■ 夜は広がり、華が散って、貴女は眠る まだまだ暑い日の続く、夏。 突き抜けるような蒼穹は、今はすっかりと朱色に染められ、蝉の鳴き声は鈴虫の鳴き声に代わっている。 どこからか聞こえてくる風鈴の音と、昼間に比べれば随分と涼しくなった風。それが乃梨子と志摩子さんの間を吹きぬけ、日中の暑さを忘れさせてくれる。 「思ったより早く帰ってこれたわね」 志摩子さんは山門をくぐると、腕時計に視線を落としてそう言った。 八月三日、午後六時十二分。思ったより早く、と言っても、いつもの日帰り仏像・聖堂鑑賞旅行なら、もう乃梨子も家についている時間である。 今日の日帰り旅行では、地理的なことからもっと遅くなることが予定されていた。だから旅行先に近い方の、志摩子さんの家に泊まらせて貰う約束になっているのだ。 「志摩子さんの家に泊まるのって初めてだから、何か楽しみだな」 「そう? でも家には、面白いものなんてないわよ?」 「そういうことじゃなくて。お泊り会みたいで、楽しそうだと思ったの」 それに例え何もなくたって、志摩子さんがいるならそれでいい。とても真正面からは言えないけど、つまりはそういうこと。 「ところで、乃梨子?」 「なに?」 「ちょっと手伝って貰いたいことがあるのだけど、いい?」 「うん、いいよ」 乃梨子は手伝いの内容も聞いてないのに、志摩子さんのお願いにオーケーを出した。志摩子さんのことだから、無茶なお願いじゃないって信用しているから、そうやって即答できる。 「それで、何を手伝えばいいの?」 「それはその時が来てからのお楽しみにしておきましょう」 「お楽しみ?」 乃梨子が顔を覗きこんで訊くと、志摩子さんはふふっと笑うばかりで、答えを教えてはくれなかった。 涼やかな風が、二人の背中を押すように駆け抜けて行く。 その風が境内の広葉樹とその周りを囲む竹薮を、サァサァと鳴かせていた。 藤堂家につくとまずお風呂に入って汗を流し、それから夕食をご馳走になった。志摩子さんのお母さんの手作りだという夕食は当然のように和食で、全体的にあっさりした味付けだったので、いつの間にって言うぐらいペロリと平らげてしまった。 「あー、美味しかったー」 「乃梨子ったら、本当に美味しそうに食べていたものね。母もきっと喜んでいるわ」 志摩子さんの部屋に入るなり、乃梨子はぺたんと腰を下ろした。お腹も人心地ついて、一気に気が抜けてしまう。 部屋は十畳以上あるかと思われるぐらい、女子校生一人に対しては広い。それなのにあんまり物は多くなくて、タンスと化粧台、本棚と漆塗りのテーブル以外、目だった生活用品がない。パソコンはおろかテレビすらなくて、その質素さが志摩子さんらしいと思った。 「乃梨子。休んでいるところを悪いのだけど」 「え?」 そう言うと志摩子さんは、タンスから二着の浴衣を取り出し、その一着を乃梨子に渡した。 「乃梨子は、子供は好き?」 そして、唐突な質問。 子供っていうのは会話から察するに、未成年という意味じゃなくて、小学生とか幼稚園児とか、そのぐらいの年の子供を指しているんだろう。 しかし浴衣と関連付けて考えると、全く意味が分からない。 「それって、『手伝い』に関係あること?」 「ええ」 「子供かぁ……。別に嫌いじゃないけど」 「そう。ならよかったわ」 そう言うと志摩子さんは、おもむろに服を脱ぎだした。乃梨子はそれに叫び出しそうなぐらい驚いたけど、考えてみれば浴衣を渡されたということは、すなわち着替えることを示唆されたのだ。 (ああ、びっくりした) 胸を撫で下ろしたのも束の間。気付いた時には志摩子さんは下着姿になっていて、また乃梨子は声を出してしまいそうになった。 「乃梨子?」 舐めるような視線を訝しく思ったのか、志摩子さんは不思議そうに乃梨子を見てくる。白い肌が神々しすぎて、眩暈を起こしそうだった。 「浴衣の着方が分からないの?」 「う、ううん、そう言うわけじゃないの」 志摩子さんの言葉に急かされる様に、乃梨子は着ていたワンピースを脱ぎ捨てた。思えば、女の子同士なんだからいちいち騒ぎ立てる必要もないのだ。