■ 嗚呼、花寺の日々
 
 
 
 
「おっす」
「ちっす」
 
 爽やかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
 お釈迦様のお山に集う野郎たちが、今日も金剛力士像のような険しい表情で、無骨な門を走りぬけて行く。
 必ずしも清潔とは言いがたい身体を包むのは、詰襟の学ラン。
 ズボンの裾は破れかけ、袖のボタンはかろうじてくっついている程度。遅刻ギリギリで走り去った上に、冗談でヘッドスライディングなんかするから、こんなことになるのだ。
 私立花寺学院。
 明治何年だったか忘れてしまうぐらい昔に立てられたこの学院は、元は華族の坊ちゃんのために作られたという、伝統ある仏教系お坊ちゃま学校である。
 東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地区で、仏に見張られ、幼稚舎から大学までの一貫教育が受けられる野郎の園。
 時代は移り変わり、元号が明治から三回も改まった平成の今日でさえ、十八年通い続ければ監獄育ちの女日照りお坊ちゃまが檻入りで出荷される、という仕組みが残っている稀有な学院である。
 
 彼――、福沢祐麒もそんなお坊ちゃまの一人ではあったが、一般の生徒とは呼びがたい存在だった。
 生徒会長。それは重い役職ではあるが、半年も背負えば慣れてくる。
 今そんな祐麒を悩ませているのは、簡単に言ってしまえば女の人のことである。
 女の人、と言っても実の姉であるが、これがまた厄介なのだ。
 例えば、それはこんな風に――
 

 
「なあ、福沢」
 
 それは花寺の学園祭が終わって暫く経った、ある日の放課後。さて今日も学園祭の事後処理か、と鞄に教科書を詰めていた所に、声をかけられた。
 
「何だ、……岡本」
 
 祐麒のことを「ユキチ」とあだ名で呼ぶのではなく、福沢と呼んだように、岡本という生徒は祐麒とあまり接点がない生徒だ。確か陸上部に所属していたという記憶がある。下の名前は思い出せないが、それはいいことだ。
 ここ、花寺学院は俗にいうお坊ちゃま学校のクセに、何かと問題児が多い。何度も俎上(そじょう)に載せなければならない生徒なら、自然と名前を覚えてしまう。だから彼のフルネームを思い出せないということは、人間関係はともかく、良いことなのだ。
 
「福沢の姉ちゃんってさ、噂の『あの人』なんだろ?」
「噂のあの人……?」
 
 祐麒の姉、福沢祐巳は紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)と呼ばれる、簡単に説明すれば生徒会長候補である。花寺の学園祭にゲストとして招かれたから、もしかしたら見た事があるのかも知れない。しかし、『噂のあの人』と呼ばれるほど目だった仕事はしていない。
 
「言っとくけど、うちの姉ちゃんは櫓には登ってないぞ」
 
 情報が入り混じって、祥子さんと祐巳を取り違えたのかも知れない。そう思って忠告すると、岡本は首を横に振って言った。
 
「そんなことは分かってるよ。祐巳ちゃんのこと」
 
 岡本が「祐巳ちゃん」と言ったのを聞いて、祐麒は顔をしかめた。祐巳を軽々しく「ちゃん」付けで呼ばれるのは、あまり快いものではない。祐巳と面識がある小林がそう呼んでいるのでさえ、心穏やかではないのだから。
 
「あの子、可愛いよなぁ」
「……どこら辺が?」
「え? 顔とか」
 
 それを聞いて、祐麒は腰が砕けそうになった。また聞いた、「顔が可愛い」だ。リリアンの制服とか、ツインテールの髪型とか、そう言うのを総合して「可愛い」というのなら認めよう。身内賛歌ではなく、客観的に見て可愛いというのは、大多数の人が認めるところだ。しかし顔に限定されてしまうと、ほとんど同じ顔である祐麒は、どう反応していいか困る。
 
「あと、あの髪型も純情無垢って感じがしていいな」
「そうか。それならいいんだ」
 
 ホッ、と誰にも気付かれないように祐麒は胸を撫で下ろし、学校指定の鞄であるショルダーバッグを肩にかけた。
 
「それで、何が言いたいんだ?」
 
 これ以上姉の賛美を聞いていても仕方がない。祐麒が身体の向きを扉の方に向けると、岡本は慌てて肩に手をかけてきた。
 
「リリアンの学園祭のチケット、祐巳ちゃんから貰ったんだろう?」
「ああ」
「見せてくれないか」
「何で?」
「福沢は一年の時から生徒会に関わりがあったから知らないかもしれないけどさ、俺らみたいな一般人にとって見れば、リリアンの学園祭のチケットはプラチナチケットなわけよ。一度でいいから見てみたいっていうのは、自然な心理だろう?」
 
