Title:『蓮美台コイゴコロ』   ...produced by 滝  秋と言うには早く、まだまだ暑い日が続く9月。  9月の初頭と言えば、休みボケに少しだけ頭を痛めるのが風物詩だ。 「それじゃあ、学園祭の出し物は演劇に決定という事でいいわね」  そんな風物詩に肩を並べる行事が、蓮美祭と称される学園祭。  その出し物を確定させる委員長の声が教室に響いたのが、3日前の事だ。 「じゃ、これ台本な。よく読んどけよ」  そう言ってありえない早さで台本を書き上げた脚本兼監督に台本を渡されたのが、昨日の事。 「はい、これで配役は決定って事で」  そして全ての配役が終わったのが、今この瞬間。  夏休みがあけてはや4日。  二学期の幕開けが波乱に満ちたものになると決定されるまで、たった4日だった。  クーラーは働いているものの、設定温度が高いために快適とは言えない教室。  中途半端な暑さは、放課後残って演劇の話し合いをする俺たちを気力を奪う。  そんな中、さらに俺達の気力を削ぐように、監督として君臨した男子生徒が言った。 「はい、じゃあ主役の久住に、投げやりな拍手ー」  “ぱらぱら……”  男子生徒の声に、僅かながらの反応を示すクラスメート達。 「そしてヒロイン役の藤枝には、盛大な拍手ー!」  “ぱちぱちぱちぱち!” 「藤枝さん、頑張ってね!」 「期待してるぞ藤枝ー!」  そして保奈美の番になると打って変わって、どしゃぶりの雨みたいな拍手をするクラスメート達。  何なんだろう、この反応の違いは。 「おや。久住はどうやら不満があるような顔をしているねぇ」  言いながら歩み寄ってくる男子生徒その一。  いや、今は俺の敵その一なった男を、俺はズイと立ち上がって迎える。 「文句なんておおありに決まってんだろうが」 「オーイェーオーイェーはーすーみーっ! はい!」  すると監督は、俺の声をまるっきり無視する形で、応援団めいた事を言い出す。 「「「オーイェーオーイェーはーすーみー!」」」  そしてそれに呼応するように重なる、ノリ重視派の男子の声。 「主役、主役、くーずーみーっ!」 「「「しゅやく、しゅやく、くーずーみーっ!」」」 「ヒロイン、ヒロイン、ふーじえだっ!」 「「「ヒロイン、ヒロイン、ふーじえだ!」」」 「おーけー、サンキューフレンズ、サンキュウ」  ハイタッチを交わす監督とノリ重視派。  行事になると妙にはりきるヤツって、どこにでも居ると思う。  そんなヤツの中でも、頭ひとつ抜きん出ているのがこいつ、監督こと田辺栄三だった。  ちなみに、あだ名は頭四文字をとって「タナベエ」と呼ばれている。 「おいタナベエ、ノリで押し切ろうとするな」 「いやいや、別にそんなつもりはないぞ。それで不満ってのは何だ、久住」  不敵な笑みを浮かべ、俺に向き直るタナベエ。  こいつとは一年の時から一緒だが、未だに掴み所が分からない。  ただ今はっきりしているのは、こいつに言ってやらなければならない事があるって事だ。 「ああ、俺が主役を張るって言うのは置いといて、この台本が問題だ」 「それは私も同意見ですよ、田辺くん」  ふとそこに割って入るのは、今まで教室の後ろの方で成り行きを見守っていた結先生。  結先生が俺と同意見というのは、当然のことだろう。  タナベエが考えたというこの台本。  そのラストシーンには、主人公とヒロインのキスシーンがあるのだから。 「いくらくじ引きで決まったからって、本人達の気持ちもあるわけですから、このシーンは……」 「野乃原先生、それは本人達が同意すればいいって事ですよね?」  不敵な笑みを絶やさないタナベエ。  そろそろアブナイ人に見えてきそうな表情のまま、タナベエは保奈美の方を向く。 「なあ、藤枝はキスシーンは嫌か?」  シン、と静まり返る教室。  当然ながら、全ての視線が保奈美に集まる。  タナベエの質問は、訊くまでもない愚問だ。  いくら幼馴染とは言え、付き合ってもいない男とキスだなんて、そんなの保奈美がOKするわけが―― 「私は……嫌じゃないよ」  ――するわけがないと思ってたのに……超然と、保奈美はそう言ってのけた。  うおぉ! と教室が一気に沸き立つ。  口々に「マジかよっ」とか「本当にいいのー?」等と騒ぎ立て、一時の静寂は跡形もなく消え去った。 「はいはい、静かに! 藤枝は劇の為、みんなの為にそう決断してくれたんだ。ツマラン色恋沙汰に話を持っていかないように」  タナベエは大きく手を叩き、騒動を鎮める。  こういう所は割りと監督としてしっかりしていると思うが、色恋沙汰の話を書いてきたのはお前だろうが。 「さて、じゃあ今度は久住。お前はキスシーン、嫌か?」  タナベエの言葉に、再び静寂に包まれる教室。  今度は俺に突き刺さる、教室中の視線。  タナベエが先に保奈美に訊いたのは、極めて正しい選択だ。  だって、こうなってしまえば俺は頷くしかないじゃないか。  仮に嫌と言えば、保奈美の面目を潰すことになるんだから。 「俺は……」 「じー……」  言いかけた俺に、一際強く向けられる視線。  その視線の元は――ほとんど睨むように俺を見る美琴だった。 「な、何だよ、美琴」 「……べっつに〜。さあ久住くん、正直にお答えをどうぞ」  美琴の声は棘を含んでいたように思えるが……今はそんな事にかまっている場合じゃない。  俺はタナベエの方に向き直り、ヤツの目をしっかり見据えて言う。 「俺は……別に嫌じゃない」 「ならけってー! イヤッホゥ! ワンダホー、ハッ!!」  叫びながら逆立ちして、教室中を練り歩くタナベエ。  みんながそれを見て「いいぞー!」なんて囃すもんだから始末が悪い。 「待て、まだ問題がある」 「何だよ、まだ何かあるのか?」 「俺も保奈美も部活があるだろ。美琴は準主役級の役だし、弘司にも役がある」 「だから?」 「このままじゃ天文部の出し物が出来ない」  俺がそう言うと、タナベエはやっと逆立ちを止める。  うーんと暫く考え込んで、タナベエは弘司に声をかけた。 「なあ広瀬、天文部の出し物って、パネルの展示とかだろ?」 「え? ああ、今の所はそのつもりだけど」 「じゃあ前日準備の時、劇用の背景とかと一緒に作ればいい。そうすれば木材の調達が楽になるし、人手の貸し借りもできるだろ?」 「待て待て、じゃあ劇やってる間はどうするんだ? 受付やる人間がいなくなるじゃないか」 「そん時ぐらい締めとけよ」 「ムチャクチャ言いやがる」  おいおい、と弘司と二人呆れる。  タナベエは行事中には暴走ロック野郎になるが、準備段階の時点で走り始めてしまったらしい。 「田辺くん、それはあんまりですよ〜」  心底困った顔を浮かべる結先生。  こうなってしまうと、タナベエにとって分が悪い。  結先生支持派。つまりクラスメート全員が、視線で「おい、何とかしろ」とタナベエを揺り動かすのだ。 「よ、よし、じゃあ劇の前に天文部のCMタイムを確保しよう。プロジェクターでどかーんと活動報告、どうよ?」  流石にここで反感を買ってはマズイと感じたのか、すぐに譲歩案が出てくる。  弘司は難しい顔でしばらく考えこんで……晴れやかに言った。 「うん、それなら天文に興味のない人にも活動を知って貰うチャンスだ。俺は賛成だよ」 「あ、わたしもそういう条件ならオッケー。