■ have one's hands full
いつか悲しみに冷えてしまう暖かさなんて、要らない。
未練になる絆なら、少ない方がいい。 ――だけどこの手は。 この手はもう、離せない。 それは卒業式の前日の朝のこと。 志摩子が玄関をあけ、視線を上げると、その先にはツバメの巣があった。 去年からそのままの、ツバメの巣。重厚で暖かそうな、しっかりとした巣だった。 「何を見ている?」 袈裟に着替え、わらじをつっかけた父が、玄関から顔を出して言った。 「ああ、ツバメの巣か」 感情のこもっていない声で言いながら、父は志摩子の隣に並んだ。 三月下旬の朝は寒い。父は「うう」と唸りながら、身を一つ震わせた。 「なんだ、ツバメの巣が何か面白いか?」 「いいえ、そうではなくて」 何ていうこともない、ただ巣が目に付いて、見上げていただけ。だから志摩子は、説明に詰まった。 「差し詰め、『今年もツバメが来るのだろうか』。と言ったところか」 当たらずしも遠からず。だから志摩子は、否定も肯定もしなかった。 「それよりいいのか。バスの時間」 「あ、はい。……それでは行ってまいります」 「ああ」 玄関に背を向け、歩き出す。 冬も終わりの朝のこと。明日はお姉さまの、卒業式。 放課後になって薔薇の館に行くと、案の定誰も居なかった。 三年生は午前中明日の説明をしてお開き。祥子さまは職員室での最終打ち合わせの後、家の用事とかで帰られ、令さまと由乃さんも然り。 明日はもう卒業式なのだし、それぞれが思い思いに過ごしているのだろう。だからわざわざ薔薇に館に来る必要もなかったのだが、自然と足が向いたのだった。 窓から中庭を見下ろすと、一組の生徒がいた。遠目に察するに、二人は姉妹か、またはそれに似た関係か。卒業式の前日ともなると、やはり立て込んだ話などもあるのだろうか。 お姉さま――佐藤聖さまの卒業。それは志摩子が 「はぁ」 枯れた植物が寒々しい中庭から視線を戻し、お茶を淹れ始める。身体を温めることぐらいしていかないと、本当にここに来た意味がない。 そうして一人でお茶を飲んでいると、ぎしぎしと階段を上ってくる足音が聞こえた。 「あ――」 そして扉を開けて入ってきたその人は、まるで「まずい人に会った」という表情をした。お姉さまの言うところの百面相が、ぐっさり志摩子の胸に突き刺さる。何か彼女に避けられるようなことをしたろうか、と。ぞわぞわとした不安が身体を渦巻く。 「ごきげんよう、祐巳さん。珍しいわね、こんな時間になってから来るなんて」 「あ、うん……。ごきげんよう」 祐巳さんはぎこちない笑みでそう言うと、やはりぎこちない動きでいつもの席に座った。 「祐巳さんも紅茶でよかった?」 「あ、いいよ。自分で淹れる」 「いいから座っていて、注ぐだけだから」 志摩子が制止すると、祐巳さんは大人しく引き下がった。そんなやりとりも、何故か少しだけぎこちなかった。 何故。――とカップに紅茶を注ぎながら考える。 志摩子には、祐巳さんにぎこちなく対応される心あたりはなかった。それについさっき、「志摩子さんが居なきゃ、私嫌だから」なんて、どこまでも嬉しいことを言われたばかり。故に、正味一時間もない間にここまで態度が変わる理由が、全く分からなかった。 「はい、祐巳さん」 ゆっくりと、祐巳さんの前にカップを置く。すると祐巳さんはそれが合図だったかのように、バッと振り返り、立ち上がった。 「し、志摩子さんっ」 「あっ、……祐巳さん?」 そして志摩子の肩を両手で掴み、真正面に祐巳さんの顔がくる形になる。驚いて竦めてしまった肩を、ゆっくりと解くと、祐巳さんは真摯な表情で言った。 「ごめん、志摩子さん。ごめんなさい!」 「え。……っと、何がごめんなさいなの?」 「……私、 祐巳さんは志摩子の肩から手を離すと、深く頭を下げた。 それで謝る理由が分からなくて、暫く呆然としていた。 「祐巳さん、頭を上げて」 手を沿えて、祐巳さんの顔を上へと向かせる。祐巳さんは、本当に申し訳なさそうな表情をして、それでも視線を逸らさずに志摩子を見た。 「どうしてそれを、私に謝るの?」 「どうして、って。……志摩子さん、怒ってないの? 嫌な気持ちにならないの?」 自分のお姉さまにキスされて、怒ったり、嫌な気持ちになったり。 普通の姉妹ならそうなるんだろうなと、ぼんやりとそう考えた。けれど、志摩子の中にはそういう感情は一切なかった。キスぐらい、と言っては祐巳さんには悪いだろうけど、そのぐらいのことは、あの人にとってそれほど大きな意味を持っていないと思ったから。 それに祐巳さんが進んでそういうことをしたとも思えないし、多分ねだられてしたんだろう。それならば、上手く甘えることのできない自分の代わりを果たしてくれたということ。