■ 特別でないただの練習




 祐巳達二年生が、修学旅行から帰ってきた週の土曜日。
 ――舞台上で、二重の『とりかえばや』になっている、っていうのをやりたいの。
 そして祥子さまの、革命的発言から数時間たった今。
 祐巳は自分の部屋の机に向けていた頭を、ようやく上げる事ができた。
 
「よーし、できた」
 
 祐巳の前にある台本は、中々カラフルになっていた。
 今まで覚えてきた姫君の台詞に引いてある蛍光ペンとは別の色のペンで、若君の台詞に線を引いていたのだ。こうしないと、姫君の台詞にばかり目が言ってしまうから。
 
(それにしても、多いなあ)
 
 台本に染み込んだばかりの青色のインクを眺めていたら、溜息が出た。
 そりゃまあどちらも主役なんだから台詞が多いのは承知の上だったけれど、やっぱり溜息は止められなかった。
 
「うー……ん」
 
 祐巳は背もたれに身体を預けて思いっきり背を伸ばした。
 それから元の体勢に戻って、「よし!」と気合一発。
 覚える。絶対覚えてやるぞ、って、不思議なぐらいのやる気。
 祥子さまの「祐巳なら大丈夫よ。できるわ」って言葉が頭に蘇る度、やる気なんて無尽蔵に出てくるのだ。
 ああ、どこかにはちまき無かったかな。
 
「祐巳。いい?」
 
 と、祐巳が気合満タンでさあ覚えるぞって時に、不意にドアがノックされた。
 
「いいよ」
 
 祐巳がそう応えると、祐麒が部屋に入ってきた。
 その手には当然のように、山百合版とりかえばや物語の台本を持っている。
 
「台本どれぐらい覚えた?」
「まだ全然」
 
 祐巳が正直に現状を伝えると、祐麒は凄く情けない顔をした。
 
「……祐巳さ、やる気ある?」
「あるわよ、失礼ね」
 
 こんなやる気に満ちている姉を見て何を言ってるんだって、祐巳は怒ってみたけど、どうやら祐麒には伝わってないらしい。
 
「今何時か分かって言ってるのか、それ」
「何時って……まだ八時前じゃない」
「家に帰ってから何時間?」
「一時間半……いや、もうちょっとかな」
「その間何してたのさ」
「ご飯食べて、台本をざーっと読んで、線引いてた」
「線? 線ってなにさ」
「これ」
 
 そう言って祐巳は自分の台本を開いて見せた。
 見てよこのカラフルな台本、って。
 
「祐麒も線引いておいたら? 今ならイタリア製のサインマーカー貸し出し中」
 
 クルクルと手の中で踊らしているペンは、修学旅行でお札を崩すためにかったサインマーカー。
 でもイタリアで買ったけど、イタリア製がどうかは知らない。
 
「いい。それよりちょっとでも練習した方がよくない? 台本見ながらでいいから」
 
 祐巳の差し出したサインマーカーをぷいと無視すると、祐麒はぴらぴらと台本を羽ばたかせた。
 まったく、可愛げのない弟。
 
「……別にいいけど」
「何拗ねてんだよ」
「拗ねてないわよ」
 
 ああ、この百面相が憎い。弟にまで見抜かれるなんて。
 それでもその可愛げのない弟に付き合ってあげるんだから、感謝してよねって、祐巳は頭の片隅で思った。
 

 
「祐麒」
「……何」
「……祐麒ってさ」
「いい。言わないでいいから」
 
 まあ、今日の立ち稽古で……いやそれ以前から祐麒の演技力というのは分かっていたけど。
 正直な話、祐巳より駄目かも知れない。
 
「あのね、あんまり照れたり恥ずかしがったりしない方がいいよ」
「分かってる。出来てたらそうしてる。でもやっぱり、恥ずかしいっていうのは消えない」
「はぁ、実の姉に何を恥ずかしがってるんだか」
「実の姉だから、だろ」
 