普通にやってるより、色んな人に見てもらえると思うし」  提案に好色を示す天文部員達。  しかし、クラスの時間をそんな風に使っていいのだろうか? 「ええ、私もそれならいいと思いますよ。皆さん、ちょっとお時間頂いてしまうけど、構いませんか?」  結先生の問いかけに、はーいと声を揃えるクラスメート達。  まあ結先生が「いいですか?」言えば、大抵ははいと答えるのだ。  危惧する必要もなかったか。 「じゃあ後は藤枝の都合だが」 「一時間ぐらい抜けるのなら、何とかなるよ」 「よし、なら今度こそ決定! 張り切っていこうぜ!」  教室に「うー」と「おー」の中間をとったみたいな声が響く。  こうして俺の意見なんか余所に、学園祭の準備が始まった―― #interlude<1>  その日の晩。藤枝保奈美は自室にて台本と見詰め合っていた。  彼女の手に握られた台本には、既に深い折り目が付いている。  昨日から、何度も何度も読み返した結果だ。 「ふぅ……」  台本を一通り読むと、保奈美は仰向けにベッドに倒れ込む。  彼女の黒く美しい髪はパサリと広がり、闇夜に沈む海を思わせる。 「キスシーン……か」  口吟するように唇が動き、虚空に言葉を浮かべる。  そう呟いた彼女の表情は、綺麗な宝石を見詰める少女に似通うものがあった。  あどけなささえ香る、その表情。 (なおくんとキス……なおくんとキス……)  凡その彼女からは想像も付かない風体で惚ける保奈美。  何度読み返しても、ラストシーンになるとそうなってしまうのだった。  台本の中身を簡単に説明するとこうだ。  旅に出ている主人公・ケリフと、妹であり教会のシスターであるフィアル。  フィアルは隣家の酒場・転がる馬鈴薯亭にて住み込みで働いていた。  看板娘のチェルサと、その父親でありマスターであるワーガ。  3人で酒場を切り盛りしている所に、旅から帰ったケリフは市場で悪漢から救ったという少女を連れてくる。  それがシアネリア。家出中の、その国の王女だった。 (フィアルが私で、ケリフがなおくんで……シアネリアが美琴、か)  社会勉強という名目で馬鈴薯亭で働く事になるシアネリア。  姫を護衛も無しで働かせるわけにはいけないと駆けつけたのは、ケリフの幼馴染である女剣士・ノアルだった。  こうして大所帯となった酒場・転がる馬鈴薯亭。  たどたどしくも成長を続けるシアネリアに、少しづつ心惹かれていくケリフ。  その姿に切なさを隠せないフィアルは、ある日自分達が本当の兄弟ではないと知る。  しかし時を同じくしてケリフは王家の縁の者と分かり、とんとん拍子にシアネリアとの婚姻が決まってしまう。  想いに耐え切れなくなったフィアルは、思い切ってケリフに告白した。  ケリフは最も身近にあった大切な存在を改めて認識し、フィアルの想いに応えると決意する。  しかし婚姻を破棄しては、この国には居られない。  二人は夜も深まった頃に国を抜け出し、国境の辺りで国を振り返る。  そして星空をバックにキスを……という話だった。 「どうしてかなぁ……?」  田辺が既存の物語を模倣してでっち上げたというこの話は、ひどく今の保奈美の状態と似ていた。  義妹という設定の違いはあれど、付かず離れずだった保奈美と直樹。  姫君という設定の違いはあれど、転校生として直樹の前に現れ、確かに直樹を気を引いた美琴。  だが、この話は義妹との駆け落ちにて話を締める。  だからこそ、保奈美は煩悶した。  一学期の中頃から、保奈美と美琴は互いを名前で呼びあうようになった。  そうして互いに一歩踏み込み合い、より親密になった。  それで分かった事は、一にも二にも“美琴は直樹の事が好き”なのだという事実。  きっとそれは、美琴の方から見ても同じだったんだろう。 「……難しいな」  そこで彼女達はつまずいた。  久住直樹という男は、言わば二人の間で揺れるヤジロベエだ。  保奈美と共に夏祭りに行ったかと思えば、美琴と天体観測に出掛ける。  不安定なヤジロベエは、強く引っ張ればすぐ引いた方向に落ちて行くに違いない。  だからこそ、保奈美と美琴はつまずいたのだった。  お互いの気持ちが分かっているからこそ、積極的な行動を避け、遠慮しあう。  それが美徳であるかのように遠慮しあうから、ヤジロベエは不安定なまま。  いっそ彼の方からどちらかに倒れ込めば、どれだけ二人が楽になっただろう?  直樹の気持ちがどちらかに向けば、一方は幸せを掴み、一方は心から二人を祝福できるはずだ。  例え恋に破れようが、想い人の幸福を祈り続ける。  そんな覚悟もなしに、保奈美が恋をするわけもなかった。 (でも、これって……抜け駆けになるのかな?)  しかしその均衡も、今日を境に崩れるのかも知れない。 『私は……嫌じゃないよ』  確かに彼女はそう言い、自身の唇を許した。  その言葉に嘘も偽りもなかったし、何より直樹の面目を潰すワケにはいかない。  だからそう答える以外、選択肢はなかったのだ。 「美琴……どう思ったかな」  美琴は、それをどう受け取ったのだろうか?  牽制しあっていたわけではないが、裏切りと感じたのだろうか?  しかし美琴の性格を考慮すると、それは考えにくい。  キスは嫌かと聞かれた直樹の答えを待つ時の、美琴の表情が脳裏に映る。  美琴も同様の行動を起こして、直樹の気を引こうとするのだろうか。  それとも、逆に譲るような態度になってしまうんだろうか。  そのどちらも保奈美にとっては辛く、かと言って以前のままというのも良い状態ではなかった。  “かさり”  思考の行き止まり。  こうしていても何も変わらないと、保奈美は再び台本を手に取り、ベッドから身を起こす。  今の保奈美に必要とされているのは、まず台本を覚える事。 「……ヒロインだもんね、頑張らないと」  保奈美は決して最初から『完璧』と称される人間ではなかった。  全璧と称される素養も、不断の努力が実ったものだ。  だから今の彼女にできるのは、劇に向かって精一杯頑張るだけ。 「……よしっ」  保奈美は乱れた服を正すと再び机に向かい、台本を片っ端から頭に叩き込んでいった。           #          #          # 「ねえ、起きて」 「う、うーん」 「お兄ちゃん、起きてってば」 「な、なんだ。フィアか。今、起きるよ」 「はいカーット!」  机を全部後ろの方に追いやり、一時の開放感さえある教室。  そんな中、監督・タナベエの声が響き渡る。 「藤枝はいい。主演女優賞間違いなし。問題は久住、この大根役者!」 「ひどい言い草だ」  色々不満のある配役決定の翌日の放課後。  早速こうして練習しているわけだけど、やはり思いの他難しい。 「お前演技硬すぎ。何年藤枝と幼馴染やってんだ?」 「何年とか演技に関係ないだろ、バカ」 「うわーん! バカって言われた方がバカなんだよ!!」  そう言うとタナベエは教室の隅でうずくまってのの字を書き始めた。 「誰だよ、こいつ監督にしたの……」 「しょうがないでしょ、誰もやりたがらないし。それに自分からやるって言ってくれたんだしね」  独りごちる俺に答えるのは、酒場の看板娘・チェルサ役の委員長。  トレイの代わりに学級日誌を持って、なにやらやる気十分である。 「監督役には、やる気のある人がなった方がいいでしょ?」 