 リリアン女学園は滅多に入れる場所ではないから、チケットに希少価値があるのは知っている。見てみたいという気持ちも、何となくだけど分かる。
 
「頼むよ」
 
 岡本は顔の前で両手を合わせて、ぐっと目を閉じた。こいつのことはよく知らないけど、回りくどい話の持っていきかたといい、結構しつこいタイプだと思われる。断っても良かったけど、こんな所で敵を増やすのもバカらしい。
 祐麒はそこまで考えると、財布の小銭入れの裏からチケットを取り出した。絶対に忘れたり紛失したりしてはいけない物は、いつもここに入れている。
 
「分かったよ。ほら」
 
 裏にゴム印で『福沢祐巳』と打たれたチケットをかざしてみせる。勿論、手渡すなんて危険な真似はしない。
 
「――いただき!」
「おっと」
 
 獲物に襲い掛かる蛇の如く伸ばされた岡本の手を、祐麒はさっと避けた。こんな風に危険な輩が多いのだ、花寺は。
 
「ちっ」
「残念だったな。そんな簡単には渡せないぞ」
 
 祐麒は手早くチケットを財布にしまって、しっかりとポケットに押し込んだ。岡本がプロのスリでもない限り、財布ごと持って行くことは不可能だ。
 
「どうする、力ずくで奪い取るか?」
「……いや、もういい」
 
 流石にこれ以上の暴挙は問題になると察したのか、岡本は諦めきれないという顔をしながらも教室を去っていった。まあこのぐらいなら、悪ふざけで済ませることができる。祐麒は別に咎めることもなく、岡本が出て行った扉とは反対の扉から教室をでた。
 
 
 
 花寺学院高校の廊下というのは、はっきり言って汚い。リリアン女学園の方が古い校舎だというのに、明らかに先日行った同校よりも汚い。正方形のタイルは艶を失い、所々欠けている。壁には何かの引っかき傷らしきものがあり、教室側の腰壁もしかり。
 何故こうなったかと言えば、単にそうとは言えないが、廊下で野球やら何やらするせいである。それに掃除が雑というのも大きいだろう。まめにワックスがけをしているらしいリリアンとは、やはり比べ物にならない。
 
「はあ……」
 
 そんな雑然とした廊下を歩きながら、祐麒はさっきの岡本の言葉を思いだしていた。
 
(噂のあの人、ね)
 
 あの時、岡本ははっきりと『あの人』とは祐巳であると言った。それが何故だか、分からない。
 学園祭の当日、祐巳の目立った行動と言えばパンダの着ぐるみを着ていたぐらい。祥子さんがその祐巳に気付いて、抱きついた時は騒ぎになったけど、それでも見ていた人間は二、三十かそこらだろう。
 それがどう転じて、『噂のあの人』になりえるだろうか。
 はあ、と理由の分からない溜息がでた。祐麒は廊下を歩ききり、階段と洗面所の間にある生徒会室の扉を開ける。
 
「あ、ユキチ」
 
 先に生徒会室に来ていたのは、小林とアリス。高田や日光月光両先輩の姿はない。
 相変わらずやる気のない雑貨屋みたいな品揃えの、別名『倉庫』に足を踏み入れると、祐麒はいつもの席に座って、鞄をどっかと床に下ろした。
 
「なあ、聞いたか?」
「あん?」
 
 机の角を挟んで右隣に座っている小林が、心なしかニヤニヤ笑いながら話しかけてきた。
 
「何でもさ、祐巳ちゃんのファンが急増しているらしいじゃないか」
「リリアンでか?」
「違う、ここでだ。花寺学院で」
「――は?」
 
 祐巳のファンが急増している?
 そんなバカな。そりゃリリアンの制服をきて花寺を訪れた時は目立っていたけど、その時は山百合会のメンバーが一緒にいたのだ。普通の男子なら、絶世の美しさを持つ祥子さんや志摩子さんの方に目が向くだろう。確かに推理小説同好会の連中は「彼女に惚れました」何て寝ぼけたこと言っていたけど、ファンが急増する理由にはならない。
 祐麒がそう訴えると、アリスが数枚の写真を差し出した。
 
