」
「当たり前じゃない、孫なんだから」
 
 皮肉を込めて言ったのに、令ちゃんったり思いっきり肯定してくれた。
 思わずフォークを繰る手に力が入って、アプリコットのマフィンが真っ二つになった。
 
「ねえ、どうして妹の妹を『末っ子』と言わずに『孫』って言うか、知ってる?」
 
 令ちゃんは全員の顔を見ながら問う。それに真っ先に答えたのは、祐巳さん。
 
「蓉子さま曰く、『躾は親の役目で、お祖母ちゃんは無責任に可愛がるもの』だと。そこから来てるんじゃないんですか?」
「その通り。お祖母ちゃんは孫に対して責任がないから、手放しで可愛がれるのよ」
 
 マフィンを摘みながら、令ちゃんは満足そうな顔。そりゃ自分が何も手を焼く必要のない子なら、大抵の場合は可愛がれるだろうし、立場からしても可愛いものだろう。だから二年生を妹に持つ三年生が、孫を心待ちにするのも頷ける。
 でも、それにも関わらず令ちゃんが妹を作ることを急かさないわけは、どうしたって分からなかった。
 
「うーん、それにしてもいい腕してるわ。ほら、乃梨子ちゃんも食べなよ」
「……いいんですか?」
「どうぞ遠慮せず」
 
 令ちゃんに促され、由乃の顔を窺ってくる乃梨子ちゃんに、マフィンの載ったお皿を差し向ける。令ちゃんや祐巳さんなんか、何の躊躇も逡巡もなしに食べていたというのに、律儀なことだ。
 
「乃梨子ちゃんみたいな子が、もう一人居てもいいかもね」
 
 何気なく言う祐巳さんは、自分も妹を持たなくてはならないということを分かってるんだろうか。
 分かっているのか、と言ったら、それは由乃も同じだったけど。
 
「はぁ……」
 
 本当に、由乃のお祖母ちゃんの無責任な可愛がり方には気が滅入る。
 誰にも聞こえないように吐いた溜息は、紅茶の湯気を吹き飛ばし、やがて消えた。
 
 

 
 
 その日の晩のことだった。
 
「由乃、入るよ?」
 
 コンコンというノックの後に、令ちゃんの声。お隣に住んでいて、その垣根も限りなく低い島津家と支倉家では、よくあることだ。
 
「うん」
 
 短く、そっけない返事を返すと、ゆっくりと扉が開く。何故そんなに慎重に開けるんだと不思議に思っていたら、それもそのはず。令ちゃんはアップルパイと紅茶のカップを載せたお盆を持っていた。
 
「どうしたの、それ」
「久しぶりに由乃に何か作って上げたくなって、作っちゃった」
「……もしかして、今日の差し入れへの対抗心?」
「そんなわけないでしょ。ただ最近お菓子作りしてなかったから、気が向いただけだよ」
 
 そんなこと言ったって、やっぱり対抗しているようにしか見えない。大人げないないというか、それが乙女の純情ってものなのか。
 
「食べるでしょ?」
「それはもちろん」
 
 けれど理由が何にしろ、由乃のために何かを作ってくれることは、やっぱり嬉しい。由乃はテーブルに置いてあった教科書やノートをどけると、令ちゃんの足元にクッションを放った。
 
「はい、どうぞ」
「いただきまーす」
 
 二人向かい合って座ると、由乃はおもむろにアップルパイに手を伸ばす。思ったより熱くて取り落としそうになったけど、手の中で転がして、熱に馴れたら一齧り。焼き立てのアップルパイは、中のリンゴが湯気を立てている程アツアツで、それだからこそ美味しかった。
 
「おいしい?」
 
 口の中を火傷してしまいそうで、ちょっとだけ涙目になりながら頷く。久しぶりってこともあるんだろうけど、いつもより美味しいと思った。
 
「よかった。由乃の機嫌も直ったみたいだし」
「……私、そんなに機嫌悪そうに見えた?」
「見えたよ。せっかくお菓子のプレゼントまでもらったのに、何だか複雑な顔しているし」
 