「すいません、お冷をひとつ」 「ちょっと、久住くんまでボケださないでよ」 「ねえ久住くん、暇ならわたしとも練習してよ〜」  ふと俺に助け舟を出すように現れたのは王女・シアネリア役の美琴。  これもタナベエが『王女の時は髪の毛をおろす。酒場で働く時はポニーテール』と設定したので、髪をおろしている。  ストレートにしていると妙に落ち着いてる感じがして、何だかいつもと雰囲気が違う。 「久住くん、聞いてる?」 「え? あ、うん、聞いてる」  思わず美琴をジッと見てしまっていたらしい。  俺の目を奪うとは、中々やるじゃないか、美琴も。 「それで、わたしとも練習して欲しいんだけど……」 「あ、悪い。まだ保奈美との練習が終わってないんだ」 「そうなんだ、じゃあ……」 「ううん、私はもういいから、美琴と練習してあげて」  俺達の会話を見守っていた保奈美は、ふとそんな事を言いだす。  さっきのシーンは、まだ不完全だっていうのに。 「そ、そんなの保奈美に悪いよ。わたしは待ってるから、気にしないでよ」 「でも、なおくんも色んな人と演技したら、上手くなるんじゃないかな? だから美琴は遠慮する事ないんだよ」 「……おーい弘司、次のシーンの練習しようぜ」 「なおくん?」 「久住くん?」  酒場のマスター役の弘司に声をかけると、妹と姫が怖い声をだした。  遠慮しあうなら、別の奴と練習しようと思っただけじゃないか。 「ほら、美琴。ね?」  保奈美がちょっと強引なぐらいに、美琴の背中を押す。  それで踏ん切りがついたのか、美琴は髪を結いながら俺に向かって歩いてきた。  初めて見る美琴の演技に、残っていたクラスメートの視線が集まる。 「じゃ、じゃあ酒場のキッチンで、ジャガイモを剥くシーンからね」 「おう」 「い、いきまーすっ」  俺と美琴は出しっぱなしだった教卓へと移動し、美琴は教卓でジャガイモを剥く真似をする。  俺は美琴の背後に立ち、その様子を見守る。 「じゃば、じゃ、ジャガイモをむぬ……剥くのって、難しいんですね、ケリフさん」 「美琴、噛みすぎ」 「も〜、いいから続けてよ〜」  教室のあちこちから、失笑が漏れる。  美琴って、割りと緊張しやすいタイプなんだろうか?  真っ赤な顔をする美琴に、思わずニヤケそうになった口を片手で押さえる。 「はい、もう一回いくよ。……ジャガイモを剥くのって、難しいんですね、ケリフさん」 「皮むき器を使え、女。あれはよいものだ」 「久住くん、台詞全然違うんだけど……」  “がららっ”  教室に小さな笑いが膨らむのと同時に、それを黙らせるようにして扉が開く。  そこに現れた意外な人物に、教室中に疑問符が浮かんだ。 「恭子先生? 結先生ならここには……」 「え? ああ、違うのよ。私が用があるのは、野乃原先生じゃなくて田辺よ」 「タナベエ? あれなら、隅でうずくまってますが」  視線でタナベエの所在を示す。  恭子先生は無言で返事をし、カツカツとタナベエに歩み寄った。 「どうせ俺はバカだよ。ふーんだ、へーんだっ……」 「……田辺」 「あ、恭子ちゃんだ」 「……アンタ、次その呼び方で呼んだらどうなるか、言わなかったっけ?」 「失礼しました、仁科先生。何用でしょうか」 「分かればよろしい。深野先生が田辺の事呼んでたわよ。生徒指導室に来なさい、だって」 「ふん。嫌だと言ったらどうする?」 「そんなの私は知らないわよ。バカな事言ってないで、さっさと行ってきなさい」 「……はーい」  そう言うとタナベエは怒られてきますオーラを背中に背負って、教室を出て行く。  ……相変わらずコイツの会話は思い付きまかせだ。  それを軽くいなす恭子先生も、中々侮れない。 「仁科先生、それを伝えるだけの為にここへ?」 「違うわよ天ヶ崎。職員室で野乃原先生からB組は劇をやるから、今練習している所だって聞いたの。  じゃあちょっと見に行ってこようかな、って言ってたら、深野先生に言伝を頼まれたってわけ」 「恭子先生、それって……」 「さあ、久住の名演技、見せてもらおうかしら」  ……やっぱり。  この人、俺達を動物園のパンダか何かと間違えてるんじゃないだろうか。 「見て驚かないで下さいよ」 「へぇ、結構な自信じゃない」 「保奈美の演技に」 「……ま、最初から久住には期待してないからね」  教室の後ろに追いやられた机にもたれ、観客体勢を整えた恭子先生。  その恭子先生がタナベエ並みのスパルタ監督となるまで、そう時間はかからなかった。 #interlude<2>  生徒指導室。  恐らくは、蓮美台学園の全生徒が訪問を遠慮したい場所だろう。  数学担当、そして生徒指導顧問である深野順一の根城には、今、二人の男が対峙していた。 「ここに呼ばれた理由が分かるか、田辺」  窓際に立っている深野は、朱色に染まる薄雲を背に、深く静かに言う。  対する田辺は、空調を効かしていない部屋の暑さにうんざりしながら、彼に答える。 「いえ、心当たりがあり過ぎて、どの事なのか分かりません」  受け流すかのような、軽い返事。  深野の表情が硬くなり、室内に緊張の糸が張り巡らされる。  だが、田辺がそれに動じた様子はない。 「中々興味深い発言だな。それは追々言及するとして……」  深野は机の上に置いてあった冊子――B組の劇の台本を手に取り、田辺に突きつける。  それにすら、田辺は表情ひとつ変えない。 「問題はこれだ。どういう事か分かるな?」 「内容に何かご不満でもありましたでしょうか」 「まだ白を切るつもりか。どうして接吻をするシーンがある?」  更に険しくなる深野の表情。  やはりたじろぐ様子を見せない田辺には、こうなる事が分かっていたのだろう。  分かっていて、その台本を書いた。  分かっていたから、今こうして楯突いている。 「それは作品に必要と感じたからです。特に問題は無いかと思いますが」 「大ありだ。田辺、このシーンを演じる両役は、この事を了解したのか?」 「ええ、それは勿論」 「それは、クラスの為にだとか、私情を押し殺したすえの答えじゃないと言えるのか?」 「いいえ、言えません。きっと公的にそう答えたのでしょう」 「ならやはり問題があるだろう。この台本は、両役の気持ちに沿ったものではない」 「……戯けた事を」 「なんだと――?」  深野は強く拳を握り締め……すぐにそれを解く。  田辺の発言がただの無礼にあたるのなら、深野は躊躇なく彼を打擲しただろう。  それは犬の躾けのような、『ぶたれるのは嫌だから、もうしない』という単純な道理を追ったものだ。  だが今の田辺は違った。  彼は自分の発言を正しいと信じ込んでいるし、ゲンコツ如きで意志を曲げないだろう。  仮に深野がぶつ事で強引に解決に向かわせたとしたら、それは教育ではなく服従。  そのような事は、誰より深野自身が許さなかった。 「……どういう事か、説明してもらおうか」 「深野先生は教師として、私を捨て、公として俺達に接しています。  先生方は、『学生は学生らしく』とよく言いますね?  ならば俺達は学生らしく、蓮美祭に向けて精一杯頑張ります。  先生達のように私を捨て、公として劇に望むのです」 「田辺。『学生は学生らしく』というのは立ち振る舞いについての事だ。  公として振舞う事を推進させる意味合いはあるが、私を捨てろと言っているんじゃない」 「……都合のいい解釈ですね」 「学園の方針を忘れたか? あくまで自由を尊重し、自主性を伸ばす。  