■ 白薔薇錯綜 「前 「はい」 薔薇の館の二階にはまだ二人しか集まっていないので、祐巳さまがカップを置く音がやけによく聞こえる。そんな閑静な一幕での事だった。 「でもどうしたの? 急にそんな事訊きだして」 祐巳さまと二人きりになったのをいい事に、乃梨子は前 「例えば、祐巳さまが 「ううん。気になるね、絶対」 「それが、今の私の状態です」 「なるほど」 祐巳さまはうんうんと深く頷く。そうしたかと思うと無為に腕を組み、「うんうん」を「うーん」に換えて考え込んでしまった。 「あの、そんなに考えこまなくても。簡単に、で結構ですので」 「あの人を簡単に説明……。余計難しいかも」 「はあ」 乃梨子としては早く教えて欲しいが為にそう発言したというのに、祐巳さまはより深く考え込んでしまった。 「一言で言うとね」 やがて祐巳さまが顔をあげて言うと、乃梨子は食らいつくように「はい」と返事をする。 「格好良くて頼り甲斐のある、セクハラ親父」 それは一言じゃありません。と突っ込むのも忘れ、頭が真っ白になる。 「……えっと。あの」 祐巳さまは、これにどう反応しろというのだろうか。 お姉さまのお姉さまは、格好良いセクハラ親父。お姉さまのお姉さまは、頼り甲斐のあるセクハラ親父。 そんな言葉が、乃梨子の頭の中を走馬灯にように 「じゃ、じゃあお姉さまは、性的な嫌がらせを受けていたと?」 「性的とも嫌がらせとも違うんだけど。あ、ちなみに主な被害者は私だけだから安心して」 「被害者は祐巳さま……?」 ますます訳が分からない。どうして志摩子さんのお姉さまなのに、当時は 「具体的に言うと抱き着いて頬擦りしたりとか。セクハラって言うのは間違いだったかな」 「はあ」 右手で頬杖をつき、心なしか足をぷらぷらとさせながら、祐巳さまはどこか懐かしむように言う。それに対して乃梨子は、生返事を返すばかり。 祐巳さまに抱き着きたいという気持ちは、何となくだけど分かる。クラスメートにも、祐巳さまを抱き締めたいと言っていた人もいた。抱きしめて欲しい、と言う人より、そっちの方が多い。 しかし抱き着きたい気持ちが理解できたとしても、それがどうして祐巳さまなのだろう。志摩子さんだって、抱き着く相手としては不足ないはずだ。 「お姉さまには、抱きつかなかったんですか?」 「私の時みたいに、ふざけて抱き着くことはなかったわね。志摩子さんに抱き着くっていう発想がなかったみたいなの」 祐巳さまの言葉を聞くたびに、乃梨子の疑問は深まる。 どういう考えで祐巳さまに抱きついただとか、それをみた志摩子さんはどうしたんだろうかとか。 乃梨子はどんどん深みにはまっていってしまうような気がして、質問を換えてみる事にした。 「じゃあ、二人はどんな 「深い所で繋がっている。……そんな感じだったかな」 「……よく分かりませんね」 「そうね。例えば」 そう言うと祐巳さまは、もう用のなくなったプリントの裏に点を二つ描いた。 「これが志摩子さんで、もう一つが聖さま。……あ、志摩子さんのお姉さまね」 「聖さま、って言うんですね。お姉さまのお姉さまは」 祐巳さまは「うん」と短く返すと、その点からそれぞれ十本の線を描いた。その線の一つだけが、二つの点を結んでいる。 「例えば、二人の目の前には十本の分かれ道があって、その一つだけがお互いに会える道。そこには何の表示もヒントもないんだけど、二人ともどの道がお互いに会える道か分かっているの。だからお互い、別の道を進む。そんな 「あの。ますますよく分からないんですけど」 「簡単だよ。お互いを必要としてる時は、どの道に行ってどうすればいいか分かってるんだから」 乃梨子は「ああ」と理解の言葉を漏らすのと一緒に、胸に黒い絵の具が一滴落とされる感覚に襲われた。 きっと嫉妬というんだ、これは。 「お互い分かりあっているから、安心して祐巳さまに抱きつける。と?」 「そういう事かもね。志摩子さんも『まあお姉さまったら』って感じだったし。でも」 祐巳さまはそこで一度区切ると、空になったカップを手に取り、愛しむように指を絡ませた。 