「これを見て」
「……これは」
 
 その写真には、マリア像の前でお祈りをする祐巳が映っている。その他には、一人で歩いているのを正面から捉えた写真、誰かと楽しそうに笑っている写真等。
 こうして見ると、祐巳は中々写真写りがいいらしい。それか、撮影者が一瞬を捉えることに卓越した人物か。――って、写真の感想はどうでもいい。
 
「この写真、出所は?」
「どこからだったかな。私と一緒のクラスの、佐伯くんの従兄妹さんがリリアンの一年生で、祐巳さんのファンらしいの。その子がどこから入手したかは分からないけど」
「佐伯だな。よし」
 
 祐麒が椅子を跳ね飛ばしそうな勢いで立ち上がると、小林が「待った」をかけた。
 
「ユキチさ、佐伯に会いに行ってどうするつもりだ?」
「どうするって、写真を差し押さえるに決まってるだろ」
「それは何故か?」
「何故って、そりゃ」
「別に学校に写真を持ってきちゃいけないなんて規則、ないだろ? 写真を配っちゃいけないっていう理由も。正当な理由がないのに、差し押さえできるわけないだろう」
 
 珍しく祐麒は、小林に諌められた。小林のいうことは全く以って正論。今祐麒が佐伯という生徒から写真を差し押さえることが出来たとしても、それは略奪でしかない。
 
「……でも、姉ちゃんの写真が配られてたりしたら、誰だって穏やかじゃいられないだろう」
 
 小林はニヤニヤと歪めていた口端の角度を、更に吊り上げて言った。
 
「そうだろうな。特にユキチはシスコンだから」
「……うるさいな」
 
 また言われた、シスコンだ。しかし一般で言うところのシスコンであるにしろないにしろ、家族のことを心配するのは当たり前のことだ。
 シスコンとは時たま、バカにしたり冷やかしたりする時に用いられる。さっきの小林の「シスコン」発言は冷やかしにあたるだろう。
 
「うるさい、ってことは否定しないんだな」
 
 しかし、家族のことを心配するのは当たり前のことであり、冷やかされるのは間違っている。それでもシスコンと言うのなら、認めようじゃないか、シスコンと。何も間違ったことはしていないのだから、胸を張って言えばいいのだ。
 
「ああそうとも、シスコンだ。何か悪いか、この数学バカ」
「す、数学バカ!?」
「そうだ。釣りが好きで、バカになる人が釣りバカって言われるように、お前は数学バカだ」
「なっ、……ならお前は姉バカだ!」
「それじゃ弟を過保護にしている姉の意だろう」
「く……」
 
 勝負あった。祐麒は心の中で高々と拳を突き上げた。
 
「じゃあ、ユキチは弟バカなんだな」
「そうだな、ユキチは弟バカだな」
「なあ、何話しててそんないい争いしてるんだ?」
 
 ――と、そこに聞こえたのは、馴染みのある声。
 小林との論争が過熱していっている間に、高田と日光月光両先輩が来ていたようだ。
 
「なあ、高田も聞いたか? 祐巳の噂」
「ああ、聞いたというか、訊かれたというか。祐巳ちゃんってどんな子だ? ってよく訊かれるな」
「我も訊かれたな」
「ああ、我も訊かれた」
 
 うんうん、と頷く後からきた三人組。
 ――何だか、話が嫌な方向にばかり向いていく。
 
「それで、高田は何て答えた?」
「素直で、好感の持てる子だと」
「日光先輩と月光先輩は?」
「我は、小さくて可愛い子だと」
「我も、小さくて可愛い子だと」
 
 そりゃあんたらから見れば、大抵の女の子が小さいだろう。
 はあ、と祐麒は頭を抱えた。これじゃあ、必要以上に祐巳のイメージが良くなってしまう。
 
「よりによって、何で祐巳なんだ。山百合会は美人揃いだっていうのに」
「美人すぎて手が出せないんだよ。案外、小心者が多いからな」
 
 小林は呵呵(かか)と笑った。
 
「それにね、祐巳ちゃんの人気には理由があるのよ」
「理由?」
 
 祐麒が訊き返すと、アリスはぽんと高田の背中を叩いた。バトンタッチという意味らしい。
 
「それは、侠気(おとこぎ)
「お、侠気?」
 
 何だそりゃあ、と疑問符を浮かべていると、小林が解説を始めた。
 
「ユキチもよく知ってるだろ。何でも祐巳ちゃん、誘拐犯である推理小説同好会の罪を不問にした上、それがバレないように取り繕ったらしいじゃないか。それが噂の一因になってるんだよ」
 
