■ Another "I"




 ――私はいつも与えられるばかりで。
 ――私はなにも返せやしなかった。
 
 あの日が近づいてくる。
 思いだそうと思わなくても、忘れたいわけじゃない。
 そんな出来事があったこの季節の、あの日。
 もうすぐ、一年が経とうとしていた。
 

 
「あー、寒」
 
 例え昼間と言われる時間帯の今でさえ、お聖堂(みどう)(すこぶ)る冷える。
 しかもここは最前列。まだ廻りを人に囲まれてた方が暖かそうなものだけど、残念ながら左の席は祐巳ちゃん用、右の席は志摩子用なので開けてある。左に一つ席を空けて座っている祥子の隣に座ってもよかったけど、何だか余計寒くなりそうだから止めておいた。
 さて、どうして私はここに座っているのか。答えは簡単、クリスマス・イブである今日は、ミサが行われるからだ。
 
「お、来たきた」
 
 カイロを持って来なかった事を後悔し始めた頃、やっと志摩子たちのクラスがお聖堂に入ってきた。
 
「おーい、こっちこっち」
 
 大きく手を振って呼ぶと、志摩子も祐巳ちゃんも急いでこっちに向かってくる。あの焦った顔、いいリアクションだ。
 
「はい、祐巳ちゃんはこっちね」
 
 祐巳ちゃんを私と祥子の間に座らせると、彼女は予想通り焦ってくれた。これだから祐巳ちゃんいじりはやめられない。
 私は違う所を見るふりをしながら二人の会話に耳を傾けていると、やがてミサが始まった。
 
 ミサはイントロイトゥスから始まり、キリエ、グローリアへと流れていく。
 私は聖歌隊の歌をBGMに、ただ物思いに耽っていた。
 
 ――栞のこと。
 どうしたって、思いだしてしまう。この時期になれば当然この事を考えるだろうとは思っていたけど、現実は私の予想とは違っていた。何だか回りの状況に押されて思いだしたみたいな、そんな状況だった。
 私は一年前、どんな気持ちでミサに参加したか、ミサが終わった後どうしたか、私たちの結末はいかなるものだったか、今でも昨日の事のように思い出せる。それはこの前祐巳ちゃんに貸してもらって読んだ小説も、少なからず影響があるようだ。
 
「ハレルヤ、ハレルヤ」
 
 オルガン演奏、賛美歌、神父の朗読を繰り返し、「ハレルヤ」が歌われる。
 ハレルヤ――神の栄光をほめたたえ、神の恵みに感謝を表す言葉。
 去年これを聞いた時は胸がムカムカして、吐き気すら覚えた。どうして私達を引き裂こうとしている神を讃えられようか? 私は磔になっているジーザスに向かって弓矢を放擲(ほうてき)したいと、本気で思った。
 
「ハレルヤ、ハレルヤ」
 
 だけど今年はどうだろう。聖歌隊の歌声はよく耳に馴染んで、胸をムカムカさせる所か、落ち着かせてくれた。
 私にはそれが一年という歳月の長さなのか、聖歌隊の歌がよかったのか、判断できなかった。
 
「それでは皆さん、ご起立ください」
 
 それからミサは滞りなく進み、最後に出席者全員で「清しこの夜」を歌う段になった。
 
「清しこの夜」
 
 その夜は確かに清く、美しく。
 そうであるが故に、私には痛すぎたのだ。
 

 
「聖」
 
 ミサが終わってお聖堂を出ると、入り口の近くで蓉子が待っていた。
 
「これからクリスマス・パーティーをするけど、来るでしょう?」
「もちろん。行かない理由もないし、来るなって言われても行くからね」
「そう」
 
 蓉子はそう言って、珍しく無防備なぐらい頬を緩ませた。
 それが何故なのかよく分かったから、私は黙って薔薇の館への道を歩きだした。
 
 
   