それに精神的な干渉があってはならないだろう」  田辺の鋭鋒に、堡塁を築く深野。  常々の立場からは、想像も出来ない構図。 「自由を尊重するなら、あの台本にいさくさを付けるのは道理ではないと思いますが」 「学園祭が終わった後の事を考えろ。二人をやっかむ人間もいるかも知れないだろう」 「注釈は加えます。生徒同士なら、事情の疎通は容易です」  深野の守りが石塁ならば、田辺は鉄の意志で以って打ち崩しにかかる。  彼にとってお祭り事というのは、それ程までに重要な事なのだ。 「それは確約された条件じゃない。許可はできないぞ」 「いいえ、確約してみせます。許可できないというなら、許可が下りるまでここを動きません」  言葉の剣戟はやみ、二人は石打ちのように視線で戦う。  先の口論が動の合戦だとしたら、これは静の合戦だ。 「…………」  凪ぐ事のない雰囲気。  この沈黙が深野に教え与えたのは一つ。  田辺は本気で、警備員に叩きだされるまでこの場を動かないだろうという事だった。 「…………」  田辺は堅く拳を握って眼前の男を視線で刺し、対する深野は腕を組んでそれを弾く。  空調を効かしていない部屋はやはり暑く、二人の頬に汗が伝った。  ……それからどれ程の時間が経っただろう。  両者は一度たりとも視線を逸らさず、一歩たりとも動いていない。  既に二人の背中には、じっとりとシャツが吸い付いている。  永遠に続くかと思われる視線の応酬。  その戦いは、彼の言葉で終焉を迎えた。 「分かりました。妥協案を出します」  地に膝をつけたのは、田辺の方だった。  あの沈黙が田辺に教え与えたのは一つ。  深野はきっとあの場から一歩も動かず、意見を変える事はないだろうという事だった。  そうなってしまっては、劇をする事すら不可能になる。  それだけは、避けなければならなかったのだ。 「キスシーンの代わりに抱擁、ではどうでしょう」 「誤解を招くという観点では打開策になってない。台本をみる限りでは未来へ希望を託し、  共に歩んでいく事を決意するシーンだろう? なら肩を組むぐらいで十分だ」 「……分かりました」 「よし、話はまとまったな。もう行っていいぞ」 「はい……失礼します」  “ばたんっ”  田辺は苦い表情で唇を噛みながら、生徒指導室を後にする。  斯くしてラストシーンの顛末は、“一時の”沈着へと向かったのだった。           #          #          #  蓮美祭まで、残り一週間を切った月曜日。  あい変わらず放課後居残って劇の練習をする毎日。  学園祭ムードが高まってきたせいか、今まで残っていなかったヤツもいたりして、教室は活気付いていた。 「見てくださいケリフさんっ。やっと一人でポテトパイを作れるようになったんですっ!」 「おお、中々の出来栄えじゃないか。シアネも腕を上げたな」 「えへへ、はいっ」  カラリと晴れ渡った秋空を思わせる、シアネリアこと美琴の笑顔。  俺も美琴も、この一週間で大分成長したと思う。  美琴はみんなの前で演技していても緊張する様子はないし、俺も大根役者と罵詈を飛ばされる事もなくなった。 「なあフィアちゃん、次の休みに泉に遊びにいかないか? 俺、ボート漕ぐのが得意で……」 「あの……えっとぉ」 「はいはいお客さん、ウチはナンパ禁止ですよ」  フィアルに扮する保奈美に、助け舟を出すケリフ……つまり俺。  保奈美の演技にはやはり非の打ちどころがなく、恐ろしい事に台本を丸暗記したらしい。  そのせいで、自分が出てないシーンでもズバズバ間違いを指摘する程だ。  順風満帆に見える練習風景。  ただ一つ、問題があるとすれば……。 「ま、マスター。ぷぷ、プリンを一人」 「野乃原先生、ちったぁ落ち着いて下さいよ……」  我が2年B組の担任・野乃原結先生はトンデモナイ演技力の持ち主だった。  がっくりとタナベエは肩を落とし、教室が脱力感に見舞われる。 「あのですね、野乃原先生。いくらちょい役と言っても、大事な役なんですよ。  蓮美祭で演劇をするクラスは、担任も出演するという伝統がある。注目度はムチャ高いんですから」 「うう、それは知っていますけど……」  タナベエのいう通り、蓮美祭の伝統として『演劇をするクラスは担任も出演』という暗黙の了解があった。  勿論そのシーンは毎年注目を集め、更に結先生に限っては新任教師ナンバー1の人気だ。  その注目度は計り知れないのだが……中々どうして上手くいかない。 「いいですか? 野乃原先生が演じるのはピスエ、転がる馬鈴薯亭の常連です。  彼女は俺の設定では142センチなのですが……微妙に足りてなさそうなのはこの際不問とします」 「田辺くん……?」 「それで、彼女のペットのビアなんですが、好物はビールという設定です。  何の動物かというと猫なんですが、いないのでウチの寮のロータスでも頭に乗っけて置けば良いかと」 「……あのですね、田辺くん」 「まず結先生に理解して頂きたいのは役割の重要さです。ロリですよ、ロリ。イッツ、ロリータ。  和訳すると『それはロリです』。つまり結先生は、全国に3000万人は居ると言われるちんまい女の子好きの期待に応えるべく――」 「田辺くんっ!?」 「……あれ、何で怒ってるんでしょう? おいみんな、何か野乃原先生に失礼な事したんじゃないだろうな?」  お前だ、お前。と誰もが目で物を言う。  結先生は頬をリスみたいに膨らませて……あれは相当怒ってるな。 「……あいつは放っておいて、練習するか」  結先生に「人の身体的特徴を〜!」と怒られるタナベエを尻目に、保奈美と美琴に声をかける。 「あ、うん、じゃあわたしは見てるから、保奈美が……」 「ううん、美琴の方がなおくんとのかけ合いが多いでしょ? もっと練習した方がいいよ」 「でも、前も保奈美そう言ってわたしに譲ったじゃない。保奈美だって練習しないと」 「……おーい、いいんちょ――」  “がしぃっ!”  二人の手が俺の肩にかかる。  ……何なんだ、この物々しい雰囲気は? 「3人のシーンの練習しよっか、保奈美」 「そうだね、美琴」 「強引だね、キミら」  笑顔で俺を縛りつける二人。  その日も帰ったのは、日が山の稜線に消えた後だった。           #          #          #  “ぱちっ”  リビングに入る間際、照明のスイッチを押す。 「あー、疲れた……」  鞄を投げ出し、ボスンとソファに身を投げる。  若干のラグを経て、照明がリビングを煌々と照らした。  重い身体を引きずって帰りついたのは、誰も居ない家。  一人暮らしは精神的にキツイ、と言う人の気持ちが、少しだけ分かった気がする。 「しっかし、中々覚えられないもんだなぁ……」  がさごそと鞄を開き、今一番見たくない物を取り出す。  実はと言うと、残すところ一週間を切ったというのに、俺はまだ半分ぐらいしか台本を覚えてなかった。  だから、嫌でもこうして台本を読んで――  “ぐうぅ……”  そこで、不意に腹の虫が騒ぎ出した。  そう言えば、今日はいつもより腹が減っている。 「……茉理はまだか」  今日の食事当番である茉理は、まだ帰っていないらしい。  どうしてこんな日に限ってと思うが、思ったところで腹の虫が黙るわけがない。 