 祐巳の言葉を聞くたびに祐麒は凹んでいくので、多分これ以上言うと潰れてしまう。
 今だって、床に座りこんでぶつぶつと台詞を声に出してみたりしているけど、どこか暗い。
 その点祐巳はと言うと、去年弟に劇を鑑賞されていたという事もあるし、演劇だって初めてじゃない。
 いわゆる経験者である祐巳は、去年よりは幾分か余裕があるのだ。主役のプレッシャーも、これで二度目だし。
 
「じゃあ、一旦休憩しよう。私喉渇いちゃった」
 
 祐巳はそう言って部屋を出ようとすると、祐麒は台本に目を向けたまま「うー」と唸りながら手を振った。
 
 
 
 飲み物を求めて一階の台所に下りると、丁度お父さんが冷蔵庫を開いている所だった。
 
「お、祐巳ちゃんいいところに」
「なに?」
 
 疑問符を浮かべながら祐巳が近づくと、お父さんは薄っぺらい箱を冷蔵庫から取り出して祐巳に渡した。
 当然ながら箱はひんやりと冷たくて、箱には流暢な書体で字が並んでいる。当然ながら、流暢過ぎて祐巳にはなんて書いてあるか読めなかった。
 
「開けてごらん」
 
 祐巳は「うん」と返事をしながら、テーブルの椅子に座って、包装を丁寧に剥いだ。
 包装の下から出てきた箱を開けると、焦げ茶色の板が縦に五等分、横に五等分されていて、計二十五個の茶色いブロックが鎮座していた。
 
「生チョコレート!」
 
 そう、間違いない。粒状でも板状でもないチョコレートで冷蔵が必要なものと言ったら、生チョコレートしかないのだ。
 祐巳は箱の中に同梱されていた小さなプラスティック製のフォークでその一つを突き刺すと、おもむろに口に入れた。
 表面に振り掛けられていたココアパウダーが、そして口内の温度で溶けるチョコレートが。祐巳の舌を包んで、甘美な世界を垣間見せてくれた。
 
「あら、美味しそう」
 
 思わず表情まで溶けさせてしまった祐巳の正面で、何かのカタログを見ていたお母さんがそう言ったので、「はい、あーん」って生チョコを食べさせてあげた。
 するとその隣に座ったお父さんが物欲しそうな顔で口をぱくぱくさせていたので、また「はい、あーん」。
 
「そうだ、祐麒も呼ばないと」
 
 こんなに美味しい物を食べないなんて間違っている、と祐巳は席を立った。
 テーブルでは、満足そうな顔をしたお父さんがチョコを誰から貰ったとか、仕事がどうとか、お母さんに説明している。
 
「祐麒ー、下りておいでー」
 
 階段の上に向かって声をかけると、またさっきみたいな「うー」っていう唸り声が聞こえた。
 でも、それから暫くまってみても、中々祐麒は下りてこない。思わず祐巳は生チョコの箱をもって、台所をうろうろしてしまっていた。
 
「何か用?」
 
 お父さんの話が一番の山場らしき所に差しかかった所で、ようやく祐麒が下りてきたので、祐巳はフォークに刺した生チョコを祐麒に突きつけた。
 
「はい、あーん」
「あーん?」
 
 祐麒はそう復唱すると条件反射なのか口を開けたので、祐巳は生チョコを放り込んだ。
 祐麒が口をもごもごさせている間、祐巳は玩具のブロックでも食べちゃうのかな、なんて考えていた。
 
「これ、チョコ?」
「うん。生チョコレート」
 
 平然とそう言う祐麒には、姉に演技を見られるより、「あーん」ってされる方が恥ずかしくない事なんだろうか。それともこれが祐麒の言う、『祐巳には分からない天然ボケ』ってやつなのか。
 なんて考えていると、最初に「はい、あーん」ってやりだした方がずっと恥ずかしいと思い当たって、やっぱり天然ボケ度は祐巳の方が上だと思い知らされてしまった。
 
