■ YOU are YOU




「ランチ」
 
 一学期も始まってすぐの時期。
 藤堂志摩子が、延ばし延ばしになってしまった委員会の引継ぎで遅くなった帰り道での事だった。
 マリア様の前で手を合わせて、いつもより長いお祈りの後。目を開くと、一匹の猫がこちらを見ていた。
 見詰め合う事、十数秒。その間に志摩子の考えを過ぎるのは、そういえばこの猫の事を始めてランチと呼んだ、という何でもない事だった。
 ランチと呼ばれた猫が数歩、歩み寄ってくる。
 おかしい――と志摩子は思った。
 確かクラスメートの話では、この猫は中々懐かないのではなかったか。
 そこまで考えて、そして不意に猫の背中に毛の無い部分が見えて、「ああ」と息を吐いた。
 この猫は、あの人に似ている、と。
 
「……あっ」
 
 もう少しで足元まで来るというその時、ランチは急に踵を返して、今度はマリア像の足元にまで走っていった。
 それが寂しかったのかなんて分からない。それを考える間もない内に、何故か三歩、ランチを追いかけていた。
 怯える素振りも見せないランチとまた少しの間見詰め合うと、ランチはまた尻尾を志摩子に向けた。今度はゆっくり歩いて、マリア様の後ろにある小さな森へと向かって行く。
 訳も無く、訳も分からず、ただ何となく。そんな言葉を含んだ足取りで、志摩子はランチの後を追う。
 日差しはもう傾き、時計の針は既に夜が近い事を示していた。早く帰らなくては、とは思ったけど、足はその思考とは逆方向に動いた。
 
「……」
 
 ランチはにゃんともスンとも言わない。だから志摩子も無言で追いかけた。
 薄暗い森の中に入る。小さな森だから、恐怖心はない。真っ直ぐ歩きさえすれば、マリア像から左右に分かれるどちらかの道に出られるのだ。
 しかしランチの歩みは思いのほか早く止まった。丁度、マリア像の背後だった。
 
「まあ」
 
 心なしか、瞳に光が宿る。
 マリア様の後姿が、木々の枝がフレームになる様な形で縁取られている。そこは丁度マリア像が太陽を隠しているような眺めだった為に、像の輪郭から漏れる光が日食を起こした後光のようだった。
 だから志摩子は感嘆の声を漏らした後、何かにとりつかれたようにマリア像の後ろ姿を魅入ってしまった。
 そのせいだろうか。視覚はただその光景だけを捉え、聴覚は一切の音を遮断した。だからそばに誰か来ていたとしても、気付きようがなかったのだ。
 
「まるで今の志摩子を簡略にしているみたいね」
「……祥子さま。どうして」
 
 不意に現れた祥子さまに動揺してしまって、志摩子はそこまで言うのがやっとだった。
 
「どうしてここに、って? あなたね、お祈りが終わったと思ったらずっと止まってしまって、それからいきなり森の中に入っていったら、誰だって心配するでしょう」
 
 なるほど、祥子さまにはランチが見えていなかったらしい。確かに傍から見れば、中々に奇特な行動に見えただろう。
 
「ご心配をかけて申し訳ありません。……それで、今の私を簡略にしているって?」
「あなたと、聖さま」
 
 志摩子ははっと息を飲んで、背後にいたはずのランチを振り返った。しかしそこには、名前も知らない草木が生い茂るだけだった。
 
「聖さまが卒業して、寂しい?」
 
 そこまで聞いて、志摩子はやっと『志摩子と聖さま』の聖さまが、マリア像である事に気付いた。
 祥子さまは志摩子に声をかけた瞬間から、ずっと表情を変えない。さっきから祥子さまの発言は、一貫性を持っているようで支離滅裂。せめてもう少し、ヒントをくれないだろうか。
 