「しゃーない、自分で作ろう……」  暴力的な食欲に駆り立てられ、俺はキッチンに向かう。  冷凍庫から美味そうなおかずを二三見繕い、主食はレトルトで。  そうして準備を進めていると、玄関の方から「ただいまー」という声が聞こえた。  “がちゃっ” 「ごめーんっ、ちひろを手伝ってたら……って直樹、自分で作ってるの?」 「腹が減って倒れそうだ」 「じゃあ代わるよ」 「いい、もうすぐ出来るから」 「そう、何か手伝う事は?」 「ない。いいから座って待ってろ」 「……ごめん、今度代わるからね」  帰ってきた茉理と、背中で会話する。  早く飯が食いたいせいか、ちょっと冷たい言い方になってしまったけど……茉理は了解してくれたらしい。  本をめくる様な乾いた音が聞こえるという事は、漫画でも読んでくつろいでいるのか。  変わり身の早さに苦笑しつつ、俺は晩飯の準備を進めた。           ―          ―          ―  パックのご飯を温め、それにレトルトのカレーをかける。  それに冷凍食品のハンバーグを載せたりして、豪華チック質素カレーが完成した。 「おーい、出来たぞ……って茉理、何読んでるんだよ」 「え? ……これ直樹がやる劇の台本でしょ?」 「そうだけど……勝手に読むでねぇ」  ぱしっ、と茉理から台本を取り上げる。  良い子はこんな本を読んじゃいけません。 「あっ、もう。もうちょっと読みたかったのに」 「当日の劇を楽しみにしてるんだな」 「んー、行けたら行くね」  言いながら茉理は食卓につく。  二人で小さく「いただきます」と言って、食事開始。 「で、直樹は誰の役なの?」 「…………主人公のケリフ」 「うそっ!?」 「テーブルを揺らすな茉理。ルーがこぼれるだろ」 「……もうちょっと量を考えて作りなさいよね」  バカみたいに山盛りになったカレーにスプーンを挿しつつ、茉理は文句を言う。 「ねえねえ、最後はキスシーンで終わってたけど……相手は誰?」 「保奈美。でもキスシーンはフカセンが許可しなかったから無しになった」 「ふーん……」  そう言うと茉理は複雑な表情を浮かべる。  咀嚼しながら難しい顔しても、あんまり真面目な事を考えているようには見えないぞ、茉理。  “かちゃ、かちゃ”  スプーンと皿が衝突する音が食卓に響く。  およそ20分といういつもより長い時間をかけて、食事が終わった。  腹が減ってるからって、やっぱり多く作り過ぎたか。 「ごちそうさま。片付けはあたしがやっておくね」 「ん、頼んだ」  俺は腹を撫でながら、どっかとソファに座る。  そして俺はソファの机に置いておいた台本を手にとり、ページをめくっていく。  今はとにかく台本を覚えない事には始まらない。  “じゃばじゃば”  茉理が食器を洗う音をBGMに、ひたすら台本を読む。  ……が、飯をくった直後のせいか、眠気でいまいち集中力がない。 「はぁ……」  俺はすっと目を閉じ、身体をリラックスさせる。  こんな時はどう足掻いても、集中できないのは分かっていた。  頭を真っ白にしようとして――浮かんできたのは今日の出来事。  俺との練習の時間を割いて、美琴と練習させようとする保奈美。  それを遠慮して、保奈美が俺と練習するように言う美琴。  放課後の練習の時には、必ず見かけるようになった光景だ。 「……おき」  美琴と俺は、保奈美に比べれば練習不足になるだろう。  それは美琴も分かっているはずだし、いつもの美琴なら何の疑問もなしに俺と練習したはずだ。  それなのに練習を遠慮しようとする美琴は変だし、ちょっと強引なぐらいに練習を勧める保奈美も変だ。  最近の二人は、一体どうしたっていうのか―― 「……き、直樹ってば!」 「ぬおおぅっっ」  気付けば、茉理が俺の顔を覗きこんでいる。  目を開けたら茉理の顔がドアップで見えたもんだから、跳ね上がりそうな程驚いてしまった。 「もう、さっきからずっと話しかけてたのに、ちっとも気付かないんだから」 「ああ……悪い悪い」 「ほら、さっさとお風呂入ってきてよね」 「えっ? もうそんな時間?」  辺りを見回してみれば、とっくに食器は片付いている。  時計の長針は、いつの間にか半周していた。 「はいはい、ぼけっとしてないで、ちゃっちゃといきましょー」 「……へーい」  もしかしたら、知らないうちに居眠りしていたのかも知れない。  俺は頭をかきながら、手拍子する茉理に追いやられ、風呂に向かった。 #interlude<3>  蓮美祭まで後二日という日の事。  天ヶ崎美琴は、蓮華寮の自室にて裁縫作業をこなしていた。 「うーん、ドレスって難しい……」  B組の劇はファンタジー物。  普段着なら、出来合いの服の組み合わせ次第でそれっぽくなるだろうが、ドレスは違う。  そんな物を買ってしまえば予算オーバーは目に見えている。  ならレンタルすれば、という案が出たが、美琴はそれを断った。  何故なら、彼女の趣味は他でもない裁縫。  自身の晴れ舞台は、自身の服で立ちたかったのだ。 「天ヶ崎先輩。こんな感じでどうでしょう?」  そして美琴の部屋には、橘ちひろの姿もあった。  ドレスを自前で作り、更には演劇の練習もある美琴。  当日までに作業が間に合わないと感じた美琴が、助っ人を呼ぼうと扉を開けた所で出くわしたのがちひろだった。 「どれどれ……うわぁ、いい感じっ」  手伝いを快諾したちひろに頼んだのは、造花をあしらったティアラの作成。  宝石の代わりに、花を散りばめようという魂胆だ。 「ふぅ、そろそろ休憩にしよっか。橘さんも疲れたでしょ?」 「はい。……あ、最近おいしいハーブティーが手に入ったんですけど、先輩もどうですか?」 「うーん、いいねぇ。ごちそうされちゃっていいのかな?」 「勿論です、じゃあちょっと取ってきますね」  “ばたんっ”  そう言ってちひろは出来かけのティアラを机に置くと、部屋を出て行く。  残された美琴がする事は一つ。演劇の台本を読む事だった。  休憩させるのは作業の手だけ。余った時間は、台詞の暗記の為に用いる。  美琴にとっては初めての学園祭で、弥が上にも気合と期待は十二分。  更には彼女の役は準主役級で、台詞も中々に多い。  元々暗記という勉強じみた事が不得手な美琴は、何度台本を読み直しても過剰になる事はなかった。  それに、“演技でまで保奈美に負けるわけにはいかない”と、美琴はそう思っていた。 「なんでこんな話になるかなー……」  台本を見つめる美琴には、不満の表情。  美琴も、この話と自分達の状況の共通性には気付いていた。  劇中では成す術もなく、『美琴』は『保奈美』に敗れる。  姫という役には嬉し恥かし大喜びの美琴だが、この役回りには今ひとつ納得していなかった。 (わたし、どうしたらいいんだろう……?)  心中で呟く美琴の脳裏に蘇るのは、キスをしてもいいと言った保奈美。  キスをしてもいいだなんて、半分好きだって言っているようなものだ。  保奈美は自ら一歩踏み出したのかもしれない……と美琴は考えたが、なら立場が逆だったらどうだったのか?  美琴もまた、キスしてもいいと答えるのではないだろうか?  それを考えれば考える程、思考の足は底無し沼へと沈んでいく。 「中途半端だよね……」  少しだけ我意を出して、直樹に練習しようといったり、それを遠慮したり。  