■ トゥ・プレシャス その1 「福沢さん、福沢乃梨子さん」 自分を呼ぶ声に反応して乃梨子は立ち上がる。 「ここで待ってるからね」 祐巳の呼び掛けに、乃梨子は「ありがとう」とだけ言うと、強張った表情のまま、診察室に入っていった…。 『相談がある』と、祐麒に呼び出されたのが昨日のお昼。 「ここ2週間、リコの様子がおかしいんだ」 「おかしいって、どういう風に?」 「一言で言うと、ヤケにカレンダー見たり、それまであまり計らなかった体温を計ったり…」 それを聞いて、祐巳は声のトーンを落とす。 「…祐麒、身に覚えは?」 「ある。ちょうど3ヶ月前に、縦ロールとノッポの陰謀でゴスロリ着させられてたリコがあんまりに かわいかったもんで、つい押し倒しちゃったことが……」 その言葉に、心で祐巳は頭を抱える。 「祐麒は乃梨子ちゃんとの間に、子供ができたのが嫌なの?」 答えが判り切っていることを、あえて祐巳は聞く。 「いや逆。嬉し過ぎてどう表現したら良いのかわからなくて」 「とりあえず、今夜お邪魔するわ」 「わかった」 その晩 「ここに来るのも久々ね」 「お姉ちゃん、忙しいから」 クスクス笑いながら乃梨子は祐巳を出迎える。 「祐麒くん、今日は少し遅くなるみたいです」 「らしいね。さっきメールしたら、そんな事言ってた」 本当は祐巳が頼んで、乃梨子と話をするための時間を作ってもらっているのだが、それは黙っておく 。 食卓テーブルに座ると、祐巳は何気ない風を装って話を切り出す。 「まぁ、祐麒がいなけりゃ、女同士の話が出来るから、それはそれで良いけどね」 その言葉に、乃梨子の視線が一瞬揺れる。 「そうですね。男性の前じゃ話しにくい話もありますからね…」 すぅっと表情を改める乃梨子を見て、祐巳も踏ん切りをつける。 「…どうせ乃梨子ちゃんには隠してても無駄だよね。実は祐麒に乃梨子ちゃんの様子がおかしいって相談されてね」 そこまで言うと、祐巳は出されたお茶を一口飲む。 「単刀直入に聞くわ。乃梨子ちゃん、あなた、妊娠して…」 「…るかもしれないです」 祐巳が言い終える前に、乃梨子はその可能性を肯定した。 「でもつわりも無いし、昔から生理が1月以上ズレ込むこともあったから、まだ確証は無いです」 「妊娠検査薬の簡易テストは?」 「怖くてしてないです」 「そう…。でも、はっきりさせないのはダメだと思うんだけど?」 優しい言い方だが、祐巳の言葉には強い説得力が込められていた。 「でも、祐麒くんが喜んでくれるか心配で…」 「それは大丈夫。祐麒は嬉しさをどう表現したら判らないって言ってたくらいだから」 「えっ!?」 「いや、もし妊娠してたらって聞いたのよ」 何気なく、祐麒も感づいている事を、祐巳は伝える。 「ただでさえ祐麒は気がまわるんだよ。妻の異変に気付かないわけがないじゃん」 「そうですよね…」 「乃梨子ちゃん。明日、一緒に病院に行こうね」 「お姉さま?」 考えごとをしていた祐巳は、その呼び掛けに顔を上げる。 そこにはリリアンでの妹、細川可南子がいた。 「可南子、どうしたの?」 「そういうお姉さまは?」 「あたしは乃梨子の付き添いだけど」 「乃梨子もですか…」 「か、可南子…、もしかして…」 「あたしは妊娠してません。妊娠したのは夕子さんです」 それを聞いて、祐巳は胸を撫で下ろす。 「あのロリコン親父、50越えたって言うのに…」 その言葉に、祐巳は苦笑する。 「でも、ちーちゃんは嬉しがってるのじゃない?」 