 つまり、花寺学院生徒会からでた意見をまとめるとこうだ。
 祐巳は素直で(小さくて)可愛い、侠気のある女の子。
 ――最悪だ。花寺の連中が、一番好きそうなタイプじゃないか。
 
「……とりあえず佐伯はブチ殺しておくわ」
「ユキチ、落ち着いてよ」
「俺は冷静だ。それじゃ行ってくる」
 
 怒りと不安のぶつけどころが分からない祐麒は、とりあえず今分かっている一番悪い奴にぶつけてみることにした。
 
「おい、落ち着けってば」
 
 が、生徒会室を出ようとしたところで、高田と小林に止められた。
 
「離せ、離せよっ」
 
 暴れる祐麒を押さえ付けながら、花寺の生徒会役員たちは口々に言うのだ。
 ユキチは本当にシスコンだな、と。
 
 

 
 
 その日の帰りは、大分遅くなった。
 色々雑談が長くなったせいもあるし、学園祭の後始末や、リリアンの学園祭の打ち合わせも重なったからだ。
 
「ただいま」
「あ、おかえり」
 
 祐麒が玄関を開けると、近くの廊下にパジャマ姿の祐巳が立っていた。
 
「祐麒が遅いから、先にお風呂入っちゃったからね」
「あ、うん」
 
 祐麒を悩ますその人は、今日も相変わらず元気そうだ。
 まったく、人の心労も知らないで。
 
「あのさ、祐巳」
「うん?」
 
 階段を上って行こうとする祐巳を、呼び止める。
 
「気を付けろよ、色々と」
「……は?」
 
 目を丸くしている祐巳を追い越して、階段を上っていく。――と、祐巳が袖を引っ張ってきた。
 
「ねえ、何のこと?」
「いや、……何でもないから」
 
 何のことって、そんなこと言えるわけがない。
 祐麒は引っ張ってくる手を振り払って、また階段を上りだす。
 
「何なのよ、もう」
 
 ぶつぶつ文句を言いながら、祐巳は後ろをついてくる。いや、元から部屋に向かう予定だったのか。
 祐麒は自室に入る前に、同じく自室に入ろうとドアノブに手をかけている祐巳に話しかけた。
 
「一応訊いておくけど、祐巳は愛想を振りまいているつもりはないんだよな?」
「え?」
「いや、ごめん。聞き流してよ」
 
 福沢祐巳とは、天然の代名詞だ。狙ってやっているはずがない。
 逃げるように自室に入って、私服ではなく寝巻きを用意する。食べた後すぐに風呂に入るのは身体に悪いらしいので、先に風呂を済ませようと思ったのだ。
 それを持って部屋をでた時には、当然ながらもう祐巳は居なかった。
 
 
 
 ザッパーン。
 足元から順にかけ湯をして、風呂に入る。両足を伸ばし、全身の筋肉を弛緩させると、バスルームがいつもと違うことに気がついた。
 違うと言っても湯かげんとか、シャンプーの場所とか、照明の明るさではなく、匂いが違うのだ。
 
(ああ、祐巳のシャンプーの匂いか)
 
 基本的に祐麒の方が先に入るから、この匂いを嗅ぐことは少ない。祐巳と祐麒では、使っているシャンプーやリンスが違うのだ。
 肩まで湯に使って、回想する。いつからだろう、祐巳と一緒に風呂に入らなくなったのは。
 
(中学の頭までだったか、小等部のうちにだったか)
 
 色々思いだしているうちに、祐巳の裸まで出てきて、慌てて打ち消した。
 そう言えば、やっぱり昔とは変わったんだろうか。
 
「……何考えてるんだ、俺」
 
 思わず出た独り言は、わんわんとバスルームに響いた。
 打ち消して、その次の瞬間にステップアップした妄想を膨らませるなんて、どうかしている。
 ザブン。雑念を消し去ろうと、頭のてっぺんまで湯に浸かった。だが次の瞬間には、祐巳が入った後の風呂で何をやっているんだと思いついて、祐麒はゲホゲホと咽かえったのだった。
 
 

 
 