「志摩子さんも、たまには抱き着かれたかったんじゃないかな、って思うの」 「志摩子さんが、抱き着かれたい?」 学園では『お姉さま』と呼ぶように気を付けていたのに、祐巳さまの突飛な発言に動揺してか『志摩子さん』と呼んでしまっていた。 「どうしてそう思われるんです?」 気を取り直してそう聞くと、祐巳さまは少しだけ考えて言った。 「ほら、私と違って志摩子さんは思っている事をあまり顔に出さないから。だから本当の事は分からないけど、ちょっとはそういう気持ちもあったんじゃないかな?」 「憶測、ですよね」 「確かめる方法はあるよ。乃梨子ちゃんが志摩子さんに抱き着いて、反応を見るの。困ってたらアウトで、照れてたらオーケー」 「本気で言ってるんですか、それ」 「私はわりと本気だよ。ううん、お願いに近いかな」 「どうして祐巳さまが私にそんな事をお願いするんです?」 「だってもし聖さまが私にかまっているのを見て、志摩子さんが寂しい思いをしてたらいやじゃない? だからせめてもの罪滅ぼしとして、乃梨子ちゃんに抱き着いて貰う。困ってたら私の考えは杞憂で済むわけだし」 「その場合、私は凄く気まずいんですけど……」 「うーん、でもそれはないと思うな。抱き着かれて迷惑なら、そもそも 「それはそうかもしれませんけど、変ですよ。女の子同士で抱きついたりなんて」 「じゃれるぐらいは普通じゃない」 「そうかも知れませんけど」 少なくとも、私はそんな事しません。と乃梨子は心の中で呟いた。 まったくどうした事か、話が変な方向を向き始めた。 「じゃあ祐巳さまは、 「タイミングさえ合えばね。両手を広げられたら、そりゃもう飛び込んで行きますとも」 祐巳さまは自身満々に言う。 てっきり逆の答えを想像していた乃梨子としては、いささか驚きだった。なるほど、ああ見えて 「タイミング、ですか」 「そう。何か志摩子さんにイベントがあればいいんだけどね。今日のラッキーパーソンは妹、とか」 「ラッキーパーソンなんて初めて聞きました」 志摩子さん絡みのイベント。祐巳さまと一緒にその議題に頭を抱えていると、重大な事を思い出した。 「ああ!」 乃梨子が大きな声を出しながら立ち上がると、祐巳さまのリボンで結った髪がビクリと震えた。 「な、何。何か思い出したの?」 「明日、志摩子さんの誕生日……」 「プレゼントは私よ大作戦」 「祐巳さま。折角の冗談にお付き合いできなくて申し訳ないのですが、私は上がらせて頂きます」 「どうしたの、急に」 「プレゼント、まだ買ってないんです」 乃梨子が帰り支度を整えながら言うと、祐巳さま「ああ」と得心のいったという声を出した。 「それでは、お先に失礼します」 「うん。……あ、ちょっと待って」 「何ですか?」 「私のさっきのお願い、考えておいてね?」 まだ言っているのか、祐巳さまは。しかしここで断ったら、また話が長引きそうだ。 「……分かりました。考えておきます」 そうとだけ言うと、乃梨子はビスケットの扉を開け、外へ飛び出した。 決して誕生日を忘れていた訳ではない。 ただプレゼントが何かいいかで悩んでしまい、それが今日まで長引いてしまっただけの事。 だけど、ああどうしよう。まだプレゼントに買うものを決めてないっていうのに―― 志摩子さんの誕生日当日。 乃梨子は桜の木の下で待っていた。ロザリオを受け取った、あの木の下だ。 志摩子さんには昨日の晩のうちに、放課後ここに来てもらうように電話してある。こういうのは、二人っきりの時の方がいい。 候補は沢山あった。 まず考えたのはぬいぐるみ。でもオーソドックス過ぎるし、手作りじゃないと気持ちが伝わらない気がするので却下。 次に考えたのは、マニキュアとか、化粧品の類。菫子さんは「化粧してない子なら、絶対にナチュラルメイクセットを」とか言っていたけど、そもそも志摩子さんに化粧は必要ないので却下。 他には服とか、CDとか、小物入れとか。色々考えたけど、どれもしっくり来なかった。 でもそうやって悩んでいるうちに、プレゼントには何がいいのか、少しづつだけど見えてきたのだ。