――そう頭で考えても、クラスメートと一緒に着替える時とは違う感覚を覚えてしまうのは、相手が志摩子さんだから仕方のないことだと思う。 じろじろ見ると失礼だから、できるだけ見ないように。 「……乃梨子?」 「は、はいっ!?」 「私の身体、どこかおかしい?」 できるだけ見ないように、できるだけ見ないように――と考えていたはずなのに。 結局興味とか煩悩とかに負けて、志摩子さんを見てしまっていた。 「お、おかしいだなんてっ。そんなこと全然ないから!」 むしろおかしいのは乃梨子の方だ。 乃梨子にとって、志摩子さんは大切な人であると同時に、天敵と等しい。だって何をしたって志摩子さんには適わないし、微笑み一つで乃梨子を操ってしまえる。ひとたび服を脱げば、いとも簡単に乃梨子の平常心を崩してしまえるのだ。 「それならいいのだけど」 ――それにしても志摩子さんのプロポーションってば、顔と同じく整いすぎだ。 出るところは出ていて、引っ込むべきところは引っ込んでいる。天の美禄もここまでくれば、羨むどころか感嘆してしまう。――って、また志摩子さんの方みているし。 「乃梨子、まだ着替えていないの?」 「あっ、……えっと」 乃梨子が見とれている間に、志摩子さんは早々と浴衣に着替えてしまった。 「着方が分からないなら、素直にそう言えばいいのに」 そう言って志摩子さんは、下着の上に浴衣を羽織っただけの乃梨子に近づく。そしておもむろに、乃梨子に浴衣を着せていくではないか。 「あ、あのっ、自分でできるから」 「いいからじっとしていなさい」 珍しく命令口調で言われたので、乃梨子は志摩子さんの言葉に従った。着方が分からないんじゃなくて、志摩子さんを見詰めてましたなんて、ろくないい訳じゃない。 志摩子さんは鮮やかな手つきで浴衣を着せ終わると、ポンと乃梨子の胸元に手を沿えて言った。 「やっぱり乃梨子には和装が似合うわ」 「えっと、……そうかな?」 自分よりも遥か上を行く美貌をもつ人に容姿を褒められると言うのは、何だか慰められているような気分になる。もっとも、志摩子さんは天然で言っているのだから、そんな意味はないのだろうけど。 「それじゃ、外へ行きましょうか」 「うん。……ねえ志摩子さん。そろそろ何を手伝えばいいか、教えてくれないの?」 乃梨子が訊くと、志摩子さんは縁側に出る襖を開けて、振り返ってから言った。 「もうすぐ分かるわよ」 ――何故か縁側の下から、バケツを取り出して。 「ちょっと外に出ていますので」 バケツに三分の一ぐらい水を入れて、それを持って外に出ようとした時。玄関の近くを通りがかった住職に、志摩子さんが言った。 「おお、もうそんな時間だったか」 そして、乃梨子には理解の出来ない会話。 子供は好きかという質問と、水の入ったバケツ。そして何故か着替えさせられた浴衣。点と点が、中々繋がってくれない。 「乃梨子ちゃん」 「はい?」 「本堂に火をつけても構わんが、わしの頭には火をつけないでくれよ」 またまた、理解の出来ない点が一つ。住職の頭のどこに火をつけろと言うのだろう。 住職は自分で言っておいてガッハッハと豪快に笑うと、廊下の向こうに消えていった。 「本堂に火をつけてもいいって……」 「本当に父は冗談が好きよね」 志摩子さんはふふっ、と笑うと、靴箱から草履を二足出して、乃梨子の前に置いてくれた。浴衣も草履も志摩子さんのお下がりだなんて、本当の姉妹みたいだ。 それから外に出ると、志摩子さんに連れられて本堂の前まで来た。本堂の前には石畳が伸びていて、後は雑草すら生えない砂地が広がるだけ。 「ねえ志摩子さん。流石にそろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」 「そうね。でも説明するより早く、乃梨子は分かってくれると思うわ」 志摩子さんがそう言うと、境内に入るための階段の方から声がした。きゃいきゃいと楽しそうな、何人かの子供の声と、それを軽く注意する大人の声。 その声の主たちが境内に現れた瞬間、乃梨子は志摩子さんの『手伝い』をやっと理解した。 