 その週の土曜日。
 放課後になって生徒会室を訪れると、先にいた小林、アリス、高田が、一斉に祐麒に振り返った。
 
「ユキチ、大変だ」
「何だよ、揃いも揃って」
 
 祐麒は小林たちがたむろしている、廊下側とは反対側にある窓に向かった。その窓から見えた光景に、一瞬思考がストップした。
 赤茶色のレンガタイルの上で、数人の男がもつれ合っている。それを中心に、周りには何十――いや、百人以上の生徒がやんややんやと騒いでいるのだ。
 
「あいつら、何をやっている?」
「事前に入手した情報だとね、あれは『祐巳ちゃんのチケット争奪・バトルロイヤル in 花寺』っていうらしいの。単なる噂だと思ってたら、本当に始まっちゃったみたい」
「……どいつもこいつも頭の中はナウ・フィスティバルか」
 
 祐麒は思わず頭を抱えた。柏木先輩がたまにやっていた、『オーマイガーッ』のポーズだった。
 噂が噂を呼んで、祐巳の評判が向上してしまっているのはよく知っている。しかし、まさか争奪戦が起こる程の盛り上がりだったとは。よくも勝手に人のチケットを賞品にして、あんなに盛り上がれるものだ。
 
「あいつら、本当に祐巳のチケットが欲しくて戦ってるのか? 何だか花寺の合戦の延長戦みたいなノリだぞ」
「そうね。見てみればほとんどのクラブの部員が参加してるし、何が何だか分からずにやっている人が多いみたい」
「お、次は読書部の山代とラグビー部の北条の対戦だ」
 
 おいおい、大丈夫なのかよ、その対戦。そう思って窓の外を見ると、すでに読書部の方が吹き飛ばされた後だった。
 
「山代くん、凄く痛がってるわね」
「ああ、大丈夫みたいだ」
 
 ちなみに、何故『大丈夫』なのかというと、それは痛がって転がりまわっているからだ。本当に危ない状態だったら、ぐったりしているはず。だから転がりまわっている間は、大丈夫などころか元気なぐらいだ。
 
「って。何を俺らは傍観してるんだよ! 止めに行くぞ」
「待て」
 
 祐麒が生徒会室を出ようとすると、立ちはだかる二つの巨影。左のその人は、薬師寺晶光。右のその人は、薬師寺朋光。
 
「日光先輩、月光先輩。どいて下さい」
「ユキチ、今チケットを持っているな?」
「財布の中に、チケットを入れているな?」
「――何故それを」
「誰かにチケット見せたことがあっただろう」
「あいつらはすでに、ユキチがチケットを持ち歩いていることを知っているぞ」
 
 二人並んで、腕を組んだまま動かない。通せんぼ、ってことか。
 
「じゃあどうしろって言うんです? 誰かに預けたりしたら、真っ先に矛先が向くの、ここの人間なんですよ」
「ユキチは、矢面に出るべきじゃない」
「ここは我らに任せておけ」
 
 そう言って、のっしのっしと生徒会室を出て行く日光月光両先輩。
 小林がヒュウ、と口笛を吹いた。
 
「本当に大丈夫なんだろうか」
 
 気を揉みながら中庭を見ていると、間もなく先輩たちが現れた。
 よく聞こえないが、百人以上の人間を相手に、指を差しながら何か言っている。流石三年生、大した度胸だ。
 
「あっ」
 
 しかし、度胸だけではあの場を鎮めることはできないらしい。
 五、六人の生徒が先輩たちに襲いかかり、また周りが騒ぎ出した。生徒会の役員に襲いかかるとは、もう連中はトランス状態に近いのかもしれない。
 
「すげぇ。先輩たち、強いぞ」
 
 ちぎっては投げ、ちぎっては投げ。
 自分達の三倍の人数を、軽くいなしている。
 
「高田、興奮するのは分かるけどさ」
「おおっ、先輩たちが勝ったぞ!」
 
 いつの間にか先輩たちは、盛り上がる観衆の中心で、ガッツポーズを決めている。
 なんかプロレスラーの真似して、「ハッスル! ハッスル!」とかやってるし。
 
「あんたらが混ざってどうするんだよ……」
 
 最早(もはや)先輩たちは、当てにならない。祐麒が拳を握り締めて扉の方に向かうと、今度は高田に止められた。
 
「どけよ」
「ああ、どくよ。でもその前に、俺の質問に答えてくれ」
「……何さ」
「どうして、一人で行こうとするんだよ?」
「――高田」
 
 高田は言ってから、ボディビルダーのようなポーズをとって笑顔を浮かべた。高田は相変わらず空気が読めていない。だが、それがいい。
 
「ユキチ」
 
 声に振り返ると、小林が広げた左手に、拳を当てた。アリスもそれを真似して、珍しく闘志が(みなぎ)った目をしている。
 
「……お前ら」
 
 祐麒は備品をつめた段ボールから拡声器を取り出し、生徒会室の扉を開けた。
 
「ケガしても、知らないからな」
 
 