日常的に使うもので、かつ志摩子さん独自のもの。それが今、手の中にある。 (『カーリング・コーム&ドライヤーセット』……か) 志摩子さんの大きな特徴。それはふわふわの巻き毛。 カーリング・コームとは巻き毛を作るのに必要な櫛の事で、これは今の志摩子さんの髪よりもっと細かく巻けるものらしい。 結局、いつもと違った志摩子さんも見てみたい、何ていう自分の希望も入ってしまったわけだ。 「……あ」 待ち始めて数分。予想以上に早く待ち人は現れた。 きっと、もっと時間がかかると思っていたのだ。何せ乃梨子のお姉さまは、 「お待たせ、乃梨子」 「……志摩子さん。もっと遅いと思ってた」 「お祝いの言葉なら、お昼休みまでに頂いたわ。私、自分の事なのに言われてやっと気付いたのよ」 そう言って志摩子さんはふわりと微笑む。 手に何も持って無いという事は、少なくともここに来るまでにはプレゼントを受け取っていないという事だ。 流石に 「じゃあ、志摩子さんはここに来てもらった理由、分かってるよね?」 「私の自意識過剰でなければ」 そこまで聞いて、後ろで組んだ手に持った物を前に差し出そうとして――動きが止まった。 その後の事を考えてしまったのだ。 ――私のさっきのお願い、考えておいてね? 思えば、乃梨子はプレゼント選びに心血を注いでいて、祐巳さまの願いを本気で考えていなかった。 それを今志摩子さんを前にして、悩んでしまうなんて。 「……乃梨子?」 固まって考え込んでしまった乃梨子に、志摩子さんが不安そうな顔で声をかけた。 「あ、えっと、ごめんなさい。お姉さま、誕生日おめでとうございます」 とりあえずこのままではいけないと思って、乃梨子は手に持っていたプレゼントを差し出す。 両手で優しくそれを受け取った志摩子さんは、微笑みを全開の笑顔に替えて言う。 「ありがとう。本当に嬉しいわ」 その笑顔に、冗談ではなく吸い込まれそうになった。 どうしたものだろう、これは。今なら祐巳さまを抱き締めたいと言っていたクラスメートの心情が、完全に理解できる。 「……」 そしてまた時が凍りつく。 プレゼントの受け渡しは済んだ。後は薔薇の館に向かうなり、帰るなりするだけだ。それなのに、足は動いてくれなかった。 心の中で、子悪魔の格好をした祐巳さまが『抱き着いちゃえ、抱き着いちゃえ』と催促してくる。 それをしたら志摩子さんはきっと驚くだろう。でももし志摩子さんが寂しがっているとしたら? これは滅多にないチャンスじゃないのだろうか。 だんだんと沈黙に違和感が出てくる。このまま自分から何も出来ないなんて、一生後悔しそうだ。 そう思ったら、もう次に発する言葉は勝手に出てきた。 「志摩子さん――」 両手を広げて下さい。そう続けるつもりだった。 「分かったわ」 だけどそれを言い終わるより早く、志摩子は言葉を遮った。ついでに視界も。 「……え?」 乃梨子は一瞬、何が起こったのか分からなかった。 気付いたら、志摩子さんに抱き締められていた。 「志摩子さん……?」 「乃梨子ったら、今にも飛び込んできそうなんだもの。……これで良かったのよね?」 「あの、えっと、はい」 らしくもなくしどろもどろになって、乃梨子は答える。 きっと顔は真っ赤だろう。周りに誰か居やしないだろうか。 そんな事を考えながらも、乃梨子はしっかりと志摩子さんの感触に埋れていた。 「本当にありがとう。乃梨子」 頭上から降る声を聞きながら、乃梨子はやっと完全に理解した。 深い所で繋がっているっていうのは、こういう事なんだって。 突き抜けるような青空の下、並木道を歩く。 片手には、細長い小箱。これは誕生日プレゼントだ。 もう片方の手には――何もない。 (これ見たら志摩子、どんな顔するだろうな) 思わず悪戯っぽい笑みが、口端にのってしまう。 前 それはこの小箱を志摩子に渡してからすぐ開けさせ、その反応を見るなんていう、実に単純な野望だ。 ちなみに箱の中身は日舞用の扇子。去年のクリスマスパーティーのマジックで由乃ちゃんが出してみせ、その後志摩子が踊る時に使った『あっぱれ扇子』だ。 しかしこれは少し違う。