「さっき聖さまが、何人かに囲まれて笑いながら校門を出て行かれたわ。……あなたはいつまでその日陰にいるのかと思ってね」
 
 なるほど、と志摩子は言葉の欠片を繋ぎ合わせて理解した。
 聖さまはとっくに前を向いて歩いているというのに、どうして志摩子はその日陰にいるの、って。そういう事を、祥子さまは言いたいんだろう。
 ――寂しい?
 まだ頭に残っていた祥子さまの問い掛けが、今一度志摩子に問いかける。
 お姉さまが卒業して、寂しくならない妹なんていない。でもいい加減、そんな状態からは抜け出している頃だ。寂しくてここに来たのかと聞かれれば、きっと違う。
 
「でも、それも時間が解決してくれるでしょうね」
「……そうでしょうか」
 
 ずっと祥子さまばかりに喋らせているのに気が引けて志摩子がそう返すと、祥子さまはきっぱりと言った。
 
「きっとそうよ。もう一度、マリア様を見てごらんなさい」
 
 そう言われて、志摩子はまたマリア像を見た。像の括れた部分から陽光が漏れて、志摩子の頬を染めていた。
 
「さあ、用事がないならもう帰りましょう。祐巳を待たせているわ」
 
 祥子さまが返答を待たずに踵を返したので、ここに留まる理由もない志摩子は後に続く。
 志摩子は祥子さまの背中を見ながら、まだ考えていた問い掛けを心の中で繰り返す。
 ――寂しい?
 それは志摩子だけに向けられたものなのか、疑問だった。
 本当は祥子さま自身に向けられた問い掛けなんじゃないかって。どうしてずっと物憂げな顔をしているのって。
 
 
 だが志摩子は失念していたのだ。
 祥子さまは切り替えが早い人間だという事。
 それに物憂げな表情をしていたのは、桜の舞う季節はいつもこうだという事。
 でもどうしてそんな状態で志摩子の事を気にしたのかは、ずっと疑問のままだった。
 

 
「あ、猫」
 
 この所二人で仕事をこなす事が多い、梅雨の日。
 いつものように薔薇の館で学園祭の下準備を進めて、二人で帰る。そんな何でも無い日の事だった。
 志摩子の妹である二条乃梨子は、マリア様にお祈りをした後志摩子より早く目を開けたので、その存在にいち早く気付く事ができた。
 
「あら、ランチ」
 
 あの日以来見かける事の無かった猫と再会し、志摩子はすっと目を細めた。
 
「お姉さま、この猫を食べるんですか」
 
 すると何を勘違いしたのか、乃梨子は素っ頓狂な事を言い出した。
 
「違うわよ。乃梨子ったら、ちょっと真面目すぎるわ」
 
 真っ直ぐ志摩子の方を見て言った乃梨子がおかしくて、志摩子は珍しく声を出して笑った。
 それで少し御機嫌斜めになってしまったのか、乃梨子は少しふくれて言う。
 
「じゃあどうして」
「この子の名前なのよ。乃梨子の学年ではどうか知らないのだけど」
「私の学年では……?」
「祐巳さんに教えてもらったのだけどね、この子は学年によって呼び名が違うらしいの。私の学年ではランチ、一つ上の学年ではメリーさん、って」
 
 そこまで聞くと乃梨子はしゃがんでランチにおいで、おいでと手を振った。しかしランチは、警戒してよりつく事はなかった。
 
「乃梨子も、この子に名前を付けてあげたらどうかしら」
「私が?」
「ええ。前の三年生が卒業してしまって、名前を呼んでくれる人が少なくなって、きっと寂しいと思うから」
「参考までに、前の三年生の人達って、何で呼んでいたの?」
「確か……ゴロンタ」
「じゃあ私もゴロンタ」
「あら、それはダメよ」
「どうして? そう呼んであげれば、寂しくなくなるでしょう?」
「そうなのだけどね、代わりじゃ駄目なのよ」
 
 志摩子が否定すると、乃梨子は長いおかっぱの髪を揺らしながら問いかけた。
 
「じゃあ、代わりじゃ駄目なのは何故?」
「だって」
 
 志摩子はそこまで言って、乃梨子に向かって微笑む。ふわふわの巻き毛が揺れる。
 
「だって、あなたはあなたなんですもの」
 
 傾いた陽光は、いつしか乃梨子の頬を照らしていた。
 
 

 
 
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