子供たちを連れてきた、親と思しき中年女性たちは三人。その手には、一様に花火一式が握られていたのだ。 (バケツの水は花火のため、浴衣に着替えたのは服を汚さないため、子供が好きかという質問は、子供達の面倒を見るからか) 答えが分かってしまえば、疑問の点と点は繋がって、合点がいった。 「しまねぇだ!」 「志摩子お姉ちゃん、久しぶりー」 おそらく近所の子たちなのだろう、連れて来られた子供たちが全員、志摩子さんに飛びつくように駆け寄ってくる。しまねぇ、志摩子お姉ちゃんって呼び名、何だか新鮮だ。 「いつも迷惑かけるわね、志摩子ちゃん」 「いえ、私も楽しみでやってますので」 「そう言ってくれると助かるわ。それじゃ、一時間ぐらいしたら迎えにきますので」 中年女性たちの一人はそう言って花火とロウソクを志摩子さんに渡し、彼女たちはお喋りしながら去って行った。普通子供たちの花火には親が付き添うものだろう、って思ったけど、それだけ志摩子さんが信頼されているってことなのかも知れない。 改めて子供たちを見ると、女の子が四人に、男の子が三人。どの子も小学生低学年ぐらいだ。 「ねえ志摩子お姉ちゃん、この人だれ?」 男の子の一人が、乃梨子の浴衣の裾を引っ張って言った。 訊かれた志摩子さんは一瞬だけ乃梨子の方を見て、微笑みながら答える。 「その人は『りこねぇ』よ」 「りこねぇ!?」 志摩子さんに妙なあだ名を付けられて、思わず声がひっくり返ってしまった。 「乃梨子の大叔母さまが、『リコ』って呼んでいらしたから」 「ああ、そっか……」 きっと志摩子さんから電話がかかってきた時なんかに、「リコー! お姉さまから電話だよ!」って声が聞こえてたんだと思う。恨むぞ、菫子さん。 「りこねぇ、『おおおばさま』って誰?」 「え? えーっとね、……私のお祖父ちゃんの妹で、大昔から生きてる人なんだよ」 菫子さんについての説明は、多分これで正しい。乃梨子に訊いてきた男の子は「ふーん」と言って、他の子供たちの作る輪に戻って行った。 「それじゃあ、始めましょうか」 花火の袋を持って言う志摩子さんに、子供達が沸く。 ――そこからが困難の始まりだった。 「しまねぇ、これ火がつかないよ」 「りこねぇ、ロウソクの火ぃ消えたー」 子供七人に対して、保護者二人は少ない。 「あー、こら! 石畳に落書きしちゃ駄目でしょ!」 次から次へと起こる問題に、乃梨子は翻弄されてばかり。志摩子さんは慣れているのか、落ち着いた様子で子供たちを治めていた。 「りこねぇ見て、きれいでしょ? ね?」 それでも、無邪気な子供というのは可愛いもの。あどけない笑みで花火を見せてくる女の子に、思わず頬が緩む。 「本当。綺麗ね」 地面に舞い下りる火花の軌跡が、闇に映える。振り返って見てみると、志摩子さんは子供たちに囲まれて、本当に幸せそうに微笑んでいた。 穏やかで賑やかで、ありふれているけど大切な時間。 志摩子さんの幸せそうな顔が見れるのなら、花火がなくならなければいいのに、と。 そう、思った。 「あの子たちは、よく寺の境内に遊びにくる子たちなの」 花火が終わった後、志摩子さんはスイカの切れ端を片手に言った。このスイカは面倒を見てくれたお礼にと、子供たちの母親の一人から渡されたものだ。 「もっと小さかった時はね、一段ずつ階段を上ってくる姿がとても可愛かったの」 もちろん、今も可愛いけれど、と付けたした志摩子さんは、まるで目の前に子供たちが居るかのように微笑した。 それも納得できる。だって志摩子さんの五年後とか十年後を想像してみたら、子供たちに囲まれて笑っている情景が脳裏に浮かんだから。それがあんまりにも似合っていて、我慢しても口端に笑みがのってしまう。 「乃梨子、聞いている?」 「……うん。聞いてるよ」 今日の志摩子さんは饒舌だ。いつもは乃梨子の方がどこに行きたい、あれがみたいって話まくって、志摩子さんが相槌を打ちながら聞いてくれることが多い。でも今は反対で、志摩子さんはいかに子供は大切で尊い存在か諭し、乃梨子がそれを黙って聞いている。 それが一区切りつくと、乃梨子は後ろ手をついて空を仰いだ。