 薔薇の館の二階につくと、既に黄薔薇ファミリーが準備を始めていた。
 
「あっれー、今年は手作りのお菓子じゃないの?」
「すいません、ちょっと時間がなくて」
 
 市販のロールケーキにデコレーションしている令は、苦笑しながら言った。今年こそ皆で令特製のお菓子が食べられると思い込んでいただけに、実に残念だ。
 
「で、私の仕事は?」
「ないわよ。テーブルセッティングには手を出さないでね」
 
 この場を仕切っているらしい江利子に訊いたら、即効で返されてしまった。まあ、無いなら無いでいい。
 
「あら、仕事ならあるわよ」
 
 お茶でも飲もうかな、と思っていたら、蓉子が私の肩に手を置いて言った。
 
「何?」
「一階の部屋の、私物を撤去しなさい。あそこに私物を置いているの、ほとんど聖なんだからね」
「はて、私何か置いてたっけ?」
「いいから行ってみなさい、思いだすから」
 
 私は本気で身に覚えがなかったけど、蓉子に押し出されて一階の部屋に向かった。
 そこには果たして私のものと思しき物体が沢山転がっていたわけだけど、とても一度に持ち帰れる量じゃなかった。だから後日に持って帰る事にして、私は部屋を出た。丁度、祐巳ちゃんが階段を上りきるのが見えた。
 
「くりすます、ぱーてぃ?」
 
 祐巳ちゃんに続いて二階の部屋に入ると、彼女はこの状況を理解できてないらしかった。
 
「祐巳ちゃんはまだ幼いから、そこら辺の事情を知らないかもしれないけれど」
 
 私が冗談半分に『くりすます、ぱーてぃ』について説明してあげると、祐巳ちゃんは目に見えて拗ねた。やっぱり祐巳ちゃんて、いい。
 
「でね、そうしたら松山先生が、凄く真面目な顔してこう言ったの」
 
 流しの方を見たら、いつの間に来たのか志摩子と由乃ちゃんが居て、珍しく志摩子が大笑いしていた。いつの間にこんなに仲良くなっていたんだろうか。少なくとも、山百合会に祐巳ちゃんが入ってからだろうけど。
 ――さて。
 私に仕事を下さった蓉子さまは何の仕事をしていらっしゃるんだろう? と姿を探すと、彼女は画用紙にアルミホイルを貼って作った王冠をかぶりながら、折り紙で飾りつけらしいリングを作っていた。
 いいご身分だこと。是非ともカメラに収めて、リリアンかわら版にドーンと載せて欲しいものだ。
 ――そうだ、カメラ。何か忘れていたと思ったら、カメラがない。いや、居ないが正しいか。
 
「お仕事欲しい?」
 
 私がずーっと捕捉していた祐巳ちゃんはぴくりと反応した。
 
「ほな、いきまひょか」
「あの、具体的に何を」
「いいからいいから」
 
 旅は道連れ世は情け。人手は多い方がいい。
 私は志摩子の方を見て救いを求める祐巳ちゃんをひきずって、薔薇の館を出た。
 

 
 カメラちゃんこと武嶋蔦子ちゃんを探していると、図書館の影から一人の老婦人が現れた。
 
「春日さん!?」
「あら、誰かとおもったら」
 
 しかもどうした事か、祐巳ちゃんのお知り合いであるらしい。
 祐巳ちゃんがお世話になったようなのでまずお礼を言った。それから祐巳ちゃんが私の事を紹介すると、春日さんと呼ばれた老婦人は「そう、あなたが」と呟いた。
 
「そうだ。もしよろしければ、薔薇の館にいらっしゃいませんか?」
 
 私は春日さんをクリスマス・パーティに誘ってみた。どうしても、この老婦人と話をしたいと思ったのだ。
 だって私と同じだから。同類は、分かる。何となく彼女の方も、私と話したいんじゃないかっていう雰囲気があった。
 