あっぱれの部分が、金糸で描いてあるのだ。それにちゃんとした専門店で買ったから、間違いなく日舞用の扇子だ。例えそれがジョークグッズだったとしても。 (これでもう一回踊ってくれないかなぁ) そんな事を考えながら歩いていると、やがて懐かしい学び舎が近づいてくる。 そう言えばこうやって校舎に寄り付くのも、志摩子に会いに行こうとするのも、高等部を卒業して以来二度目だ。 一回目は新入生歓迎会の時。結局あの時は面白いイベントには間に合わなかったけど、今回ばかりは外せない。 一年に一度の、妹を祝うべき日。こういう日にこそ会いに行かなくて、いつ会いに行けというのか――というのは、どうしてここに居るのかと尋ねられた時の建前だ。 本当は、四日前まで志摩子の誕生日の事を忘れていた。どこからか志摩子の誕生日情報が入ってきて、それを覚えていたというのは、奇跡に近い。 志摩子の誕生日の事を誰が教えてくれたのかは覚えてないけど、多分蓉子が普段の会話に忍ばせて、聖の頭に刷り込んだのだろう。 それで思い出して、急に志摩子の顔がみたくなった。そこで今日この日、ってわけだった。 「お、発見」 桜の木の下にて、目標を捕捉。これでわざわざ薔薇の館にまで足を向けなくて済む……と思っていたら、志摩子のそばにもう一人居る事に気付いた。 長めのおかっぱに、市松人形のような可愛らしい顔。間違いない、あのこは志摩子の 「グッドタイミング」 思わずそう口走ってしまうほど、聖はいいところに来た。今まさに、乃梨子ちゃんが志摩子にプレゼントを渡そうとしているではないか。 しかし、暫くまっていてもそれを渡さない。乃梨子ちゃんってのは、焦らすタイプなのだろうか。 そんな事を考えていると、やがて乃梨子ちゃんは志摩子にプレゼントを渡した。遠目でも分かるほど、志摩子は喜んでいるみたいだ。 するとまた二人は固まってしまった。さっきと違うことと言えば―― (乃梨子ちゃん、まるでチーターみたいだ) プレゼントを渡した後、志摩子に釘付けになっちゃって。今にも志摩子に抱き着きそうだ。 乃梨子ちゃんは焦らすタイプでかつ、眈々と志摩子を狙う女の子。噂に聞いた女の子とは、随分違うじゃないか。 そこまで観察して、聖は木陰で身を潜めている自分に気が付いた。 しまった、これままでは完全に志摩子を捕まえるタイミングを逃してしまう。これじゃバッドタイミングだ。 「あっ」 出て行こうかどうしようか考えていると、なんと志摩子が乃梨子ちゃんを抱き締めた。 志摩子も妹相手になら、随分積極的に慣れるもんだ、と聖は思わず頬を緩ませる。 (さて、どうしようかな) 右手には、志摩子へのプレゼント。左手には、相変わらず何も持っていない。 ゆっくりと二人に近づいていくと、抱き合っている二人からは死角になっている所に、カメラちゃんを見つけた。 二年、写真部のエースこと武嶋蔦子。通称『カメラちゃん』は、こういうイベントのありそうな日にはマークを欠かさないらしい。 勿論二人は気付いていないけど、ばしばし写真を撮られちゃっている。 (出来るだけ二人の邪魔はしないつもりだったんだけどなぁ) ぽつりぽつりと考えながらも、聖は二人へと歩みよっていく。 右手にはプレゼントを握り締めたまま、左手はわきわきと動かして。 ――あなたは片手をあけておきなさい。 いつか聞いたお姉さまの声が、頭に響く。両手をつないでしまったら、確かに何もつかめなくなる。何も見えなくなる。 やがて二人のいる桜の木の下に辿り着いた。ここまで来てもなお、二人は聖に気付かない。 二人の世界に耽溺しているって事か。そう考えると、少し妬ける。 さて、そろそろ二人に外の風の強さってものを、教えてあげないといけない。久しぶりにカメラちゃんに写真を撮って貰うのも、また一興だ。 (こんな片手の使い方も、たまにはいいよね) 思えば身体も考えも、随分と身軽になったものだ。自分の事ながら、聖は苦笑を漏らす。 さあ、もう二人は満足した頃合いだろうか。二人はゆっくり身体を離す。 だけどそうはさせない。 「ごきげんよう、志摩子。