■ Wish I had an Angel
 
 
 
 
 ことの始まりは、一本の電話からだった。
 
『突然ごめんなさいね』
 
 そう告げた声の主は、祥子さん。祐麒の姉である祐巳の、その(グラン・スール)である彼女は、お隣のリリアン女学園での生徒会長である。
 
「祐巳ですか? 今代わり――」
『いいえ』
 
 祥子さんが福沢家に電話をかけてくる相手というのは、祐巳しかいない。だから電話を代わろうと思ったのだが、祥子さんはそれを即座に遮った。
 
「え?」
『祐麒さん、あなたにお話があるの』
 
 祥子さんは学園祭の劇の練習で聞かせたよく通る声より、幾分トーンを落として言った。落ち込んでいる、というより、何か悩んでいるような、そんな口調だった。
 
「俺に、ですか」
『ええ、今からお時間よろしいかしら?』
 
 それから祥子さんは待ち合わせの場所と時間、そして祐巳には秘密にすることを強く言って、電話を切った。
 週末の午後、――外はもう暗い。
 断る理由もなかった祐麒は、「友達と会ってくる」とだけ言って、コートを肩にひっかけた。
 
 

 
 
 待ち合わせ場所のK駅に着くと、既に祥子さんは居た。
 ロービングのツイードをバイヤス取りしたAラインのフリンジスカートと、カシミヤと思しきセーターの組み合わせはシックながら、彼女が着ると気品が溢れ、逆に目立っているように思える。
 祐麒に気付いた祥子さんは小さく手を上げると、ゆっくりと歩みよってきた。
 
「お呼び立てして、ごめんなさいね」
「いえ、どうせ暇ですんで」
 
 祥子さんは祐麒の答えに苦笑を一つ漏らすと、「ついてきて」と歩きだした。
 そこからは、本当に早かった。
 祥子さんは颯爽とロータリーに停まっていたタクシーに乗り込むと、運転手に行き先を告げた。聞いたことのない店の名前だったが、運転手と祥子さんとの会話で、そこが銀座のレストランということだけは分かった。
 
(なんで、こんな展開に?)
 
 祐麒が疑問に思っている間に、タクシーは店に到着する。
 
「お代は気にしないでちょうだい」
 
 そういう祥子さんに、祐麒は丁重にお断りを申し上げたが、それは許されなかった。小笠原家の人間は(プティ・スール)を本当の家族と違いなく考えているから、祐巳の弟である祐麒もそれは同じだと、そんなよく分からない理由から、ご相伴に与ることになったのだ。
 気兼ねしてしまうが、それで良かったのかも知れない。見栄を切って自分で支払うと言って、もし払えなかった時のことを考えるとゾッとする。
 
「畏まったお店じゃないから、そんなに緊張しなくていいのよ」
「は、はぁ……」
 
 確かに店は正装でなくては入れない、というところではないから、物凄く格式の高い店というわけではないらしい。
 しかし店内は天井を一段上げた間接照明、ダウンライト、ブルーガラスのブラケットという照明のみで全体的に暗く、どう見ても高級感が漂っている。
 そんな中をホールスタッフに案内されながら、堂々と歩いていく祥子さんは、確かに祐巳の言うとおり格好いい。それはもう、思いっきり気後れしてしまうほどに。
 
「コースは?」
「お任せします」
 
 Reservedと書かれた札の置いてある窓際の席に座る。
 金属脚のテーブルトップにテーブルクロスが二枚、トパーズを象嵌したシルバーのカトラリー、カット技法で描かれた薔薇が鮮やかなクリスタルグラス。どこをどう見ても高級品ばかりで、祐麒は少し逃げ出したくなった。
 
