■ あなたと私で願うこと




 それは修学旅行を目前に控えた、よく晴れた日曜日のことだった。
 
「祐巳ちゃん」
 
 この日祐巳は、修学旅行に必要な物とか、一人で買い物にでていた。
 M駅周辺で必要な物を買い終え、真っ直ぐ家に帰る――のではなく、ついでにお使いも頼まれてしまったので、家に近いバス停より二つ前でバスを降りた。お母さんに頼まれていた物を買った後、バスを待つのも面倒だったので、祐巳が大通りにそって歩いていたら、声をかけられたのだ。
 
「……どこ?」
 
 振り返っても、当たりを見回して見ても、声の主らしき人は見当たらない。
 暫くきょろきょろしていると、また声が聞こえる。
 
「ここだよ、こっち」
 
 若い男の声。
 声がした方を向くと、真っ赤なスポーツカー。
 もしかして。いや、もしかしなくても――
 
「柏木さん……?」
 
 恐る恐る路上駐車している赤い車の運転席を覗き込むと、そこには予想通りギンナン王国の王子さまが鎮座ましましていた。
 今日の空みたいに爽やかな笑顔を浮かべて、祐巳に手なんか振って。
 
「やっぱり祐巳ちゃんだった。髪を下ろしているから、気付かない所だったよ」
「はあ」
 
 別に気付かなくても良かったんだけど。なんて考えるのはちょっと薄情すぎるか。
 
「それで、私に何か用ですか」
「ああ、折り入って頼みがあるんだ」
 
 あれ。祐巳は『見かけたから声かけただけだろう』、と思っていたけど、どうも違うらしい。
 しかし折り入って頼みがあるとかいいながら、柏木さんの表情の軽さは何なんだろう。まさか、ドライブに行こうなんて言い出す気だろうか。
 
「僕とデートしよう」
「はっ!?」
 
 当たらずしも遠からず。
 まさか、と思っていたことと同じような答えが返ってきて、思わず祐巳は素っ頓狂な声を出してしまった。
 
「どどど」
「どうしてか、って? あらためて先日のお詫びをしようと思ってね」
「お詫び? ……ああ」
 
 先日、お詫び、と言われて思い出すのはあのことしかない。花寺の学園祭で、祐巳が柏木さんの後輩たちにさらわれたことを言っているんだろう。
 
「お詫びなら、もう頂いたはずですけど」
 
 あの時柏木さんは、時代劇さながらに地に頭をつけたのだ。祐巳にしてみれば、お詫びも何もって感じだったけど。
 
「じゃあ後輩たちを許してくれたお礼、ってことでもいい」
「いえ、別にいいです」
「ケーキをご馳走したい。僕のいきつけの店でね、フランス帰りのパティシエのいる喫茶店なんだ」
 
 祐巳は遠慮しているっていうのに、柏木さんは気にした様子もなく話を続ける。
 
「あれはいい。コンクールでも入賞したこともあるぐらいのケーキでね、祐巳ちゃんも絶対に気に入ると思うんだけどなぁ。本当に、凄く美味しいケーキ」
「凄く、美味しい……」
 
 ――と。いけない、いけない。
 物で釣られてついていったら、誘拐される子供も同然じゃないか。
 たとえ柏木さんが男にしか恋愛感情を抱かないにしたって、無用心に男の人について行くわけにはいかない。
 
