Title:『Under the Moon/Sun Rize』   ...produced by 滝  その部屋は薄いピンクで統一されていた。  窓には薄く滑らかな風合の、ピンクのカーテン。  ベッドにはチェック柄の、ピンクの布団。  それは元気な彼女らしい、少々落ち着きの足りない部屋だった。 「はぁ……」  だが今は、落ち着くどころか気が沈殿していた。  部屋の隅に設置された勉強机とその椅子。  椅子に座っている彼女は背もたれではなく壁に背を預け、視線はただぼんやりとベッドの上のぬいぐるみへ。  それになんら意味はなく、意識はきっと別のところに向かっているに違いなかった。 「すー……」  溜息にならない様に、鼻で肺に溜まった淀みを追い出す。  美琴は、随分と暗い表情をしていた。  こういう日は、決まってそうなり易いのだ。  日中は笑ってはしゃいで、ただ楽しくて。  特に昼食は別格だったという事もある。  精一杯楽しんで、ぽつぽつと友達と分かれ、やがて一人に。  それでなにもこの時に思い出さなくていい事を、けれど忘れてはならない事を考えていた。  “がたっ”  思考は一時中断。  美琴が椅子から腰を上げると、疲労した足が文句を言ってくる。  今日は蓮美台学園の体育祭だった。  障害物競走で見事トップを飾って見せた美琴の足は、日頃の運動不足からか確かに疲弊している。  だがそんな事は意にも止めず、バタンと美琴は自室から出て行く。  鏡の様な廊下を踏み行き、階段を下るのではなく、上る。  やがて現れる重い金属製の扉を開くと、加熱されていきそうな頭には丁度いい風。 「やっぱり、ここはいいなぁ……」  そこは蓮華寮の屋上。  他の建物より若干背丈のある蓮華寮の屋上は、蓮美の街が良く見える。  学園の屋上ほど整ってはいないものの、夜景を望む場所としては、近くにある展望台と遜色ない。  美琴はそんな夜景が一番綺麗に見える、南側の柵によりかかり、今は闇へと沈んだ海を見る。  そこで美琴は、中断していた思考を再開する。  それは―― 「祐介、どうしてるかな……」  美琴にとって、大事な姉弟。  何者にも代えられない、ただ一人の家族。  一日だって、彼を忘れた事はない。  だから“この時に思い出さなくていい事で、けれど忘れてはならない事”を思い出し、美琴は見つめた先の海みたいな思考に溺れた。 (わたし……これでいいんだよね?)  今も何処かでウイルスと戦っている祐介。  楽しい仲間達に囲まれ、笑顔で過ごす美琴。  それは余りにも対照的で、美琴はただ悩んだ。  祐介が望んだのは美琴の幸せと笑顔で、美琴は今、心の底から笑えている。  それになんら間違いはなく、正しくても――美琴はそれを納得できなかった。 「どうしてわたしだけ」  笑ってるんだろう。  どうして自分だけ、幸せなんだろう。  今も何処か苦しんでいる祐介がいて、なのに笑っている自分がいて。  それが祐介の望みであっても、悩みは消えない。  とんでもなく、不平等だ。  こういう何だか自分自身が、どこかに行ってしまったかの様な錯覚。  きっと明日になれば吹っ切れて、笑っていられる事を、美琴は十分承知している。  結局自分は笑うしかないのだと知っていても、ジレンマは消えなかった。  そんな葛藤に頭をフル回転させていたからだろう。  “ぎぃ……”  屋上の扉を開く影に、気付かなかったのは。 「……天ヶ崎? こんな所で何をしている?」 「へっ? ああ、あの……」  美琴が振り向いた先には、何故か深野の姿。  考え事に没頭していた美琴にとっては、最高のドッキリだっただろう。  そこが屋上である事とか、学園とは違いスラックスに襟元を緩めたYシャツというラフな格好であったりとか、眼鏡をしていなかったりだとか。  突然現れた事意外にも、美琴を困惑させる要因が山ほどあった。 「いや、愚問だったな。ここは眺めもいい。……邪魔をしたな、すまない」  そこでやっと美琴が考え事をしていたのだと気付いたのか。  深野は静かに詫び、美琴に背を向けた。 「あのっ……!」  だが美琴は、扉に向かって歩き出そうとする深野を呼び止める。  自分の悩みで人に迷惑をかけてはなるまいと、咄嗟の行動。  しかし呼び止めたは良いものの、次に続く言葉が見つからない。  差し当って話題となりえるものは……今日の体育祭ぐらいなものだった。 「えっと、今日はお疲れ様でしたっ」  髪が靡くほどの勢いで、深くお辞儀をする美琴。 「? ああ、天ヶ崎も今日は頑張ったな」  それをここに居ても良いと読みとったのだろう。  深野が美琴と同じ柵に身を委ねると、キッと神経質な音がした。 「私も今日は疲れた。特に疲れている日は、こうやって夜景を見に来るようにしていてな」 「眼鏡もなしで、夜景を……?」 「夜景は視覚で捕らえるだけのものじゃないだろう?  光や闇だけではなく、風や雰囲気だって夜景だ。夜景は全身で感じるものじゃないのか?」  あまりにも似つかわしくない、ロマンチックな台詞。  場を和ませるために始められた会話は、ただの数十秒で効果を表した。 「ふふっ……そうですね」  失礼にも、美琴は笑う。  その夜景の楽しみ方は、大真面目な答えなのか、冗談のつもりで言ったのかは定かではない。  