ごきげんよう、乃梨子ちゃん」 右手に志摩子、左手に真っ赤になった乃梨子ちゃんを抱き締めると、聖はそのまま無理矢理方向転換させた。 カメラちゃんに、絶好のシャッターチャンスをあげるのだ。 「お、お姉さま?」 「え、え、え?」 当惑する二人をよそに、聖は『はいチーズ』と言って笑顔を作った。今度は堂々と、シャッターを切る音が聞こえた。 「はい、じゃあもう一枚いきますよ」 カメラちゃんは開き直って、聖達の真正面に立って言った。 志摩子と乃梨子ちゃんもやっと状況を理解したのか、ぎこちない笑みを浮かべる。 ――両手に花。 あいた片手をこんな風に使うのも、私らしくていいんじゃないか。 二つの温もりを強く抱きしめながら、聖はそんな事を思っていた。 「祐巳さんの差し金だったのね」 「え」 翌日。お昼休みになって薔薇の館の二階に行き、弁当箱を開いた所の事だった。 乃梨子ちゃんからのプレゼントを試してみたらしい、いつもよりカールした巻き毛の志摩子さんがそう切り出したのだ。 何の事? ってすっとボケてみても良かったのだけど、得意の百面相が出てからではもう遅い。 「乃梨子から聞いたのよ。祐巳さんにお願いされて、悩んでしまった。って」 「そ、そう……」 昨日の状況は、祐巳もよく知っている。 放課後、用事があって薔薇の館から出て行った時の事だ。 並木道の方から右手に志摩子さん、左手に乃梨子ちゃんの手を握りながら、まるで両親に両手を握って貰ってるんるん気分の子供みたいになっている聖さまと出会ったのだ。 その後で聖さまがこっそり事の成り行きを教えてくれた。その話では、ふるふると震えて志摩子さんに飛びついていきそうな乃梨子ちゃんを、志摩子さんが抱き締めたという話だった。 「……怒った?」 結果が予想と反したとしても、結末は似たようなものだ。 そしてそれが自分の巡らした策略の結果で。……と言ってもただお願いしただけだけど、姉妹の事に口出しした事には変わりない。 あのお願いだって後ろめたさから自分の為に言ったに違いないわけで、余計なお世話と言われればそれまでの事。 変に気を使わないで頂戴、って怒られても仕方ない事だ。まあ、志摩子さんが怒る様なんて、中々想像できないのだけど。 「怒るだなんて。そんな事全然ないわ」 ほら。やっぱり志摩子さんに怒り顔なんて似合わない。 こうやって晴れやかに笑っている方が、断然に似合っている。 「むしろ祐巳さんには、感謝しているぐらいよ」 志摩子さんはご飯を一口食べてから、不意にそう言った。 薔薇の館には二人しか居ないから、相手の言葉がよく頭の中に響く。 「どうして?」 祐巳も一口おかずを食べてから、そう訊いた。 会話に食事が混じると、どうしてもテンポが遅くなる。 「乃梨子がプレゼントをくれた後ね、固まってしまったの。その時の乃梨子が、葛藤してる子犬みたいで、凄く可愛かった」 焼き鮭を箸でつまみながら、志摩子さんはそう言って笑う。 こんなに幸せそうに笑えるんだったら、きっと祐巳のお節介は上手くいったのだろう。 「でもね、祐巳さんには少し申し訳ないわ」 「ん?」 祐巳が口をもごもご動かしている時に意外な事を言われたので、「え?」が「ん?」になってしまっていた。 「お姉さまが祐巳さんに抱き着いているのを見て、私が寂しい思いをしてるって考えていたのなら、それは違うの」 「……どういう事?」 やっとの事でご飯を飲み込むと、志摩子さんは伏し目がちに言った。 「祐巳さんに抱き着いている時のお姉さまは、凄く楽しそうだったから。そういうお姉さまの姿が見れるのは、嬉しかった」 楽しそうなお姉さまを見るのが嬉しい。それは妹として、当然の心理だ。 でも―― 「でも、それだけ?」 本当に、そう思う気持ちだけだっただろうか。 自分の 志摩子さんと聖さまは普通の姉妹とは違うとは分かっていたけど、どうしてもそれだけは確かめたかった。 「それだけ……じゃなかったわね。きっと、私は嫉妬もしていた」 やっぱり。普通はそうなのだ。 嫉妬していると言われたのに、何故か祐巳は安心した。 志摩子さんが真正面からそう言ってくれた事が、掛け替えのない友情の証みたいに感じたからだ。 