「誘ってくれたところを悪いんですけど、これから用事あるので」
 
 用事があるのは、嘘じゃない。これから帰って修学旅行の用意をするのだから、それは立派な用事だ。断る理由としては、不適当かもしれないけど。
 
「それは残念だな。……じゃあ、さっちゃんと行ってこようかな」
「は――? 今、何て言いました?」
「さっちゃんと行こうかな、って言ったんだよ」
 
 ちょっと待て。この人今から祥子さまの所に行こうっていうのか。
 でも、祥子さまが柏木さんと出掛けるなんて想像できない。そうだ、行くはずがない。
 
「さっちゃんもあの喫茶店のケーキ、好きなんだよね」
 
 行くはずが――ないとも言いきれなくなってしまった。
 でも祥子さまが、物に釣られていくだろうか。うん、やっぱり行くはずがない。
 
「どうする、祐巳ちゃん。気が変わったなら、まだ間に合うよ」
 
 けれど、このまま柏木さんを祥子さまの所に行かせるのも嫌だ。
 嫉妬丸出しもいい所。でも祐巳が断ったせいで祥子さまの所に行ってしまうなんて、あんまりじゃないか。
 
「美味しいケーキが待ってるよ」
 
 ああ、それにケーキ――って、また惑わされかけている。柏木さんも煽るような事ばっかり言って、絶対祐巳の反応を見て楽しんでいるに違いない。
 
「そろそろ行こうかな。じゃあ祐巳ちゃん、また」
 
 祥子さまのところに気軽に行って欲しくない。でもって、祥子さまが好きなケーキも食べてみたい。
 お姉さま……ケーキ……お姉さま――嗚呼。
 
「ま、待ってください」
 
 助手席のウインドウが閉まる間際、祐巳は声をかけた。
 
「……行きます」
「気が変わったみたいだね」
 
 柏木さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべて、助手席のドアを開けてくれた。
 祐巳はシートベルトをしながら「祥子さまと一緒に行けたらな」なんて思ったけど、いきなり家に押しかけるのも不躾だし、何より柏木さんの車に乗って行ったら何を言われるか。
 
「実は、祐巳ちゃんに謝らなければいけないことがある」
「へ……?」
 
 柏木さんはウインカーを右に出しながら言った。
 
「実は、もうさっちゃんの家に行ってきたんだ」
「ええーっ!?」
「さっちゃんはあの時のこと、完全に理解しきれてなかったからね。改めて、申し開きに行ってきたんだ」
「嘘、ついたんですか」
「それを言ったら祐巳ちゃんも、用事があったんじゃないのかい?」
「う……」
 
 それを言われると、祐巳も心苦しい。用事があるのは嘘じゃないけど、誘いを断るほどの用事ではなかったわけだし。
 
「それで、あの時の話を聞いて、お姉さまはどうでした?」
 
 実はあの誘拐事件の顛末は、かなりぼかして説明してある。だってあの場所で祥子さまに説明したら、絶対推理小説同好会は廃会の運命を辿っていただろうから。
 
「怒ってたね。『祐巳になんてことしてくれたの!』って、あんなに怒ってるのは初めてみた」
「ひぇ……」
 
 なんて恐ろしい。祐巳のために怒ってくれるのは嬉しいけど、その怒りが後日まで響いていたらどうしよう。またの機会に改めて説明しようと思っていたけど、隠していたと採られてお怒りを買うのは嫌だ。まったく柏木さんは、なんてことをしてくれる。
 
「それで、結局どうなったんですか?」
「謝って、許してもらえたよ」
「まさか……」
「いや、あんな謝り方はしなかったよ。もし簡単に地に頭をつけるような真似をしたら、逆にもっと怒られてしまう」
 
 祐巳はまた以前のように、いわゆる『土下座』をしたのかと思ったけど、違うらしい。そりゃそうか、将来の旦那さまに簡単に土下座されたら、プライドの高い祥子さまは逆に怒りそうだ。
 それにしても、将来の旦那さま。祐巳は考えたくないことを思いだしてしまって、勝手に嫌な気分になってしまった。
 
「僕が頭をつけたのは、テーブルさ」
「はあ……」
 
 祐巳は柏木さんが祥子さまに向かって、テーブルに額をつけて謝っている所を想像してみた。
 まあ、床に額をつけるより、テーブルの方がしっくりくる。
 
「それでその帰りに、祐巳ちゃんを見つけたってわけさ。――おっと」
 
 ぐっと前に引っ張られる感覚。
 運転中だというのに横を向いて祐巳に笑いかけるものだから、前の車が止まっていることに気付くのが遅れたのだ。
 
「ちゃんと前みて運転して下さいね」
「そうだね」
 
 今頃思いだしたことだけど、柏木さんの運転は上手いとは言えないのだった。
 それに行き先も聞いていなければ、どのぐらい時間がかかるかも聞いてない。
 
「そうだ、祐巳ちゃん」
「はい?」
「僕以外の男にナンパされても、ついていっちゃ駄目だからね」
 
 全く祐巳は、なんて無用心なんだろう。
 
 

 
 
 車で走ること三十分余り。舗装された道ばかりだったので、酔いはしなかった。
 それで、連れてこられた店はというと。
 
「……はー」
 
 シックな木製のテーブルに、これまたシックな色合いのタータンチェックのチェア。
 舞うようにまわるシーリングファンと、綺麗に手入れされた観葉植物。
 店内には気の利いた音量でジャズミュージックが流れていて、雰囲気のいい喫茶店の代表みたいなお店だった。
 