「ワインはノンアルコールにしておきましょうか」
「そうですね」
 
 曲がりなりにも、二人はそれぞれの学校の生徒会長。それが外で飲酒していたとなると、大問題だ。
 
「それで」
 
 祐麒は身体と机との間を気にしながら、祥子さんに話しかけた。沈黙は、テーブル・マナーに置いての無作法である。
 
「わざわざこういう席を用意して頂いたということは、何か込み入ったお話があるんですよね?」
 
 目の前の人を真っ直ぐ見て、問いかける。
 何とも不思議な組み合わせだ。思えば、祥子さんと二人っきりというシチュエーションは、ほとんど初めてじゃないだろうか。正月の時は柏木先輩がいたし、学園祭関係の時は常に回りに誰かがいたから、こうして一体一で喋ったことは、花寺の合戦での櫓の上以来だ。
 
「それほど込み入った話ではないのだけど」
 
 祥子さんは少しだけもの憂げに睫を伏せた。ちょうど前菜が運ばれてきたので、それをいただきながら歓談という段になる。
 
「相談……。いえ、ちょっと腰を落ち着けて訊いてみたいことがあったのよ」
 
 祥子さんは、自分からは絶対に言わないが男嫌いだ。そんな彼女が、自ら男である祐麒をディナーに誘った、そのきっかけは何なのか。実に興味のあるところなわけだが――。
 
「祐麒さんは、祐巳に姉ができたと知らされた時、どう感じたのかしら?」
 
 そのきっかけとやらは、祐麒を拍子抜けさせる質問だった。
 
「祐巳に姉ができた時……?」
「そう。ごめんなさいね、他校の制度の話に付き合わせてしまって」
「いえ……」
 
 祐巳に祥子さんという姉ができた時。その時の出来事を回顧する。
 ちょうど一年ぐらい前、学園祭が終わって家に帰ってきた祐巳の首にはロザリオがかかっていて、その時の祐巳はずっと頬が緩みっぱなし。これ以上嬉しいことがあるだろうかってぐらい、幸せそうな顔をしていた。
 
『お姉さまができたの』
 
 それを聞いた母さんなんか、何を思ったのか赤飯なんか炊きだして、父さんは「何だかよく知らないけどめでたい!」と深酒をして潰れていた。興奮している母さんを落ち着かせようとしたり、父さんの介抱をしたりして忙しかったことは、今でもよく覚えている。
 しかし、祐麒がそれをどう感じたか。それは正直に言うのが憚られるほど、恥ずかしい感情だったように思う。
 
「祐麒さん?」
「……ああ、すいません」
 
 考え込んで黙ってしまった祐麒に、祥子さんは少しだけ心配そうに小首を傾げた。
 さらさらと美しい長髪が、わずかに流れる。祥子さんはそこらのアイドルなんかとは比較にならないぐらい整った顔立ちの、絶世の美女と謳われるに相応しい人。そんな彼女とディナーを共にしているというのに、不思議と緊張はしなかった。
 
「祐巳に姉ができた時、……俺は嫉妬してたんだと思います」
「嫉妬を?」
「ええ。あんなにも幸せそうに誰かの話をする祐巳なんて、見たことなかったから」
 
 まったく、シスコンにも程がある。そう言われても仕方のないぐらい、恥ずかしい嫉妬。
 とり憑かれてしまったかのように祐巳の口から溢れだす「祥子さま」、「お姉さま」という言葉は、否応なしに祐麒の心を締め付けた。切なさというものを、初めて味わった。
 
「そういうものなのかしら」
 
 祥子さんは嫉妬されていたという事実を受けると、考え込むように眉をひそめた。
 
「俺からも、一つ質問いいですか?」
「どうぞ?」
 
 ホールスタッフが、食べかけの前菜の載った皿を下げる。前菜は三皿目。おそらく次は、メインディッシュか。
 
「どうして、その質問をしたんですか?」
 
 ワイングラスを空けてから、ゆっくりと問う。祐麒を呼び出した理由が、その質問であることは分かった。しかしどうしてそんなことを訊きたがるのか、いくら看破しようとしても出来なかった。
 