 令ちゃんは自らもアップルパイに齧りつきながら、真剣な目で由乃を見た。唇についたパイ生地の欠片が、少し間抜け。由乃がそれを摘んで食べてしまうと、令ちゃんは照れくさそうに笑って続けた。
 
「何が原因なの?」
「令ちゃんは、何が原因だと思う?」
 
 質問を、質問で返す。令ちゃんのデレデレした表情が、また真摯なものへと変わった。
 
「うーん……」
 
 紅茶を一口飲んで、考察タイム。
 分かるはずないと踏みながらも、分かって欲しいという気持ちが、由乃にはあった。
 そして令ちゃんの導きだした答えというのは。
 
「さしずめ、妹のことかな」
 
 ――なんということか、ドンピシャリ。
 驚いてちょっとだけ紅茶を吹きそうになった。
 
「どうしてそう思うの?」
「薔薇の館で祐巳ちゃんが、『乃梨子ちゃんがもう一人いたらいいのに』って言ったでしょ。その後由乃が溜息をついていたから」
 
 なるほど、ちゃんと見ていたわけだ、令ちゃんは。感心して、嬉しくて、でも看破されたのが悔しいから、絶対に頬を緩めたりはしない。自分でも天の邪鬼だなと思う。
 
「……当たり。だって、悩んで当然でしょ。いつかは妹を持たなきゃいけないんだし」
 
 いつか、何て言ってはいるけど、本当は期限付きだ。けれどそれを令ちゃんは知らないし、江利子さまが関わっていると知ったらややこしくなるから、この場では言わない。
 
「妹を持たないといけない、ね。本当にそうなのかな」
 
 すると何を思ったか、令ちゃんは意外なことを言い出した。
 
「どうして?」
「姉が居ても、妹を持たない人もいるじゃない」
「でも、私はつぼみでしょ?」
 
 だから由乃が黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)として役目を果たした後、その後取りが必要。そのためには、歴代の薔薇さまたちがそうしたように、妹を迎えなければならない。それが代々山百合会に続いてきたスタイルなのだ。
 
「そうだけどね。でもつぼみでなきゃ薔薇さまになれないってことはないんだよ」
「それはわかってるけど」
「だからね、別に妹を持つことは強制じゃない。もちろん立候補者が足らない場合を想定して、次期薔薇さまの目星をつけるぐらいはしなきゃダメだとは思うけど」
「……令ちゃんは孫の顔が見たくないの?」
「見たいよ。でもそのために、由乃に妹を作るのを強要したりなんてしたくないの」
 
 サクリ、と。それはリンゴを包むパイ生地のように優しい言葉だった。
 しかし、それでも。
 
「それでも、私は妹を持つよ」
 
 江利子さまとの約束に反故するつもりはない。妹を持つことに対する実感も薄いけど、きっと由乃には必要な存在になるだろうから。
 
「そう。……もしかして、私が追い詰めちゃったかな」
 
 それは違う。追い詰めている人がいるとしたら、江利子さまだ。
 何だかまた気が滅入ってきて、アップルパイを食べた後、部屋の窓を開けた。顔だけ外に出すと、数えられる程しか見えない星たち。
 流れ星が流れればいいのに。
 そうしたら、素敵な妹を迎えられますようにって、三回願う。本気で信じてはいないけど、気分だけなら楽になれそうだ。
 
「由乃が妹を持とうって思うのは、黄薔薇のせい?」
「まあ、そんなところ」
「由乃にロザリオを渡したのが、苦しませている原因になっちゃったわけか」
「……違うわよ。バカなこと言わないで」
「じゃあ、江利子さまの妹になったのがダメだったのかな」
「はぁっ!?」
 
 流石にその発言には、カチンときた。そりゃ今由乃を悩ませる原因があるとすれば、間違いなく江利子さまなのだろうけど、妹になったのがダメだったなんて、そんな極論ってない。例え由乃にとって天敵であっても、令ちゃんは心から江利子さまを敬愛しているはず。そんな人を裏切るような言葉は、絶対に許さない。
 