「そうなんですけどね…」 そう言って、可南子は頬を緩めた。 可南子は、目に入れても痛くないぐらい次子を溺愛している。 「乃梨子ちゃんもそれぐらい溺愛してくれたら嬉しいんだけどね」 「えっ、つわりが来なかったんですか、夕子さん?」 「あんまりね。今回も下腹部の感触がおかしくて気付いたくらいだから」 乃梨子と夕子はそんな話を診察室前の長椅子でしていた。 「可南子も、早く彼と結婚すれば良いのにね」 「まぁ、マンションの隣同士だから、ほとんど同居と同じですけど」 可南子とその彼氏である松岡由貴は、大学卒業後、バスケ部があると理由から同じ企業に入社し、同 じマンションの隣同士を選んで生活していた。 「とにかく、自分の好きな人の子を産めるのは、女として最高よ」 看護婦が中から呼び出しに出て来る。 「細川夕子さん、入って下さい」 「じゃ、お先に」 夕子は乃梨子に声を掛けると、診察室に入っていった。 「『女として最高』か…」 乃梨子はポツリと呟いた。 「ただいま」 玄関に入ると、乃梨子は習慣となった帰宅の言葉を言う。 すると、リビングから「お帰りなさい」と言う返事が返ってくる。 誰もいないと思って靴を脱いでいた乃梨子はびっくりする。 「祐麒君、帰ってたの?」 「祐巳から電話もらってな。そしたらいてもたってもいられなくなってね」 祐麒は玄関まで行くと、乃梨子を包み込むように抱き締める。 「どうだった?」 「…3ヶ月目だって」 その言葉に、祐麒の抱き締める力が少し強くなる。 「まだ実感は湧かないけど、あたしの子宮(なか)に、あたしとは別の命が宿ってるんだよね」 「ごめん、リコ…」 祐麒は乃梨子の髪を梳きながら呟やく。 「謝らなくていいよ。あたし、祐麒君の子供を産めるの、嬉しいから」 乃梨子は祐麒に微笑みかけると、ギュッと抱き返した。 そして数か月後 「祐麒、こっち、こっち」 逸る気持ちを抱えて祐麒が病院に入ると、長椅子に座っていた菫子が立ち上がって呼ぶ。 「で、リコの様子はどうなんですか?」 「まだ分娩室に入っただけだから、大丈夫よ」 菫子は産婦人科のエリアへ歩きながら話す。 「とりあえず、自然分娩で行くみたいだけど、ヤバくなったら帝王切開するってお医者さんは言ってたわ」 「3人を助けるためなら仕方ないですね」 「にしても、初産で双子とはね」 少し苦笑しながら菫子は祐麒の肩を叩く。 5ヶ月のエコーで判ったのだが、乃梨子のお腹には双子が入っている。 そのため、本来なら危険を回避するために帝王切開するのだが、乃梨子は自力で産みたいと言って、 自然分娩を採った。 「頑張りなさいよ、パパ。リコの力になってあげなさい」 分娩室に入って数時間。 出産に耐えるだけ産道が拡いて、乃梨子のお産は大詰めを迎えていた。 その間、祐麒は乃梨子の手を握り続け、空いた方で乃梨子の顔に浮かんでくる汗を拭き続けた。 そして…… PM19:23、19:41 福沢祐麒・乃梨子夫妻長女および次女誕生 双子ながら、2人とも保育器には入らずに済む体重で生まれてきた。 「お疲れ、今はゆっくり休んで」 「言われなくても、それしか出来ない…」 蒼い顔をしながら、乃梨子は祐麒に返す。 「とりあえず、また明日の朝、来るよ」 「あっ、祐麒くん…」 「んっ?」 「名前…、考えておいてね」 「うん、もちろん」 「…なんだか不思議な気分」 「俺も」 「「あたしたちが親なんてね」」
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