「私はね、リリアンの学園祭が終わった後、祐巳に『妹を作りなさい』と言ったのよ」
 
 メインディッシュである『乳飲み仔牛スネ肉のオリエンタル風』が、テーブルに置かれる。煮込むのに使ったのか、オレンジの香りが鼻腔を掠めた。
 
「いずれあの子は妹を持つわ。ちょっと、その時のことを考えてしまったのよ」
「それで、その状況に近かったであろう俺に話を、というわけですか」
「そう」
 
 メインディッシュの肉料理を音を立てずに切っては、口に運んでいく。こういう場で、シルバーで音を立てるのは厳禁。一応花寺はお坊ちゃま学校ということで、マナーの授業があるから、こういう時には助かる。
 
「随分、慎重なんですね」
 
 沈黙は、無作法。先ほど思案に黙り込んでしまったことを教訓に紡ぎだされた言葉は、幾分無礼な言い方になってしまっていた。
 
「そうよ。私は、祐巳に依存しすぎているから」
「え――?」
「祐巳に妹ができても、ちゃんと可愛がれるかどうか分からない。少しだけ、不安なのよ」
 
 意外だった。
 外から見れば非の打ち所なんかなくて、自分の弱みなんて一切見せないような人だと思っていた。その彼女が、自らの弱点を告白するように吐露したのだ。まさかこのワイン、実はアルコールが入っているんじゃないだろうか。
 
「……嫌だわ。私ったら」
 
 祥子さんもらしくないと思ったのか、片手で口を塞ぐ。
 ――祐麒は、この人のことを誤解していたのかも知れない。
 祥子さんはもっと強い人で、そうであるが故に祐巳を振り回し、傷つけ、また癒した。そういう意味では、彼女を憎いと思ったことは、幾度となくあった。祐巳をいとも簡単に手懐け、振り回す人だと。そう認識してしまっていたのだ。
 けれど、違う。
 祥子さんの心はワイングラスのように繊細で、祐巳を想う気持ちは透き通っている。凛と澄ましている祥子さんが、今は儚く、脆く見えた。
 
「祐麒さんは、私のことをどう思っているの?」
「は、はい……?」
 
 ワタシノコト、ドウオモッテイルノ?
 言われて、ドキッとした。何でまた急に、決着を付けたがる女の台詞の代表みたいなことを言ってくるのか。しかしその疑問は、次の言葉で氷解した。
 
「あなたから祐巳を奪った、私をどう思っているのか、正直な意見を聞きたいの」
「へ? ああ、そうですよね……」
 
 何を勘違いしているんだ、恥ずかしい。祐麒は数秒前の自分を咎めた。
 
「『奪った』って、ちょっと大げさですね。少なくとも俺は、そんな風に感じてはいませんけど、……何て言ったらいいのか」
「遠慮は無用よ」
 
 祥子さんは、祐麒の目を真っ直ぐ見て言った。
 
「……正直、不安でしたよ。このままでいいのかなって。でも今は、信頼しています」
「私を?」
「ええ」
 
 オーバーアクションにならないように、深く頷く。
 その言葉は、きっと本心だった。祥子さんがどれだけ祐巳を好いていて、大切にしているか分かったから。だから、信頼できる。
 
「信頼、ね。それは好意ととってもいいのかしら?」
「もちろん」
 
 胸を張って言った。心配性で、繊細で、儚い彼女を応援するように、はっきりと。
 
「私は祐巳の妹を、好きになれると思う?」
「ええ、きっと」
「あら、それは告白?」
「え? ――あ」
 
 言われてハッとした。
 今の祥子さんからみた祐巳の妹というのは、祐麒からみた祥子さんであって、――つまりはそういうことだ。
 
「いや、あの」
「冗談よ」
 
 ――全く、この人には敵わない。
 祐麒は何だか気恥ずかしくて、苦し紛れにワイングラスを空けた。
 
「祐麒さん」
「はい」
 
 改まって呼ばれて、祥子さんの方を見た。
 彼女の瞳は、祐麒だけを映していた。
 
「今日は本当にありがとう。気が楽になったわ」
 
 そう言って祥子さんは、極上の笑みを一つ。
 今日、初めて笑ったな、と。
 ワイングラス越しの笑顔に心奪われながら、祐麒はそう思った。
 
 

 
 
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