それを非難する道理はない。 「お姉さまが、祐巳さんにおねだりしたのでしょう?」 「うん。……それはそうだけど」 「だったら、何も問題はないわ」 祐巳さんの暗い表情を見ているのが辛くて、微笑してそう言う。 「……うん。志摩子さんがそう言うなら、そうだよね」 その顔を見た祐巳さんもまた、安心したように笑ってくれた。 ――羨ましい。 その笑顔を見て、強くそう思った。 彼女は、この学園にとても相応しい存在だった。 正直で、素直で、どこまでもまっすぐで。別に悪いことをしたわけでもないのに、言い難いことをちゃんと謝って。 純真無垢。そんな言葉が、彼女には一番似合った。マリアさまに見守られたこの庭に、居るべくして居る存在だった。 それに比べて、自分は――。 「志摩子さんって、マリアさまみたい」 「え?」 「そんな風に全部許してしまえて、とっても優しく微笑むから。だから、マリアさまみたいだなって」 そう言って浮かべられた新しい笑顔に、射抜かれたような気分になった。 ――この微笑みは、決してマリアさまのような微笑ではないのだ。 脆くて弱くて、臆病な自分を守るために身に付けた笑顔。そんな笑顔に比べたら、祐巳さんの笑顔の方がマリアさまの微笑みに近いんじゃないだろうか。 「そんなことないわよ」 「そうかなぁ」 ――羨ましい。 心の底から笑える祐巳さんが、この学園に祝福された祐巳さんが、羨ましかった。 志摩子は、もしかしたらこの学園を、卒業とは別の形で離れる日がくるかも知れない。 この学園にいたい。そう願っても、叶わなくなるかもしれない。 それが怖かった。大切なものを、関係を、場所を失うのが、どうしようもなく怖かった。だから、ここに繋ぎとめてくれる何かは、少ないほうがいいのに――。 「志摩子さん!?」 もう、掴んで離してくれそうにない。 「志摩子さん、どうして泣くの? 私、酷いこと言った?」 祐巳さんに言われて、志摩子はやっと自分が涙を流していることに気付いた。 「やっぱり、 「違うの。祐巳さんのせいじゃないのよ」 羨望とか、恐れとか、優しさとか、寂しさとか。そういうものが全部入り混じって、何で泣いているのか、自分でも分からない。 嗚咽を伴わない涙が頬を伝って、床に零れる。 ぽたり、ぽたりと。際限なく。 「――志摩子さん」 突然、祐巳さんに抱き締められる。 二つに結われた祐巳さんの髪が、耳の下を撫でていった。 「……祐巳さん?」 「ごめんね」 「どうして謝るの?」 「私のせいじゃないかとしても、引き金を引いちゃったのは私だから。 たどたどしく背中を撫でてくれる祐巳さんの手が、優しい。 優しくて、優しくて。 何もかもが無条件に許されてしまうような錯覚が、お姉さまの抱かれている時の感覚に似ていて。 「……う、ああ――」 ――心の琴線を、 「今日は何だか嬉しかったな」 館の玄関の鍵を閉めてから、祐巳さんは不意にそう言った。 「どうして?」 二人並んで歩き出す。 色を失った中庭は、とても寒い。 「だって志摩子さんて、中々私たちに弱いところ見せないでしょ。だからちょっと、嬉しかったな」 「そんなこと」 ないとは思う。でも無意識で、そうしていたのかも知れない。誰しも、弱いところは見せたくはないものだから。 「志摩子さん」 「……なに?」 声に振り返ると、祐巳さんは満面の笑顔で言った。 「ずっと友達だよ。私は何があっても、志摩子さんの味方だからね」 「――ええ、ありがとう。私も、祐巳さんの味方よ」 照れくさいぐらい、嬉しい言葉。思わずくすりと笑い合う。 肩を寄せて、さり気なく手なんか繋いで、灰色の空の下を歩く。 「寒いね」 繋いだ手から伝わる、祐巳さんの温もり。 「そうね」 それが何より、暖かかった。 四月。 二年生としての最初の日は、すなわち 「いってまいります」 「ああ」 剃髪を終えて部屋から出てきた父にそう告げると、志摩子は外に出た。 視線を上げる。軒下には、ツバメの巣。重厚で暖かそうな、ツバメの巣。――その中には、既に一匹のツバメの姿があった。 嘴を忙しなく動かし、巣を補修するツバメ。これから卵を産み、子を育て、そしてまた旅立つ。 ――いつ、旅立つのだろうか。 必ず訪れる、旅立ちの時。 それが遅ければ遅いほどいいと、志摩子は思った。 「いってきます」 誰に向けられたでもない言葉は、澄んだ空に消える。 きっと学園では、桜が咲き乱れていることだろう。あの銀杏並木に一本だけある桜も、今頃綺麗に咲いているはずだ。 時間を見つけて、見に行こう。――春の香りを孕んだ風に目を細めながら、そう心に決めた。
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