「こちらへどうぞ」
 
 案内してくれるウェイトレスさんも、これまた美人。
 それほど広くない店なので、フロアは彼女一人でまわしているらしい。
 案内された丸テーブルは二人がけで、窓に近いから日当たりがいい。
 
「気に入ったかい?」
「は、はい……」
 
 気に入った、というより気後れしそうだ。
 カウンターから漂ってくるコーヒーの香りとか、上品な雰囲気とか、何もかも一流って分かる。
 それによくよく考えてみれば、男の人とデートなんて初めてじゃないか。相手が柏木さんだから別段緊張もしないけど、彼の見た目はモデルばり。さっき店に入ってくる時だって、女性客がしっかり柏木さんのことを見ていた。祐巳の姿を見つけて、つまらなさそうに目を逸らした所をみると、絶対に勘違いされている。
 それに比べて祐巳はどうだろう。一応、外行きの格好はしてきた。だけど祥子さまとデートする時ほど悩んで選んだ服でもなければ、髪の毛もただストレートに下ろしただけで、編みこんでもいない。
 
「髪を下ろした祐巳ちゃんも可愛いね」
「……それはどうも」
 
 気になって毛先を弄っていたら、それに気付いた柏木さんが爽やかに笑って言った。
 別に褒めて欲しくて弄ってたんじゃないっての。
 
「注文、どれにする? さっき言っていたケーキがこれ。飲み物は、紅茶ならアッサムティーがお勧めだよ」
「あ、お任せします」
 
 柏木さんがあれこれメニューを指差して説明しだしたので、祐巳は素直にお勧めに従うことにした。
 しかし。
 
(た、高い……)
 
 後からまじまじとメニューを見てみると、全部普通のお店の二倍以上の値段じゃないか。
 
「あの、本当にいいんですか」
「値段のこと心配してるんなら、大丈夫だよ。この店、カード使えるしね」
「はあ……」
 
 そう言えばこの人も、かなり別次元の人間なんだった。
 というわけで、祐巳は値段を見なかったことにした。これ以上恐縮したら、何をし出すか分からない。
 
 暫くしてして、注文した品が届いた。柏木さんの前には色合い鮮やかなサンドウィッチと、高そうな名前のコーヒー。そして祐巳の前には、純白のショートケーキとアッサムティー。
 
「わぁ」
 
 何たらかんたらスノー、と名づけられたケーキは、輝かしいぐらいに白かった。三角に切られたオーソドックスなショートケーキながらも、切られた面にまで綺麗にクリームが塗られている。そこに粉雪のような、ホワイトチョコレートらしきものがデコレーションしてあって、正しくスノーって感じ。
 
「早く食べたほうがいいよ、溶けるから」
「え、え?」
 
 できれば暫く鑑賞していたいぐらいだったけど、本当に溶けるのか、これ。祐巳は鑑賞欲を急いで断ち切り、気合一番、芸術品のようなケーキをフォークで切った。一欠けらを口に放り込むと、上品な甘さが口に広がる。美味しい。間違いなく今まで食べたケーキの中で、トップスリーに入るほど美味しい。いやさ、トップの座を譲っても惜しくない出来である。
 
「美味しいかどうかは、訊かなくてもいいね」
 
 思わず頬が緩んだ祐巳を見て、柏木さんはニコニコというより、ニヤニヤと形容した方がしっくりくる笑顔で言った。
 
「何が楽しいんですか」
 
 その笑顔が何だか悔しくて、祐巳は少し唇を尖らせた。奢ってもらっておいて失礼だとは思ったけど、百面相でこの人を楽しませているというのは癪だった。
 
「何が楽しいって、君を見ているのが楽しいんだよ」
「……はあ」
 
 しかし、ここまで言い切られると反論も出来ない。祐巳は諦めて、祥子さまお気に入りのケーキに専念することにした。
 
「一緒に居て楽しくない人を、デートに誘うと思ったかい?」
「そうは思いませんけど。私の顔がそんなに面白いですか」
「顔が面白いなんて、そんな失礼なことは言わない。……そうだな、雰囲気がいいんだ。ユキチと似てるけど、全然別の良さがある」
「……私は祐麒の代わりなんですね」
「違うよ。別の良さがある、って言っただろう?」
 