今居る縁側からは、月がよく見える。 「涼しいね」 雨戸を開け放ったままの縁側には自然の風がよく入ってきて、火照った身体を冷やしてくれる。それが心地よくて、二人黙って庭先に生えた草木が踊るのを、目を細めて見ていた。 「さて」 そろそろスイカの食べかすとかを片付けないと。そう思って乃梨子が身を起こすと、それに合わせて志摩子さんが (え――?) 志摩子さんの頭が、乃梨子の肩を枕にするようにのる。身体全体で、しな垂れ掛かってくる。 「し、志摩子さん?」 今日は何故だか知らないけど、随分積極的だ。乃梨子が動揺しながら志摩子さんの顔を覗くと、――なんてことはない。志摩子さんは、すーすーと寝息を立てていた。 (そりゃそうか) 志摩子さんから甘えてくることなんて、まず無いし。 それに今日は日帰り旅行の上に、やんちゃな子供たちの面倒までみていたのだ。学校でも皆のお姉さまだし、プライベートでもお姉さま。その上乃梨子というおまけつきで、疲れていないはずがない。 「よっ……と」 志摩子さんを起さないように少しずつ身体をずらして、膝枕をしてあげる。月明かりを浴びた志摩子さんの顔は、吸い込まれてしまうんじゃないかと思うほど綺麗で、神秘的な美しささえ湛えていた。 それをもっと見ていたくて、志摩子さんの顔にかかった髪を払いのけ、頬を撫でる。今だけは、乃梨子がお姉さま。 「……」 安らかな寝顔。いずれ起こして、ちゃんと布団で眠らせなければいけない。でも暫くは、この人の寝顔を見ていたい。 本音を言うなら、もっとずっと見ていたい。どれだけ見詰めていても飽きない、安らかな寝顔を。 ――そう、願ったのに。 「え……?」 まるで何かのスイッチが入ったかのように、志摩子さんの表情がこわばる。眼はぎゅっと閉じられ、睫が震え、夢の中の何かに怯えている。 糾弾されているのか、追い立てられているのか、純粋な恐怖が滲み出した表情――。 「志摩子さんっ!」 考える間もなく、乃梨子は大声で志摩子さんを呼ぶ。薄っすらと目を開いた志摩子さんを見て、心底安心する。 「……怖い夢でも見た?」 「ええ。……とても怖い夢だったの」 乃梨子が志摩子さんの手を握ると、強く握り返される。 「乃梨子を残して、リリアンを去らなくてはならなくなる夢――」 その言葉を聞いて、志摩子さんの怯える表情がフラッシュバックした。 ぎゅっと閉じられた眼。震える睫。 今頃になって、乃梨子は志摩子さんの強さと弱さを知った。 (ずっと、怖かったんだ) 乃梨子は志摩子さんのことを、いつでも学園を出る覚悟ができている、強い人だと思っていた。でも、違う。そう決断できたのは勇気のあることだと思うけど、自分の家庭事情を話すまで、きっと怯えていた。いつか追放されるように学園を出ることに、怯えていたのだ。 「大丈夫だよ」 でも、そんなことはありえない。誰も志摩子さんを弾劾しようとなんてしない。 「――ええ」 そう言うと志摩子さんは、また目を閉じる。乃梨子の手を握っている力が、ふっと緩まる。 「何があったって私は、志摩子さんのそばに居るから」 だから、大丈夫。それを聞き届けたかどうかは分からないけど、志摩子さんはまた寝息を立て始めた。 相当疲れていたんだと思う。考えれば学園は堅苦しいし、家も乃梨子の家庭と比べれば大分硬い。それが普通になってしまっているとは言え、これじゃ休まる暇なんてないと思う。 ――だから、私が家になろう。 そう、乃梨子は思った。 例えば、帰りついてほっと笑顔がこぼれるような。 例えば、安心しきっていつでも寝てしまえるような。 そんな風に、志摩子さんの家でありたいと、心から願う。 「おやすみなさい」 そよ風が吹いて、どこか遠くから風鈴の音が聞こえた。 チリン、チリンと。 澄んだ音色は、爽涼な夏夜の空気に溶けていく。 志摩子さんには、笑顔と安心を上げたい。 ずっと、ずっと。貴女が穏やかに暮らせますように。 きっと今もどこかで見ているはずのマリア様に、それだけを祈った。
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