 
 
 中庭では、なおも騒ぎが続いている。観衆、もとい参戦者の連中の盛り上がりをみる限り、いつケガ人が出てもおかしくない程だ。こんなバカ騒ぎ、早急に止めさせなければならない。
 
『お前らっ』
 
 拡声器でヴォリュームアップされた祐麒の声が、中庭に響き渡る。
 
『これは何の騒ぎだ?』
 
 この騒ぎの原因の一部である人間の登場に、参戦者たちは一瞬で静まる。
 しかし、その静寂は十秒と持たず、次の一声で破られた。
 
「チケットが来たぞー!」
「うおおっ!」
 
 拳を突き上げて、勝手に盛り上がる百人以上の男たち。それに負けてたまるものかと、祐麒は声を張り上げた。
 
『いいかよく聞けっ。リリアンの学園祭のチケットは、誰にも譲渡するつもりはない。いますぐこの騒ぎを止めないと、各人の所属する部にペナルティを与えるっ』
 
 中庭が、再び静寂に包まれる。小林たちは緊張した面持ちで、連中の動向を見守る。
 これは賭けだった。各部にペナルティを与えるなんていうのは、ブラフだ。本当にここにいる生徒全員の部にペナルティを与えては、ますます祐麒の敵が増える。最早生徒会の執行力では、連中を抑え切れなくなること必至だった。
 ――さあ、(さい)は投げられた。
 半か丁か。祐麒が『半』に賭けたとすれば、その結果は。
 
「打ち取って名を上げろ!」
 
 丁、だった。
 
「かかれっ」
 
 そこかしこから、雄たけびが上がる。
 『赤信号、みんなで渡れば怖くない』ってか。祐麒はニヒルな笑いを口端に浮かべたが、恐怖で引きつって上手くいかない。
 
(まずいな)
 
 暴徒と化した百人以上の生徒を鎮めることは、もう不可能と言っていいだろう。奴らに躊躇いなどない。小林たちには目もくれず、一直線に祐麒に向かってくる。
 
(やばい、やばいって)
 
 その様子は、さながら暴走トラックか。祐麒を吹き飛ばさんばかりの勢いで、怒号のような足音が迫ってくる。
 祐麒は、逃げた。
 トラックに轢かれるのが分かっていて、突っ立っているバカはいない。このままじゃ、本気で殺られてしまう。
 
「チケットをよこせーっ」
 
 雄たけびに狩り立てられ、祐麒は駆ける。中庭から出て、昇降口を突っ切り、最短距離で源氏の道へ。今朝は源氏の道を通ってきたから、偏ってしまうが仕方ない。
 しかし。祐麒は二つの道へ通じる分かれ道の前で、足を止めた。分かれ道の周辺にいた数人の生徒が、こっちに向かって走ってきたからだ。
 
「ちっ」
 
 何て根回しが行き届いているのだろう。チケットを逃さないために、警備までつけたか。
 祐麒は進行方向を九十度変えて、また走り出す。残された道は、職員用出入口しかない。
 
「おっと、ここは通せないぜ」
 
 学院の外壁にそって、体育館の脇を走り抜けようとした時。一人の生徒が立ちはだかった。
 
「……そこをどけ、ゴールキーパー」
 
 彼のことは知っていた。以前サッカー部の試合を見に行った時、ゴールキーパーが抜群の動きを見せていたから、彼のことはよく覚えている。例によって、名前は思い出せないが。
 