「私じゃお姉さまにこんな表情をさせる事はできないって、少し嫉妬してたの。でも、それも過去の事ね」 「え……?」 祐巳が弁当箱に箸をつけたまま固まると、志摩子さんはふふふと笑った。 「昨日、お姉さまが抱き着いてきた事があったの。その時、祐巳さんに抱き着いていた時と同じ顔してたのよ」 志摩子さんが本当に嬉しそうな笑顔を浮かべたので、祐巳も気兼ねなく笑えた。 なるほど、志摩子さんは抱き着くのがどうとかいうので嫉妬してたんじゃないわけだ。 「でも、一つだけ分からない事があるの」 そう言うと志摩子さんは食べかけのお弁当に蓋をして立ち上がった。 「分からない事って?」 「祐巳さんの抱き心地」 志摩子さんがそう口にした頃には、彼女はもう祐巳の背後に来ていた。 「お姉さまったら、凄く気持ち良さそうに祐巳さんに抱き着いてたから。そんなにクセになるものなのかしら?」 そう言われましても、自分で自分の抱き心地なんて分かるはずもありません。 祐巳は振り向いてそう言いたかったけど、すでに志摩子さんに肩を持たれていて出来なかった。 「祐巳さん」 「は、はい」 同級生なのに、何故か緊張して返事をしてしまう。 何故だか、次の言葉が予想できたからだ。 「抱き着いてみてもいいかしら?」 「……」 やっぱりだ。これが 「で、でも、誰かきたらっ」 「大丈夫よ、この時間になっても誰も来ないのだから」 確かに、昼休みも前半を終えようとしている。 由乃さんは部活の仲間と食べると言っていたから来ないだろうし、 だからと言って簡単に許してしまっていいのだろうか。頭の片隅に、『浮気』なんて言葉まで浮かんできた。 「や、やっぱりだめ!」 「あら。お姉さまはよくて私はだめなんて、寂しい」 どうした事か、今日の志摩子さんは押しが強い。昨日の乃梨子ちゃんで、味をしめたのだろうか。 どちらにせよ、心臓が早鐘を打ち始めたのは確かだ。 一年の時はクラス一、いや学年一とまで言わしめた美少女が、祐巳を抱き締めさせてくれと言ってきている。 しかも今日の志摩子さんは特別だ。いつもより数段小さくカールしている髪型は、まるで外国人モデルのよう。何だか必要以上にドキドキしてしまう。 「だって、聖さまの時はいつも不意打ちだったから」 「じゃあ、そうすればいいのよね」 「あ!?」 肩にかかる力がなくなったかと思うと、次の瞬間には志摩子さんに包まれていた。椅子に座っている祐巳に、しな垂れかかるような格好だ。 志摩子さんの両手は丁度祐巳のかけているロザリオの前で組まれ、クルクル巻き毛が祐巳の頭を覆っていた。 「し、志摩子さん」 「じっとしていて」 言われて祐巳は、身をすくめた。 今抵抗しても、精々祐巳のお弁当箱がひっくり返るのが関の山だ。 仕方ない、と覚悟を決めて、志摩子さんが満足するまで待つ事にした。 「祐巳さん、柔らかい」 それを言ってしまえば、後ろから当たる志摩子さんの感触だってそうだ。 特に胸なんか、祐巳なんかより比べ物にならないようで、悔しい。少なくとも、祐巳の方が早く生まれてきたはずだというのに。 「志摩子さん、まだ?」 「もうちょっとだけ」 一体祐巳の何が良いの言うのだろうか。 志摩子さんは何かを探るように抱きついたまま、中々離れてくれない。 しょうがない、こうなればトコトン付き合うか、と胆を据えた時の事だった。 ギィ、と。ビスケットの扉が開かれたのだ―― 「……」 扉の向こうから現れたその人は、言葉を失った。 口が「ごきげんよう」の「ご」の形のまま、動かない。 「あら、乃梨子」 ごきげんよう、なんて暢気に言っている場合じゃないっていうのに。志摩子さんは祐巳に腕を巻きつけたまま言った。 乃梨子ちゃんの口が、「ご」の形からゆっくりと動き出す。 「お、お姉さま――!」 握り締めた拳の揺れ方が。 怒りに震える、艶やかな髪の毛が。 まるで祥子さまがそこで怒っているかのようで、祐巳にはとても怖く映った。
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