本当は直樹を保奈美の方に向かせたくないくせに、保奈美を優先しろと言ったり。  美琴の心は、友情と愛情の間隙で揺れていた。  “ぴんぽーん”  ふとそこで、呼び鈴がなる。  ちひろが帰ってきたのだと思った美琴は、わざわざ鳴らさなくてもいいのに、と思いながら扉へと向かう。  しかし、その扉の向こうには意外な人物が立っていた。 「よぅ天ヶ崎。悪いな、忙しいところ」 「あれ、タナベエ君?」  そこに居たのは、田辺だった。  田辺は寮生であったが、美琴の部屋を訪れるのは初めてだ。  その突然の来訪に、美琴は心中で首を傾げる。  そして何より美琴が疑問に思ったのが、今し方まで文句を連ねていた台本らしき物を、田辺が持っている事だった。 「ねえ、それ……」 「ああ。台本に変更が出たもんでな、届けにきた」  ずい、と出された台本を受け取った美琴は、パラパラと台本をめくる。  そして終盤に差し掛かった辺りで、美琴の表情が固まった。 「……これって」 「藤枝には同じ台本を渡してあるし、内容も了解を得た。台本にかかれてない部分は、久住次第だな」 「久住くんは、この台本の事知ってるの?」 「いや、知らせていない。知らせていない方がいいだろ、多分」 「確かにそうかもしれないけど……これ、大丈夫なの?」 「心配はいらない。ステージ上の出来事については、全部俺が責任を持つ。だから、天ヶ崎」  そこで一度言葉を区切る田辺。  その顔には底なしの期待と、意地の悪い笑みがあった。 「ステージの上じゃ好きにしてもらって構わない。最高のショウを期待してるぜ」  じゃあな、とその場を去る田辺を、美琴は強い視線で見送る。  そして田辺と入れ替わるようにして、水筒を持ったちひろが部屋に戻ってきた。 「さっきの田辺先輩でしたよね。……天ヶ崎先輩?」  ちひろが話しかけても、美琴は行く場のなくなった視線を逸らそうとしない。 「あの、天ヶ崎先輩。ハーブティーを持ってきたんですけど……」 「…………」  美琴は微動だにせず、ちひろに気付く様子もない。  佇立する美琴に困ったちひろは、端から最終手段を取る。 「……杏仁豆腐」 「へっ? 杏仁豆腐? どこに……あ、橘さん」 「よかった。やっと気付きましたね。ハーブティーを持ってきました」 「あ、うんうん。そうだったね。早く飲もう」 「くすくす……はい」  浅く笑うちひろを不思議に思いながら、美琴は布が散らかる部屋の中へと戻っていった。           #          #          #  机が駆逐されて開放的な教室を抜け、廊下を埋めようとする看板とすれ違い、辿り着いた場所。  その場所はほとんど人が居ないためか、いつもより広くて、いつもより少し寂しい。 「いよいよ明後日なんだね」 「保奈美、緊張する?」 「今は緊張してないけど、本番になったらしちゃうんじゃないかな」  蓮美祭の前日準備の日。  みんなの協力を得て、午前中に天文部の準備を終わらせた俺達は、下見がてらに体育館を訪れていた。 「ま、どんな感じか登ってみようぜ」  そう言って俺が先にステージに上がると、美琴と保奈美はスカートの中が見えないように気を付けながらステージに上がってくる。  壇上から見下ろす体育館はやはり広くて、無意味に両手を広げたくなった。 「うわぁ、これだけ広いと、やっぱり緊張するなぁ」 「広いと緊張するのか、お前は」  妙な事を言う美琴に、俺は苦笑する。  だけどまあ、無理もない。  蓮美祭は明日から二日間開催されるわけだけど、俺達の劇があるのは一番人が集まる日曜日。  それも食べ物系のラッシュが終わる2時からの開演だから、きっと予想以上の人が来るんだろう。  そんな大勢の人の前でちゃんと演技できるのか不安になるけど……不安以上に、ちゃんと練習したんだという自信の方が大きかった。 「ここで……答えが出ちゃうのかなぁ」 「……なおくん次第、だよね」 「あはは。わたし、劇よりこっちの方がどきどきかも」 「それは私も一緒だよ、美琴」 「何の話だよ? 俺次第って」  全く内容の掴めない二人の会話に、俺は疑問を投げる。  何なんだ、答えとか、劇よりこっちの方がとか? 「それは、いずれ分かるから。ね、美琴?」 「そうだね、保奈美?」  そうやって「ねー?」と言って笑い合う二人。  それは俺に向けられた悪戯っぽい笑いではなくて、お互いに向けた笑顔で。  本当に久しぶりに見たその光景に、俺は思わず目を細めた。 「……よっと」  俺は不貞腐れるわけでもなく、ステージを降りる。  それに続こうとする二人の足音が聞こえて……ふいに途絶えた。 「わたし達、劇が終わっても友達で居られるのかな?」 「当たり前じゃない……」  とん、と二人がステージを降りる音。  そんな会話を、肩越しに聞いていた。 #stage time<1> 「緊張するね〜」 「ねぇねぇ、さっきの所もう一回練習しようよ」 「おーい、木の背景どこやったー?」 「なぁ、この服おかしくないか? どこもおかしい所なんてないよな?」  学園祭二日目。ついにやって来た本番当日に、教室は薄霧のような期待に満たされている。  半ば足を空に動き回るクラスメート達の声を背中に聞きながら、直樹は碧空の下、体育館に吸い込まれていく人の多さに驚いていた。 「あんなに来るのかよ……」  開演30分前だというのに、体育館に向かう足は絶える事がない。  どうしてそのような事がなったかと言うと、それは宣伝効果だろう。  保奈美と美琴が衣装に身を包んで微笑んでいるポスターは盗難が相次いだ程だし、昨日は直々にその二人が劇の衣装をきたまま宣伝に回った。  お陰で天文部の受付は野郎二人で回していて直樹はどこにも行けなかったし、料理部も保奈美が抜けた時間だけ目に見えて客足が減った。  それらは全て田辺が仕組んだ事だったが、その犠牲は今、報われようとしている。 「凄い人だね」 「え? あ、ああ……」  ふと直樹の横に並んだ保奈美は、既に衣装に着替えている。  自分だって着替えているくせに、直樹はその出で立ちに少しだけ時間を忘れた。  それほど保奈美に修道服はよく似合い、練習の時に見ているはずであってもなお新鮮だった。 「どうしたの? なおくん」 「あ、いや……似合ってるなと思って」 「ふふっ、じゃあ美琴は?」  そう言うと保奈美は身体をスライドさせ、直樹の死角でそわそわしていた美琴を露にする。  突然視線を向けられた美琴は、ビクッと構えてしまう。 「何驚いてるんだよ美琴。崩れたファイティングポーズみたいなカッコして」 「えっ? あ、えーっと……あはははは」 「なおくん、そうじゃないでしょ?」 「あー、そうだなぁ……」  直樹はマジマジと美琴の装いを見る。  白と青を基調としたドレスに身を包む美琴。  昨日完成したばかりという美琴お手製のドレスは、風合こそ安っぽいものの、華奢かつ清楚。  見た目には他のドレスと比べて遜色なく、それは一週間美琴が目に隈を作った賜物だった。 「……うん、似合ってる」 「本当に!? やったっ」  直樹の言葉に、美琴は今にも飛びつきそうな人懐っこい笑顔を見せる。  はしゃぐ美琴を見ながら、直樹は「もう少しおしとやかだったら、もっと似合うのに」と呟いたが、それは次の言葉で退けられた。 「はいみんなー、ちゅうもーく!」  