「それは出来ないな。俺は福沢を逃がさないために、ここにいるんだから」
「誰に買われたんだ?」
「悪いが、食券三枚がかかっている。黙秘も仕事の内なんでね」
 
 後ろから、足音が近づいてくる。躊躇っている時間などない。相手はたった一人、突破できないこともない。
 
「割りの悪い仕事だとしても、愚痴るなよ」
「大した自信だな。ここは絶対に通さないし、仕事は楽だ。間違いない」
 
 地を蹴り、最高速で以て彼に肉薄する。二人の距離が二メートルを切るかという刹那、祐麒は飛んだ。両足を揃え、自らがボールとなって。
 
「ぐごっ――!」
 
 ――決まった。鮮やかなドロップキック。
 ゴールキーパーの彼はアスファルトの上に転がり、のたうち回っている。良かった、『大丈夫』なようだ。
 
「楽な仕事じゃなかったみたいだな。残念」
 
 そう言い残して、また走り出す。地を揺るがすような、いやむしろ確かに揺るがしている足音たちに捕まるわけにはいかない。
 なんぼなんでも祐巳のチケットは死守する。そして山百合会から貰えるチケットではなく、祐巳のチケットでリリアンの学園祭に挑もうじゃないか。
 
「きた、福沢だ」
 
 後数百メートルで職員用出入口に着くという道すがら、またも立ちはだかる人の姿があった。今度は三人。アメフトのユニフォームを着て、祐麒と対峙しようとしている。
 
「止まれ!」
 
 奴らと話している時間などない。祐麒を追うバカたちは、今も雄叫び上げて突っ込んでくる。バテたのか、数十人ぐらい減っているようだが、暴走トラックには変わりない。
 
「セーッ! ハーッ!」
 
 アメフト部の連中がよく分からない掛け声で、祐麒に向かって走ってきた。相手は三人だから、避けることはほぼ不可能。正面も、右も、左にも逃げ道はない。
 唯一あるとすれば、それは。
 
(上っ)
 
 アメフト部の連中と接触する瞬間、祐麒は真ん中にいる生徒の肩に掴みかかった。そしてそのまま、馬飛びの要領でジャンプ。
 
「どわあっ」
 
 当然、相手は腰をかがめて待っていてくれているわけではない。祐麒と三人はもつれ合って転んだが、こけることを予想していた祐麒は一足早く立ち上がることができた。
 
「アメフト部はもうすぐ練習試合だったな。そんなんで大丈夫かよ」
 
 未だ無様に転がっている三人に台詞を吐き捨て、また走り出す。暴走トラックは大人数で移動しているせいで、幸いなことに祐麒より遅い。足の早い陸上部の奴らは、先にチケットを手に入れる可能性があるから、どこかで消されたようだ。
 やがて見えてくる、職員用出入口。しかしそこに待っていたのは、またも数人の生徒たち。祐麒を指差しながら走ってくるんだから、警備にあてがわれた連中に違いない。
 
「はっ……はっ……や……ばいっ」
 
 これで完全に、出口を失ってしまった。祐麒は学院の外壁を沿うのは止めて、敷地の中心へと走る。このまま外壁に沿っていっても、待ち伏せされるのが関の山だ。こうなれば、もう撒く以外に逃げる手立てはない。
 
「いた! 福沢だ!」
 
 大学と高校を画する道で、またもストッパーと対面する。しかし、今度は数が違う。バテてリタイアしていた思っていた連中は、敷地内を徘徊して祐麒を探していたようで、道の向こうから五人、高校側の芝生から十人以上の生徒がわらわらと集まってくる。
 
「くそ、挟み打ちか」
 
 まさに絶対絶命。こうなれば大学に逃げ込むか、と覚悟を決めたところに、思いもしない声が上がった。
 
「あれ、ユキチじゃないか」
「……げ」
「げ、は酷いだろう。僕に会いに来たんじゃないの?」
 
 爽やかに語りかけてくるその人は、柏木優。前生徒会長であり、『光の君』の称号を持つ男。
 その彼は未だに花寺学院高校でも恐れられる存在であるらしく、祐麒と接触するのを見るやいなや、追っ手たちは瞬間冷凍されてしまった。
 
「で、これは何の騒ぎ?」
 
 口調はあくまでも柔らか。しかしその奥には、絶対に聞きだすという強い意思が見てとれた。多分、説明するまで、祐麒は開放されないだろう。
 観念して今の状況を説明すると、柏木先輩は「ふむ」と頷いた。
 