 祐巳は柏木さんの言葉に少しだけ悩んだ後、またケーキを一欠けら切る。柔らかい。そしてケーキを刺したフォークをかざし、祐巳は口を開いた。
 
「つまり、こういうことですか。ここのお店のケーキは美味しい。だからこのお店の別のケーキも食べてみよう、と」
「面白い例えだね。他のケーキも食べてみるかい?」
「そんなことお願いしたくて言ったんじゃありません」
 
 ぷい、とまた拗ねたように口をすぼめると、柏木さんは「拗ねた顔も可愛いね」なんて言った。もはや、彼の愉悦の止めることは、祐巳がここにいる限り無理のようだ。
 
「どうしてそういうこと、祥子さまに言ってあげれないんですか」
 
 気付けば祐巳は、愚痴をこぼす様に言っていた。
 
「そういうこと、ね。前までなら、さっちゃんは褒めればその分だけ喜んでくれただろうけど、今の僕が言ってもおべっかにしか聞こえないからだろうね」
「前まで、って?」
「さっちゃんが高等部に入る以前、ってこと」
 
 ああ、と祐巳は心の中で手を打ち合わせた。祥子さまが高等部に入学した日、柏木さんは同性愛者だということをカミングアウトし、祥子さまに外に男を作ればいいと言われたのだ。その日を境に祥子さまは一年半も柏木さんを避けていたらしいから、嫌われたことぐらい彼にも分かっていたんだろう。
 
「その時の話、さっちゃんから聞いてるんだよね?」
「はい」
「あれは僕の人生の中で、一番の失敗だったなぁ」
 
 失敗だったなぁ、って。どうして人生最大のミスをそんな軽々しく、遠い目して言えるんだろう。
 軽薄な態度に相まって、コーヒーカップがソーサーに置かれる音すら神経質に感じられた。
 
「失敗だったと思うんでしたら、どうして別の方法を採らないんです?」
「僕に婚約を解消しろと?」
「……そこまでは言いませんけど」
 
 流石に祐巳は、そこまで干渉は出来ない。祐麒は柏木さんと不本意ながらも親しいから、ずばりと「婚約解消してやれよ」と言っていたけど、祐巳は言えない。そこまで立ち居ることは、失礼にも程がある。
 
「結婚はするよ。小笠原を継ぐ気は、十分にあるからね」
「それが、……祥子さまの幸せに繋がらないとしてもですか」
「その質問に答えるには、まず僕の話を聞いて貰ってからの方がいいな」
「はい?」
 
 柏木さんはふぅ、と肩で息をして、コーヒーを飲み干した。いつの間にか、彼の前にあったスモークサーモンとクリームチーズのサンドウィッチは、微かなパンくずに変わっている。
 
「祐巳ちゃんは、自分の両親のことが好きかい?」
「ええ」
 
 祐巳は即答した。迷うことなく、両親のことは好きって言える。これと言って不満もないし、お父さんお母さんのことは大好きだから。
 
「いい答えだ。僕も自分の両親が好きだし、なに不自由なく育ててくれたことに感謝している。祐巳ちゃんのところもそうだろう?」
「はい」
「その両親に、一生に一度にして最大の親孝行を出来るチャンスがきた。祐巳ちゃんなら、どうする?」
「……それって」
「就職して、自分で稼いだお金で両親に旅行なんかをプレゼントするのが、一般的な親孝行だろう。けどそれは最初から除外されている事項だし、物を貰ったりして喜ぶ親じゃないとしたら。唯一できる親孝行が婚約、そして結婚だとしたら?」
 
 祐巳は、答えることができなかった。店内のBGMは軽快なジャズから、重厚なクラッシクへと変わっている。軽々しいと思っていた柏木さんの態度や言葉も、ずっしり重くなっていた。
 
「その婚約が、まったく嫌じゃない条件だったら、どうだろう」
「……分かりません」
 
 正直にそう答えるしかなかった。自分がそういう状況になったと想定してみても、どう答えるかまったく想像できない。
 
「でも。愛せないのに結婚するのは、何か間違ってませんか?」
「一般的にはそうだろうね。でも僕は女の人を愛せないから、大切にすることしかできない。ねえ祐巳ちゃん。人を愛することと、大切にするのって、どう違うと思う?」
「え……っと。そうですね」
 