教室の喧騒を裂かんばかりに発せられた声は、文緒のものだ。  一気に教室が沈着すると、酒場のウェイトレス服を身に着けた文緒は言葉を続ける。 「今日は待ちに待った本番当日。ここからの指揮は監督の田辺君がとります。では、どうぞ」 「みんなーっ、体育館に行きたいかーっ!?」  文緒から指揮権を引き継いだ田辺の声に、「おーっ!」とクラスメート達が反応する。  劇をやる事が決定した時のような、やる気に気だるさの雑じった声ではなく、純粋に気合が入った声。  準備は万端。後は精一杯やるだけなのだ。 「いよーしっ! 既に体育館には200人程の観客が集まっている! 最高のステージを見せてやろうぜ!」  再び「おー!」と沸く教室。  最早教室を満たす活力は、爆発せんばかりだった。           ―          ―          ― 《お待たせ致しました。これより2年B組の演劇、『プリンですイエスタデー』を上演致します》  天文部の唐突な活動報告が終わり、監督とナレーションを兼任する田辺の声が体育館に響き渡ると、会場は惜しみない拍手に満たされる。  彼はその音を、体育館専用の放送室で聞いていた。  今田辺が居るのは、司会・進行役だけが入る事を許された部屋。  そこにはステージの様子や、体育館全体の様子。果ては裏方の動向まで観察できるモニターがある。  体育館中にあるカメラを簡単な操作で切り替える事の出来るその部屋は、言わば最高の観客席だった。  田辺は豪奢な肘掛付きの椅子に背中を預け、その手には赤い液体――いちごジュースだ――が入ったグラスを持っている。  およそ劇を主催する者の態度ではないが、これが彼なりのスタイルなのだろう。  彼は格好はそのままに、ナレーションを続ける。 《主人公、ケリフは旅する吟遊詩人。3年ぶりに帰ってきた故郷の市場で、ケリフはとある少女と出会います》 「あのぉ、これ、おいくらですか?」 「おっ、お嬢ちゃんお目が高いね、こいつは……」  “がっしゃーん” 「きゃああっ!?」 「うわぁっ、何だお前らはっ!」  露天商の屋台を蹴り崩して押し寄せる騎士達。 「こっちへ! 早く!」  逃げる少女を助け、家へと帰るケリフ。 「わたし、社会勉強がしたくて家を飛び出して……」 「そう、ならウチで住み込みで働けばいいわ」  ケリフが連れ帰った少女を抱え込む転がる馬鈴薯亭。  そこに駆けつけた女剣士・ノアルによってシアネリアはその国の王女だと知り、驚きを隠せない一同。  ――物語は矢の如く進んでいく。  田辺はナレーションを勤めながらも、終始笑いを絶やさずにそれを見ていた。  そこが最高の観客席なら、田辺はこの劇を最も楽しみにしている者だ。 《こうして転がる馬鈴薯亭は、一国の王女をウェイトレスとして迎えます》 「よろしくお願いします、フィアルさんっ」 「うん、頑張ろうね、シアネ」  田辺というクラスメートから見た直樹、美琴、保奈美の関係というのは、絶好のエンターテイメントだった。  付かず離れず、仲の良い3人。男は一人だけだというのに、そいつはどちらともくっ付こうとしない。  さながらそれはラブコメのようで、周囲にじれったさを呼ぶ事になる。  そのラブコメを終わらせる為に書いたのが、この脚本だった。 《馬鈴薯亭で働き始めたシアネリアは活き活きとして、確かにケリフの気を引いていくのです》 「ねえお兄ちゃん、屋根の修理が……」 「ケリフさん、買出しに行こうと思うんですけど、一緒に来てもらえませんか?」 「ああ、行こうか」 《シアネリアばかりに気を利かせるケリフに、フィアルは不満を隠しきれません。  なんだって彼女は、兄であるケリフに好意を寄せていたのですから》  直樹達3人と劇中の3人には、明らかな類似性を持たせていた。  誰の目から見たって、明らかに直樹に好意を寄せている保奈美。  そこに転校生として表れた美琴は、確かに直樹と過ごす時間を増やしていった。 《ある日フィアルはベッドの下から古びた日記を見つけます。そこには、驚くべき内容が書かれていたのです》 「そんな……私とお兄ちゃんが、本当の兄妹じゃないなんて」 《しかし時を同じくして、ケリフは王家の縁の者だと判明します》 「まさか、ケリフさんが私の親戚にあたる人だったなんて……」  本人達の意志とは関係なく決まってしまう婚姻。  それに耐え切れなくなったフィアルの告白。  ケリフはその想いに応え、出奔を決意する――  美琴もまた、直樹に好意を寄せているのは鋭い人間なら分かり得た事。  ならこの劇中の展開は、美琴にとっては辛いものだろう。  だからこそ“台本を変更した”のだった。 《フィアルとケリフは結婚式の前日、国を抜け出します》 「お兄ちゃん……これで良かったのかな……」 「ああ、後悔はしていない。全てゼロからやればいい」 「お兄ちゃん……」  肩を寄せ合う二人。  ケリフはフィアルの肩を抱き、そこで物語は―― 「待って下さいっ!!」  ――終わるはずだった。 「さあ久住、最高の舞台を用意したぜ。後はお前次第だ」 #stage time<2>  俺の記憶のある限りの人生において、これだけ一つの物事に打ち込んだ事はなかったと思う。  毎日放課後残って練習して、家に帰ったら次のシーンを覚えて、また練習して。  頑張った分だけ上手くなっていくのは楽しかったし、みんなの反応が良くなっていくのは嬉しかった。  部活の方もある保奈美や委員長も積極的に練習に参加して、クラスは一致団結していて……純粋に楽しかった。 「マスター、プリンを一つ」  最初はガチガチだった結先生も努力の甲斐あってか、十分な演技を見せてくれて。 「見てくださいケリフさんっ。やっと一人でポテトパ……きゃああっ」 「っと! は、ははは、そそっかしいな、シアネは」  舞台の上でこけそうになった美琴をフォローしてやって。 「私……ずっとお兄ちゃんの事が好きだったの。本当の兄妹じゃないって知る前から、ずっと、ずっと!」  俺に向かって好きだという保奈美の演技に、俺はいつもドキドキして。  そんな沢山の思い出も、そろそろ一区切りをつけようとしていた。  星空の背景を背中に、今、俺と保奈美はステージに立っている。 「お兄ちゃん……これで良かったのかな……」 「ああ、後悔はしていない。全てゼロからやればいい」 「お兄ちゃん……」  本当は、ここでキスするはずだったシーン。  だけどそれが許されるはずもなく、俺は保奈美の肩に腕を回す。  これで、俺達の劇は。 「待って下さいっ!!」  終わるはずだったのに。 「どうして私を置いて行くのです? 私と結婚するのが嫌なのですか?」 「なっ……! し、シアネ?」  咄嗟に言う俺の目の前には、ドレスに身を包んだ美琴。  本当にここまで追ってきたかのような、緊迫した雰囲気を持っている。 《そこに現れたのはケリフの妻となるはずだったシアネリア。彼女は二人の異変にいち早く気付き、二人を追ってきたのでした》  タナベエの声が、ずんと体育館に響く。  どういう事だ……? 俺はこんな話、聞いてない。 「シアネ、やっぱり来てしまったのね」  だが保奈美は、それが台本通りであるかのように劇を続ける。  その間にも、美琴は一歩俺に詰め寄ってくる。 「国に戻って下さい、ケリフさん。