「もう一個もーらいっ」
「あー! どうして二つも一気に食べるの!」
「くっついてたんだから仕方ないじゃんか」
 
 祐巳の抗議を受け流すと、祐麒はくるりと背を向けて台所の扉を開けた。
 
「あれ、もういらないの?」
「もういい。それより、祐巳が戻ってきたら、また練習の続きね」
「あ、うん」
 
 そう言って祐麒はさっさと台所を後にしたので、祐巳はまたテーブルの椅子に戻った。
 話は終わったのか、お父さんとお母さんは祐巳達の方を見ていたみたいだった。
 
「そうそう、今年は祐巳ちゃんと祐麒が主役なんだったな」
「本当に楽しみだわ」
 
 楽しそうに言う両親の笑顔が、これほどプレッシャーを与えてきた事が、今まであっただろうか。
 弟よ、忘れるなかれ。本番では姉だけじゃなく、両親も見てるんだぞ。
 
「それで、演目は何だっけ?」
「『とりかえばや物語』ですって。顔の似ている姉弟が入れ替わる話よ」
「そりゃあいい。演目考えた人は、いい目を持ってる」
 
 ああ、こんな所でまで持ち上げられるお姉さまって、やっぱり凄い。
 そんな事を考えながら、ぐでーっと祐巳はテーブルに突っ伏した。
 

 
 それからお風呂に入って、少しだけあった宿題を片付けて、練習場所を祐麒の部屋に移して。
 結局練習に付き合い始めてからかなりの時間がたっていて、最初のシーンぐらいならそらでも出来るぐらいになっていた。
 
「もうこんな時間」
 
 祐麒の机の上にあった時計を見てみれば、いつもの就寝時間を一時間半も過ぎた所だった。
 時間を知ってしまうと、身体が駄々をこねるみたいに気だるさを訴えてくる。思わず祐巳は、「ふあ」と欠伸を漏らしてしまった。
 
「本当だ。今日はこのぐらいにしとくか」
「うん。私、もう寝るね」
「え? 明日日曜なのに?」
「眠たいから、寝るの。それに夜更かしは美容の敵なんだから」
「ふーん」
 
 美容の敵、なんて言っちゃって、祐麒に茶々を入れられるかと思ったけど、それは無かった。
 ぼすんと椅子に身を投げて、また台本に向かって視線を走らせる。こんな弟の姿を見るのは、テスト前日以外じゃ初めてじゃないだろうか。
 やる気において負けているつもりはないけど、男の子独特の気迫みたいなのがにじみ出ている。
 
「なんかさ、凄いやる気だよね」
「そりゃ、恥かきたくないし。手伝いに行くのにがっかりさせたくない」
「私だってそうだよ。明日も練習するんでしょ?」
「そのつもりだけど、祐巳は明日空いてるの?」
「私は大丈夫。午前中は、集中力のある時に台詞覚えたいから駄目だけど」
「分かった。じゃあ明日の午後からもお願い」
「うん。それじゃお休み」
 
 祐巳がそう言って部屋を出ようとする間際に見た祐麒は、やっぱり台本と睨めっこをしていた。
 そんな祐麒の背中に「がんばろうね」って呟いてから、祐巳は自分の部屋に戻った。
 電気はつけずに茶色にして、ベッドに潜り込む。疲れているからすぐ眠れると思っていたけど、劇の台詞が頭の中をぐるぐる回って、中々寝付けない。
 時折、祐麒の部屋の方から床を踏む音が聞こえた。多分、まだ立ち稽古の続きをやっているんだろう。
(劇、絶対に成功させようね)
 はぁ、と大きく息を吐くと、いい具合に全身の力が抜けて、本格的に睡魔が降りてくる。
 いつの間にか温くなっていた布団は、祐巳の身体だけじゃなく意識まで暖めて。祐巳の意識は生チョコレートみたいに、滑らかに溶けていった。
 
 

 
 
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