「……冗談だよね」
「もちろん、冗談だよ」
 
 その言葉を聞いて、一気に気が抜けた。何て性質の悪い冗談なんだろう。
 
「冗談でも、あんまり変なこと言わないでよ」
「ごめん。でも、一度想像してみて。薔薇さまがどうとか、関係のない私たちをさ」
「薔薇さまがどうとか関係ない、ね」
 
 部屋の中に向けていた視線をまた外に戻して、想像してみる。
 黄薔薇ファミリーでも、なんでもない由乃と令ちゃん。令ちゃんは見ての通りだからやっぱり人気は出るんだろうけど、今ほどの人気ではないだろう。それに山百合会の幹部だからという理由で皆のお姉さま的な立場にいるけど、幹部でないのだったら由乃一人のお姉さま。今よりもっと令ちゃんを独占できるのだろう。
 それはいたく甘やかで、――そして酷く寂しい。
 だって由乃は、山百合会の仲間たちと出会ってしまったから。たった二人っきりなんて、寂しい。それにロザリオを返した後、あれほど上手く仲直りできたかどうかだって分からない。由乃は何度も何度も、仲間たちに助けられてきたのだ。
 
「寂しいよね、凄く」
「そう思う?」
 
 秋の風が部屋に舞い込んで、髪を揺らす。ちょっと寒くなってきたから窓を閉じようかと思った瞬間、令ちゃんに後ろから抱き締められた。
 
「やっぱり、由乃には妹を持って欲しいかもしれない」
「どっちなのよ」
「だって私が卒業した後、由乃は一人になってしまうから。もちろん祐巳ちゃんや志摩子はいるけど、黄薔薇ではないからね」
 
 それは、確かに。志摩子さんには既に乃梨子ちゃんという妹がいるし、祐巳さんもいずれ妹を持つだろう。そしてこのまま由乃が妹を持たなかったら、妹がいない人間がポツンと一人。それは過保護な令ちゃんにとって、思案に値する状況だ。
 
「ねえ、令ちゃんはどんな妹がいいと思う?」
 
 胸の前に回された手に触れながら、問いかける。
 
「由乃が選んだ子なら、どんな子でもいいよ」
「そういうのが一番困るんだけど」
「私の意見で決めるものでもないでしょ」
 
 令ちゃんはそう言った後、抱き締める腕に少しだけ力を入れた。冷えてきた身体には、令ちゃんの暖かさが丁度いい。
 
「由乃は、私のことを好き?」
「……いちいち言わせるつもりなの?」
「別に言わなくてもいいよ。ただアドバイスするならね、由乃が私に対して持ってくれている感情を向けられる子を、妹にしたらいいと思うの」
「無理よ。世界一は、一人しかなれないもの」
「一番じゃなくていいの。好きになれて、大切にできる子なら」
 
 本当にそんな風に思える子がいるんだろうか、と思う。
 ふと見上げた夜空に、流れ星が駆けた。絶妙のタイミングで流れたそれに、由乃は何もお願いしなかった。だって令ちゃんの話を聞いた後じゃ、星に与えてもらった妹なんて嫌だと思ったから。
 だから妹は、自力で見つけないといけない。令ちゃんと同じぐらい好きになれる子がどこかにいるかも知れないし、もしかしたらもう出会っているのかも知れない。
 
「ねえ、令ちゃんは何か願いごとした?」
「うん。由乃に素敵な妹ができますようにって」
「……令ちゃんのバカ」
「えっ? ど、どうしてよ」
 
 おろおろしだした令ちゃんを見ながら思う。
 妹にするのなら、令ちゃんみたく鈍感じゃない子にしようって。
 
「ねぇ、由乃ぉ」
 
 令ちゃんを振りほどき、窓を閉めた。
 ついでに条件を付けるなら、もっと毅然とした子。
 
「バーカ」
 
 そして。
 こんな風に、抱き締めることができる子。
 
 

 
 
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