「ありがとう。でも、これから人を会わなくてはいけないのよ。……そうだ。よければ、案内をお願いできないかしら?」
「いいですよ、私たちでよろしければ」
 
 ね、と祐巳ちゃんに同意を求めると、はいと返事が帰ってくる。でも祐巳ちゃん、実は空気に敏感な方なのか、来客用玄関に着くと「あとはお任せします」と言ってカメラちゃんを探しに行ってしまった。
 
「一つお聞きしたいことがあるのですが」
 
 私は来客用のスリッパを玄関に並べながら、春日さんに言った。
 
「何かしら?」
「春日さん、私の名前を聞いた時、『そう、あなたが』っておっしゃいましたよね。どういう意味だったのかな、と思いまして」
「ああ、あれね」
 
 ひんやりと冷たい廊下を歩き出すと、春日さんは微笑した。
 
「私、あなたと間違えられたのよ」
 
 それで、パッと視界が開けた気がした。
 祐巳ちゃんが春日さんを見つけてからテンション上がり気味だったのが、どうしてだかやっと分かった。
 
「そうですか、あなたが」
 
 気付いたら私は、さっきの春日さんと同じような言葉を呟いていた。
 
「私も、あなたと間違えられたんです」
「ええ、知っているわ。あなたのお友達、凄く心配していらしたもの」
 
 ふふ、と春日さんが笑いを漏らしたので、つられて私も笑った。
 私はますます、春日さんについて興味を持った。私には、彼女に聞かなければいけない事がある。後一分もしない内に学園長室につくだろうけど、それは彼女にしか聞けない事だった。
 
「こんな事を訊くのは、憚られるのですが」
「あら。どうぞ遠慮せずに訊いてちょうだい」
「では。あの小説の後――貴女は幸せに暮らせましたか? ああいう事があって、良かったと思っていますか?」
 
 それは、随分不躾な質問だったと思う。いや、絶対にそうに違いない。
 だけどこれは、やはり彼女にしか聞けない事だから。まるでもう一人の私みたいな、彼女にしか。
 
「――ええ。幸せだったわ、きっと」
 
 彼女は一呼吸分置いてから、ゆっくりと語りだした。
 
「あの出来事の結末については絶望したし、もう一度自殺しようかとも思った。どうしようもなく、傷ついた。だけどそれは時間と、周りの人達が癒してくれたわ。あの出来事は一度私から全てを奪って、別の全てを与えてくれたのよ」
「それで、あの出来事があって良かったと」
「ええ、そうよ。だって――」
 
 春日さんは、不意に言葉を切った。
 気付けば、もう学園長室の前だった。
 
「だって生きていれば、奇跡みたいな素晴らしい出来事だって起こるのよ」
 
 微笑んで言った彼女の言葉は、酷く私を安心させてくれた。
 

 
 クリスマス・パーティーが終り、片付けが八割方終わった所で、私は片付けの残りを引き受けた。ろくに手伝いもせずに飲み食いしたっていう、後ろめたさもあったけど、今日は姉妹それぞれ分かれて帰ったほうがいいと思ったからだ。
 パーティー中は私が祐巳ちゃんに構いすぎたから、特に紅薔薇ファミリーには、姉妹水入らずで帰ってもらった方がいい。何も帰り道にまでお邪魔はすまい、クリスマスだし。
 私は志摩子にも帰っていいと言ったけど、志摩子は「はい」と返事をしながらも黙って片付けを続けていた。だから私も無言で片付けを続けた。
 