「ユキチ、助けてやろうか?」
「……は?」
「僕ならこの場を治めることができる」
 
 はっとして見上げた顔は、自信に満ちている。柏木先輩の言う通り、彼ならこの場を鎮めることは簡単だろう。
 しかし。
 
「いいえ、それには及びません」
 
 祐麒は、曲がりなりにも現在の生徒会長。この場をどうにかするのは、祐麒の役目だ。
 
「そうか、強くなったな。でもこの状況、最悪なんじゃない?」
 
 周りを見渡せば、もう完全に包囲されている。柏木先輩がいるせいで容易に近づくことは出来ないが、祐麒を逃がさないようにすることだけは忘れていない。
 
「それでも、突破する他ありません」
「ケガ、するぞ」
「そんなこと、生徒会長に立候補した時から覚悟しています」
 
 柏木先輩に背を向け、祐巳のチケットを狙う連中と対峙する。突破口など、ない。いや、元より突破する必要などないのだ。チケットを守り抜く。それさえ出来れば――
 
「ユキチは一つ、重大なことを忘れているな」
「え?」
 
 振り返って柏木先輩を見ると、珍しく真摯な目で祐麒を捉えた。
 
「ケガをして痛い目にあるのはユキチだけど、ケガをして悲しむのは誰だ?」
「――それは」
「祐巳ちゃんは優しい子だから、ユキチがぼろぼろになって帰ってきたら悲しむだろうね。それにその原因が自分だと知ったら、彼女は自分を責めるかも知れない」
 
 何も言い返せなかった。柏木先輩は、悔しいぐらいに祐巳を理解している。
 
「でも、俺は」
「分かっている。生徒会長だろう? でもその前に、ユキチは祐巳ちゃんの弟なんだよ」
 
 頑強であると疑わなかった意思が、ぱらぱらと欠けていく。
 祐麒は、生徒会長だ。
 柏木先輩にけしかけられ、生徒会長に立候補すると決めたあの日。天を(まっ)する程に高かった(こころざし)は、いつの間にこんなに低くなったのだろう。
 花寺のアラクレたちを治めてみせると、固く誓った。その思いは、今も変わらない。誓いに反故するつもりもない。
 
「――ユキチ」
 
 しかし。
 世の中には、どうにも出来ないこともある。どれだけ悔しくても、どれだけ願っても、叶わないことはある。
 一陣の涼風が、二人の間を走り抜ける。まるで、答えを急かすように。
 
「……て、……さい」
「うん?」
「助けて、ください」
 
 言って、膝をついた。なんて無様、なんたる醜態。今更この人を頼りにしなければいけないなんて。
 
「よく決断した。だからユキチは好きさ。さあ、チケットを出して」
 
 言われるがまま、チケットを差し出す。柏木先輩はチケットを高らかに掲げて、包囲する生徒たちに言い放つ。
 
「みんな。悪いけど、祐巳ちゃんのチケットは僕が貰う約束をしていたんだ」
「はあ!? そんなので納得できるかよ!」
「バカ、よせっ」
 
 反発したのは、恐らく一年生か。柏木先輩を知る人なら、あんなことは言えない。
 
「これは僕が貰う予定だったもので、ユキチはそれを届けてくれた。それに何か文句でも?」
「い、いえっ。そういうことでしたら、お騒がせして申し訳ありませんでした」
「そう。分かってくれればいいんだ。それじゃあね」
 
 夕陽を背に、柏木先輩は去って行く。
 騒いでいた連中も、ぶつくさ言いながら散って行く。
 祐麒はそれから暫く、地から膝を離すことが出来なかった――
 
 

 
 
 かくして、祐巳のチケットを巡る争いは幕を閉じた。
 最後に、柏木先輩が何故あれほどまでに恐れられるのか、解説しておかなければならない。
 彼が現役の時代、花寺学院高校で流行った歌がある。金融会社の、CMソングの替え歌だ。
 
『よーく考えよー、後ろは大事だよー』
 
 前なら許してもいいのか。とツッコミたいところだが、当時は噂が噂を呼んで、本気で恐れられたものだった。
 そして後日。偶然柏木先輩にあった祐麒は、本当に祐巳のチケットを持って行ってしまうのかと訊いたら、こう返された。
 
「勿論。ユキチが持っていたら危険だからね。それに助けて貰っておいてチケットを返せなんて、あんまりなんじゃないの? どうしても返せっていうなら、その分の代償を貰うことになるけど」
 
 そう言った柏木先輩に、本能で危険を感じた。
 祐麒にとって、祐巳はとても大切だ。
 そして純潔もまた、大切なのである。
 
 

 
 
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