今なら間に合います」 「お兄ちゃん……」  二人に挟まれ、俺は後ずさりするのみ。  何だ、どういうつもりだ……? 「私は貴方が好きなんです。大好きなんですっ!」  真直ぐ俺を見ていう美琴の言葉。  それはとても演技には見えない、強い想いがこもった言葉。 「私を……選んでくれるよね?」  どこまでも俺に踏み込んでくるような、保奈美の視線。  台詞から溢れ出す、とめどない想い。  それもまた、ただの演技じゃないなんて、鈍感と言われる俺にも良く分かった。  俺は体育館中から向けられる幾百の目の事など忘れて、昨日の事を思いだす。 『ここで……答えが出ちゃうのかなぁ』 『……なおくん次第、だよね』  答え……それが、今この二人が求める物なんだろうか。  “ざわざわ……”  観衆の目がギラギラと好奇の色を灯す。  いつだったか、男友達に訊かれた事があった。  お前、藤枝と天ヶ崎のどっちが好きなの? と、真面目な顔をして訊かれた。  あの時ははぐらかした答えを、今ここで言えというのか? 《二人はケリフに詰め寄ります。果たして彼は、どちらを選ぶのでしょう?》  どちらを選ぶ?  選択肢は二つしかないのか?  いや、俺が次に取れる行動は無限大にある。  最良の選択肢は―― 「……すまない、シアネ」  ――ただ正直な、答えだけ。 「そん……な……」  血の気が引き、絶望の色に染まる美琴。  違う、そうじゃない。 「俺はシアネとの婚姻の約束を破り、ここまで来た。二度も約束を破るわけにはいかない」 「それは……そうだけど」 「俺はフィアの想いを聞き、旅立ちを決意した。だけど、今お前の言葉を聞き、俺は確かに揺れている。  俺の気持ちがシアネに向かっていたのは、紛れもない事実だ」 「お兄……ちゃん?」  保奈美は不安そうに俺を見る。  いつしか体育館のざわめきは止み、ただ俺の声だけが響く。 「だが俺は行く。俺達はゼロになり、また旅路を行く。  シアネ……それでも俺を求めるというなら、共に来い。  国も名誉も捨て、ゼロになって俺にぶつかって来ればいい」  時間さえも止まったかのような錯覚。  わんわんと響き残る声に、美琴の声が重なる―― 「……わたしも行きます。わたしも付いて行きます!」 「……フィアも、それで構わないか?」 「うん……でも」  俺が問いかけると、肯定の後に言葉を区切る保奈美。  言葉は俺に向かってではなく、美琴に向かって紡がれる。 「お兄ちゃんを、譲る気はないからね」 「わ、わたしだってっ」  宣戦布告をし合う二人。  俺はそんな二人の肩に腕を回し、声高らかに言う。 「共に行こう。明日に向かって!」  ――幕が下りていく。  俺の腕の中にある、二つの温もり。  結局俺は、そのどちらかを手放す事が出来なかった。  それは傲慢な“答え”で……でも、正直な答えだった。  ――幕が下りていく。  そんな俺を二人はどう思ったんだろう。  最後の最後まで選べなかった、だらしない男と思うだろうか。  ――幕が下りていく。  会場を満たす拍手と俺達を分かつ幕が、もうすぐ俺達にかかろうかと言う、その刹那。  “ちゅっ”  一際歓声が大きくなると共に、頬に二つの唇があった。 #stage time<3> 「それがお前の答えか、久住」  幕の下降ボタンを押した田辺は、モニターを見ながらそう呟く。  遠くに聞こえる歓声と拍手。きっとその中には結末に不満を漏らす声もあるだろうし、やっかむ声もあっただろう。  だがそんな声は、田辺にとって何の意味も持たなかった。  観客である彼が持った感想は、ただ一つだけである。 「かーっ、テメエはどこのラブコメの主人公だっての。このヘタレが!」  田辺は手に持ったグラスの中身を一気に空けると、ドンと机に置いた。  モニターの中では、直樹は男子生徒に取り囲まれ、頬に触れようとする手と格闘している。  保奈美と美琴はきゃあきゃあと騒ぐ女子生徒達に囲まれ、どことなく楽しそうだ。  いつもの田辺なら、真っ先に飛び込んでいくであろう光景。  それを視認していながらも、彼は椅子を立とうとはしない。 「ふぅ……」  彼は大きく息を吐くと、椅子に深く身を沈める。  この上ない達成感と、やっと終わったのだという安心感。  今はそれに身を任せて良い時なのだと、そう判断したのだ。 「…………ん?」  だが、そんな彼の安息を妨げようとする者が、モニターに見えてしまった。  “だっだっだっだっ!”  会場全体を映すモニターに、大股で走る深野の姿が映ったのだ。  無理も無い。田辺は深野に提示した妥協案を無視し、ステージの上では好きにしろと言ったのだから。 「やっばぁ」  深野は一直線に田辺のいる部屋に向かって走ってくる。  それはもう、逃げられる距離ではない。  出演者にはギャラを――さんざ人を翻弄したツケが回ってきたのだ。 「まぁ……いいか」  田辺は覚悟を決め、逃げる事を諦める。  なぜなら。 「中々、楽しめたステージだったからな」  彼はモニターの中で胴上げされる直樹に向かって、そう呟いた。  “がちゃっ!” 「田辺! これはどういう事だ!」 「台本変更した事、申請するの忘れてましたぁっ!!」 「バカモン!」 #epilogue  グラウンドの中心で、天聳る炎。  蓮美祭を締めくくるファイアストームは、夜闇の中で煌々と光を巻き散らしている。 「終わっちゃったね」 「うん……」  呟く美琴に、答える保奈美。  フォークダンスを踊る生徒達を遠巻きに見ながら、二人はグラウンドの回りの芝生に腰を下ろしていた。  陽気なBGMの中、炎の赤が二人の頬を撫でている。 「わたし達、これから……」 「言ったでしょ? 私と美琴は、何があっても友達だよ」 「……うん」  不安そうに呟くものの、美琴の顔には微笑みが浮かんでいる。  直樹がどちらかを選ぶような答えを出さなかった事。  それは二人にとっては、決して悪い事だけではなかった。 「だからね、美琴。これからは仲良く……」 「仲良く……取りあいっこ?」 「うん」  そう言って保奈美は笑う。  直樹がどちらかを選ぶような答えを出さなかった事。  それは二人が同じラインに並んでいるという事。  そして直樹は、自分を求めるなら付いて来いと言った。  ぶつかって来いと言ったのだ。  だから二人は、もう遠慮などしない。  遠慮なんていう余計な物がなくなった二人は、今やっと、本当の意味での“親友”になれたのかもしれない。 「ねえ、あそこにいるの、なおくんじゃないかな?」 「本当だ。行こうっ」 「うんっ」  グラウンドで佇む直樹に向かって、二人は走り出す。  そこにはもう、抜け駆けなんて言葉は無い。 「直樹っ、一緒に踊ろうっ」 「うわっ、何だよ美琴。急に呼び捨てにして」 「なおくん、私とも踊ってくれるよね?」 「ぬおぉっ、保奈美、引っ張るなって!」  3人は腕で輪を作りながら、どんどんとファイアストームに近づいていく。  クルクルと回る3人はやがて、フォークダンスの中心へ。  繋いだ手は強く、離れる事を知らぬかのよう――  恋に戦え、乙女達。  遠慮も裏切りもなく、純粋に取り合えばいい。  そこに悔しさに唇を噛む日があっても、泣き濡れる夜が待っていても。  今はただ幸せに向い、走り続けるだけ。                                  <<...FIN>>