「お姉さま」
「何?」
「こっちは終わりましたけど」
「ん、こっちも終わり。帰ろうか」
 
 私たちは椅子に引っ掛けてあったコートをはおり、薔薇の館を出た。外に出た瞬間、雨の匂いがした。
 
「雪、降るかもね」
 
 私の呟きに、志摩子は「ええ」と呟いた。
 中庭を歩ききって鼻先が冷たくなって来た頃、私たちはマリア像の前に出た。
 
「……」
 
 志摩子が手を合わせて目を瞑ったので、私もお祈りを始めた。不思議と嫌な気持ちにはならなかったから、いつもより長めにお祈りする事にする。去年なんか、マリア像を見てさえいなかったというのに。
 お祈りを始めて五秒としない内に、首に何か巻かれる感触があった。
(何……?)
 志摩子は、一体何をしているんだろう。目を開いて確かめたかったけど、折角のお祈りが無駄になるような気がしたから止めた。本当に、一年でここまで考えが変わるなんて、自分でも呆れる。
 今日は楽しかったから、マリア像にも選別。私はたっぷり二分ぐらいお祈りして、目を開けた。私の首には、白いマフラーが巻かれていた。
 
「志摩子」
 
 私が呼びかけると、まだお祈りをしていた志摩子がゆっくり瞼を上げた。
 首に巻かれたこのマフラーは、間違いなく手編みだった。
 
「ありがとうね、志摩子」
「何のことですか?」
「は……?」
「あら、お姉さま。いつの間にマフラーをお召しになったのでしょう」
 
 私ははたと気付いた。そして私は、昔に言われた言葉を思いだす。
『まさか本気であなたの顔だけを愛していると思ったの? あれはあなたの重荷にならない為の方便よ』
 つまり志摩子が言いたい事っていうのは、そういう事なのだ。
 
「じゃあ、これは志摩子がくれたんじゃないんだ?」
「ええ」
「それなら、誰がくれたんだろうね」
「サンタクロースか、それともマリア様か」
「はっ」
 
 私は笑った。同時に、凄く切なくなった。
 
 ――私はいつも与えられるばかりで。
 ――私はなにも返せやしない。
 
 結局私は、一年前と変わってないじゃないか。
 
「志摩子。私はね、今日凄く気分がいい」
 
 私はマリア像から逃げるように歩き出した。
 
「何か、して欲しいことはある?」
 
 お姉さまの言葉を思いだしたついでに、私は志摩子に聞いてみた。
 恩を返すつもりがあるなら、あなたの妹にでも、っていう言葉が、ちくちくと私を刺していた。
 
「いいえ」
 
 志摩子は小さくかぶりを振って、それから言った。
 
「お姉さまが居てくれるだけで、いいんです」
 
 ――私はばかだ。
 分かりきった答えなんか訊いて、どうかしてる。昔に囚われているばかりで、目の前の鏡にさえ気付かなかったのだ。
 
「両親には、今日クリスマス・パーティーがある事伝えてある?」
「え? ……ええ」
「なら遅くなっても大丈夫ね。ちょっと付き合いなさい。志摩子って、洋服より和服の方を沢山持ってそうだから、可愛いワンピースでも買ってあげよう」
「お姉さま!? 私はそんなつもりで――」
「そんなつもりで、何? あのマフラーは志摩子がくれたんじゃないんでしょ? だから私はお返しでもなんでもなく、クリスマス・プレゼントを買ってあげたくなったのよ。私が居てくれるだけでいいなんて言う、無欲な妹に」
 
 私は捲くし立てるように言いながら、志摩子の手を掴んで引っ張っていった。バスはまだ来ていないけど、何となく手を繋ぐ口実が欲しかったから、そうした。
 
「あのっ、お姉さま。これだけは先に言わせて下さい」
 
 志摩子が急に立ち止まったから、自然と向き合う格好になる。それから志摩子は、白いマフラーに触れながら言った。
 
「ちょっと早いですけど。お誕生日、おめでとうございます」
「……ありがとう」
 
 雪は降りそうで降らず、ジングルベルの音も聞こえない、この静かな聖夜に。
 
「ありがとうね、志摩子」
 
 私は初めてあの出来事があって――この一年があって、良かったと思った。
 
 

 
 
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