 またまた難しい質問を出してきたものだ。普段そんな哲学的なことを考えない頭には、難題が過ぎる。
 
「愛することは、その人の幸せを願ったり、幸せにしようとすること。大切にすることは、その人を不幸にさせたくない、ってことじゃないでしょうか」
 
 アッサムティーを飲み干して、祐巳は自分なりの言葉で言ってみた。難しいことは分からない。ただ漠然としたイメージで、そう考えたのだ。
 
「概ね僕も同感だよ。僕の場合は、大切にするというのは、その人の幸せを願うことも含まれているけどね」
「ならどうして、あんな事言ったんですか。別に恋人を作って、子供を産めなんてっ」
「祐巳ちゃん」
 
 柏木さんが口の前で人差し指を立てたのを見て、やっと祐巳は声のヴォリュームが上がっていたことに気付いた。店に入ってくる時に柏木さんを見ていた女性客たちも、ちらちらこっちを窺っている。……多分、彼女たちの中では誤解がありえない方向に進んでいるんだろう。
 
「……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。祐巳ちゃんはさっちゃんのことが本当に好きだから、怒る気持ちも分からないでもない」
「じゃあ祥子さまが傷ついたってことは、分かってたんですか?」
「あれだけ避けられればね。でも最近は優しいんだよ。去年のリリアンの学園祭が終わってから、そんなに避けられないし」
「でも、分かっていてなお婚約は解消しないんですね」
「そこが難しいんだよね」
 
 はぁ、とまた柏木さんは肩で息をして、通りがかったウェイトレスさんにコーヒーのお代わりを頼んだ。いつの間にか緊張していた雰囲気が、少しだけ柔らぐ。
 
「僕としては、そうすることがさっちゃんの幸せになると思ったんだ。本気で悩んだ末に、そう考えたんだよ」
「……はい」
「籍だけおいて、別に恋人をもつ。小笠原家では、普通のことなのにね」
 
 だから、その考え方が祥子さまを男嫌いにさせているんですって。
 祐巳は声を大にして言いたかったけど、さっきの失敗もあるし、とてもじゃないけど教えられない。教えたって、理解して貰えるとも思えなかった。
 
「そう、ですか」
 
 祐巳はもう、柏木さんに何かいうのは止めておくことにした。誘ってもらっておいて、これ以上辛辣な言葉を並べるのは、非礼の極みだろうし。それに――
 
「でも、これだけは分かっていて欲しい」
「はい?」
「僕は本当にさっちゃんを大切に思っている。その気持ちだけなら、祐巳ちゃんに引けを取らないほどね」
 
 それに、その言葉を聞けただけで、祐巳はすっきりした。
 その真摯な表情から、柏木さんの本気が伝わってきたから。
 祥子さまの幸せを願う彼の姿は、間違いじゃないと思ったから。
 
「少し、話の方向を変えようか。きっと、祐巳ちゃんが聞きたいだろうと思う話」
 
 それから柏木さんは、お代わりのコーヒーを飲み干すまで、昔の祥子さまの話をしてくれた。
 微笑ましいエピソードから、昔は柏木さんのことを「優お兄さま」と呼んでいたなんて、ちょっと祐巳が面白くないなと思う話まで、色々。
 その話をしている間、柏木さんは笑顔を絶やさなかった。
 
 

 
 
 喫茶店を出ると、もう夕暮れ時。世界がほんのり赤い。
 
「どうぞ」
 
 柏木さんが助手席のドアを開け、恭しく手のひらを翻した。
 
「あの、柏木さん」
「うん?」
 
 祐巳は車に乗り込む前に、しっかりと柏木さんと向き会った。
 
「私、柏木さんのこと誤解してたかも知れません」
「どんな風に?」
「その、……何も考えてないのかなぁ、なんて」
 
 流石におばかさんだと思ってました、とは言えない。それについては、こっそり心の中でごめんなさいと謝ることにした。
 
「まあ、そういう風に思われても仕方がないだろうから、別にいいんだ。……それで、その手は何?」
 
 柏木さんは祐巳が差し出している右手を、不思議そうに見た。
 
「握手、です。祥子さまの幸せを願うもの同士の」
「握手か。いいね、祐巳ちゃんらしい」
 
 はは、と笑って、柏木さんは祐巳の手を握った。
 柏木さんが言うところのデートであるはずなのに、手を繋ぐのではなく、握手。
 滑稽だと思ったけど、それが柏木さんのいう通り、祐巳らしくていいと思った。
 
「帰ろうか」
「……はい」
 
 朱に焼ける空のした、二人。
 ――願うことは、きっと一つ。
 
 

 
 
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