それでも、確かに美琴は笑ったのだ。 「…………」  ――涼やかな、柔風が奔る。  トリコット地のスカートは軽やかにはためき、美琴の髪が宙に遊ぶ。  だが、会話はそれっきり。  二人の視線の先には、ただ揺らめく光があるばかり。  美琴は、本当に不思議な時間だと思った。  居眠り常習犯の美琴にとってみれば、深野は天敵にも値する。  それだと言うのにいつしか心は静まり、この空気に慣れてしまっている。  もしかすると――美琴は、自分の父親と深野を重ねて見てしまったのかもしれない。  疲弊しきったその風体と、我が家に帰りついた安堵の表情を。 「ひとつ聞いていいか」  ふとそこで、沈黙は両断される。 「……なんですか?」 「言いたくなかったら言わなくていい。……私がここにくるまで、何を考えていたのかと思ってな」  それは野暮なのか、父性なのか。  振り返った時の顔が泣きそうだった、と付けたした深野の表情は、心配の色を灯していた。 『なんでもありません』  そう言えば、その会話は終わっただろう。 「……家族の事を、考えてました」  だが美琴は、街並みに視線を遣ったままそう答えた。  いつもなら絶対に口外しない、家族の話。  それをぽつりぽつりと話しだす美琴は、やはり深野の表情に感化されたのかもしれない。 「故郷に、病気の弟を置いてきたんです。  今も何処かで病気に苦しんでいる弟がいて、わたしだけ笑っていて……それを何でなんだろうって、考えてました」  ――再び、涼やかな柔風が奔る。  星空の下、木々がサァサァと鳴く。  さっきよりもずっと深い、闇よりも存在感のある沈黙。  だがそれも、永くは続かない。  風が凪ぐ頃、深野もまた、ぽつりぽつりと語りだした。 「似ているな。……私も故郷に家族を置いてきた」  はっとして、美琴は深野の顔を窺う。  その表情には愁いは無く――ただ唇が動くのみ。 「重い、流行の病にかかっていて、私はそれを看取るべきだった」  じゃり、と足を踏みかえる音が耳朶に響く。  深野の言葉の中身は自虐的だったが、後悔の色はない。  それが美琴には、どうしようもなく不可思議だった。 「だが私がここに来れる事を知った途端、家族は……両親は消えた。最新の療養施設に入ると言ってな。  どう考えてもそんな所に行けるはずもなくて、連絡先に書かれている場所にも居なかった。  ……だから私はここにきた」  深野は表情を引き締め、言う。  その声色には、本来悲しみが含まれるべきだっただろう。  それをそうさせないのは、深野が成熟した人間だからか。 「似て……ますね」 「……そうだな」  切れ切れの美琴の声は、空に霧散する。  それは似ているなんてものではなく、“同じケース”なのかも知れない。  だがそれを確認する事は、今は何の意味も持たなかった。 「全部優しさ、だったんだろうな」 「…………ぃ」  掠れた、はい。  瞳を揺らす美琴は、もう夜景など見ていない。  そこでは光の束が、不規則に伸縮してみせるだけ。 「……天ヶ崎」  改めて美琴を見る深野に、今一度深野の方を向く美琴。  暫く話していたというのに、二人が互いの顔を見ながら話すのは二度目。  やっと、視線が交差した。 「私達は大きな……本当に大きな優しさの上で生きている。  その優しさに返せるものは、笑顔だけじゃないのか?  申し訳なく思ったり、迷ったり事ではなくて――前を向いて欲しいから、優しいんだろう?」  そう言って深野は――笑った。  普段の厳しさは無く、ただ慈愛に満ちた瞳で微笑んだ。 「だから天ヶ崎。  笑え、邁進しろ。  笑いたい時に笑って、泣きたい時に泣けばいい。  天ヶ崎は……後ろを振り返るには、まだ若すぎる」  その笑顔は本当に優しく、ただ力強く、美琴の心を照らす。  だから美琴は、泣きそうな心に叱咤して。  だから美琴は、それに報いれるように。 「……はい!」  闇を跳ね飛ばす声で、そう答えた。 「……いい返事だ。では私は、そろそろ戻るとする。  天ヶ崎も、あまり身体を冷やさんようにな」 「はい……おやすみなさい」  柵から離れ、深野は寮内へと続く階段に向かって歩きだす。  足音が屋上に響き……不意に途絶えた。 「最後にもう一つだけ訊いていいか?」 「……はい?」  再び二人は向かい合う。  深野は、もういつもの引き締まった表情。  まるで授業中のような、固い雰囲気。 「今日の昼食は……美味しかったか?」  寸刻、時が凍てつく。  寸刻、美琴は考える。  そして、答えはすぐに出てくる。 「はい……とっても!」  再び曇りなく笑う美琴。  そう言う美琴の表情に、深野は満足したのだろう。 「それは良かった」  深野は誰に向けたとも知れぬ呟きを残し、今度こそ扉の向こうに消えた。  ここにはもう、美琴以外の影はない。  ――三度、柔風が奔った。  見上げた空には皓月。  見下ろせば、地上の星空。  日は西に去り、月が東の空に浮かんだなら。  月は愁いと伴に去り、日は笑顔と共に昇る。 「もう、迷わないからね……」  その呟き、その意思――それは薄明かりの中。  きっと何よりも眩しくて、何よりも輝いていた。                           <>