Title:『月夜に誓う』   ...produced by 滝 「うわぁ、久しぶりだなぁ」  自分の家を見上げてそんな事を言う人間というのは、一体どういう状況にあったのか。  長い間出張に行っていたか、根無し草の生活を送っていたか、旅行でも行っていた……というのが相場だろう。  そのいずれにも当てはまらないのが、渋垣家を見上げて嘆息した茉理だった。 「やっぱり、外見は変わってないね」 「当たり前だろう」  春休みも始まったばかりの、良く晴れた日。  茉理は永い闘病生活を終え、やっと帰って来る事ができた。  やっと、元の生活に戻れる、最初の日。 「じゃあ、せーので、ただいまって言いながら入ろうね」 「今家には誰も居ない上に、一緒に言いながら入る意味が分からない」 「家に帰る時は、直樹と一緒にって決めてたの」 「ははぁ……」  “ひゅうぅぅ……”  一陣の風が、俺達の背中を押す。  早く入れとでもいいたげな、まだ少し冷たい風。  茉理を長いこと外にいさせるのは、身体に良くない。 「分かった分かった、一緒に言うよ」 「本当に? じゃあいくよ……せーのっ」  “がちゃ”  蒼茫と広がる空に、二人の声が響いた。           #          #          #  ……で、帰って来てからする事といったら。 「あ、お茶っ葉の缶の位置が前と違ってる」 「……茉理」 「あーっ、お醤油がいつもより高いやつに変わってるよ」  茉理は台所を中心に物色していた。  まるでカフェテリアで働いている場面を連想させるような、忙しい動きで。 「茉理」 「何? さっきから」 「少しは落ち着けって。病み上がりだって事、忘れてないか?」 「直樹、過保護ー」  茉理はそう言うけど、やっぱり病室を出たばかりなのだ。  身体の心配をするのは、家族として、恋人としても当然だろう。 「ちょっと家の中まわるぐらい……きゃっ」  言いながら俺の近くを通りがかった時、何でもない小さな段差でパランスを崩す。  “ぼすっ”  そしてそのまま、俺の胸板に飛び込んでくるような形で、茉理の動きが止まった。 「ほらな、本調子じゃないんだよ」 「い、今のはっ……」 「今のは、わざとだったとか?」 「……あぅ」  少しだけ赤くなった茉理を、軽く抱きしめる。  羽のように、優しく包み込むように。 「分かってくれよ。逆の立場だったらって考えたら、分かるだろ?」 「うん……ごめん」  少しだけ元気のなくなった茉理を、ぼすんとソファに座らせる。 「よしよし、何か飲むか?」 「えっと……じゃあコーヒー」 「おっけー」 「あ、それと部屋においてあるいつもの雑誌の3月号と、4月号も持ってきてくれると嬉しいなぁ」 「……はいはい」  甘やかした途端にこれである。  でもまあ、このぐらいのおねだりは可愛いものだ。  “かちゃ、かちゃ”  俺はいつもより軽くなった足取りで、コーヒーを淹れ始めた。  午後三時半を過ぎたかという頃。  俺のコーヒーは二杯目で、後一口で飲み干すといった所。  茉理はと言えば、俺が取ってきてやった雑誌を半分ぐらいまで読んだらしい。 「……〜♪」  ソファに転がり、鼻歌をくちずさみながら雑誌を読みすすめる茉理。  それはあんまりにもいつも通りで、何ヶ月というブランクを感じさせないほど、しっくりくる構図だった。 「ふぅ」  俺は特にやる事もなく、ただ何となくのんびりしている。  いや、のんびりするフリをして、茉理を見ていただけなのかも知れない。  ここに茉理がいてくれる事が、嬉しくて仕方がないのだ。  喩えるなら、幸せの湯船に幸福のお湯を張り、そこでたゆたっている感覚。 「ねえ、直樹?」 「ん?」  俺は最後の一口を口に含みながら、茉理に反応を返す。 「好き」 「ぶっ」  軽く、コーヒーを噴いてしまった。 「うわっ、もう、汚いなぁ」 「お、お前なぁ……」  ただこうしているだけで幸せだって思っていたのに、茉理は満杯の湯船にお湯を注ぐまねをしたのだ。  あやうく、幸せで溺死するところだった。 「そこは軽く『俺も好きだよ……』って返すところでしょ?」 「茉理は漫画の読みすぎ」 「えー、いいじゃない、言ってよ」 「はいはい、俺も好きだよ」 「全然気持ちがこもってないっ」 「お前が軽くって言ったんじゃないか」  なんだか良く分からない押し問答。  もうこれ以上は、本当に止めて欲しい。  頬を引き締めるのって、中々難しいのだから。 「もっとこう、軽いんだけど気持ちを込め……」 「うるさいなぁ、もうっ」  がばっと茉理をソファから起こし、まだ何か言いたげな唇を。 「あ……っ」  唇を、塞いだ。 「…………」 「い、いちいち言わなくたって分かるだろっ。……俺が、茉理の事好きだなんて」 「あ、えと……えへへ」  茉理は嬉しそうにはにかむ。  俺は……見つめ合っているのが何となく恥かしくなって、そっぽを向いた。  おかしい、前まで、こんな事なかったはずなのに。 「ねぇ、これ見てよ」  そんな俺の様子を知ってか知らずか、茉理は俺に雑誌の一ページを見せる。  ページの右端には、『恋愛格言!』と丸っこい字が印刷されていた。 「恋愛はね、勝負なんだって」 「……ふむ」 「惚れた方の負け、なんだって」  そこで茉理は上目遣いに俺を見る。  穢れを知らない真直ぐな瞳が、そこにある。 「あたし、負けたのかなぁ……?」  そんな事を言いながら、俺を覗き込んでくるのだ。  さっきから何なんだろう、このこっ恥かしい展開は。 「この勝負に……」 「え?」 「勝者なんか、いないさ」  そう言って、俺は少しだけ茉理を抱き寄せた。           #          #          #  日もとっぷりと暮れた頃。  俺は雑誌に夢中になっている茉理を背中に、台所で黙々と夕飯の準備をしていた。  何と言っても、今日は茉理の退院……もとい退室記念日だ。  こんな日こそ、茉理の一番好きな食べ物を食べさせてやるべきだって事は、気の利かない俺でも分かる。 「あれ、直樹が台所に立ってるなんて珍しい……あっ!」  二ヶ月分の雑誌を読み終えたらしい茉理は、台所を見て驚きの声を上げる。 「直樹、もしかして……」 「本日のディナーはお好み焼きでございます」  俺は茉理に背中を見せたまま言う。  茉理の喜んでいる顔が見れないのは残念だが、今の俺は一介のシェフなのだ。  料理に集中せねばなるまい。 「やったっ、直樹分かってるっ!」  ぎゅっ、と後ろから抱きついてくる茉理。 「のわぁっ、キャベツ切ってる時に抱きつくんじゃないっ!」 「あ、ごめんごめん」  危ない危ない。  もう少しで、バイオレンスキャベツが誕生する所だった。 「……で、茉理」 「なに?」 「いつまで背中にまとわりついているつもりだ?」 「あっははー……」  乾いた笑いを漏らすものの、茉理は離れようとしない。  背中にあたる感触は悪いものじゃないけど……包丁が使いにくい。 「ねぇ、あたしも手伝おうか?」 「いい、茉理は主賓だから」 「そっか……」  背中に頬が寄せられる感覚。 「直樹って……」 「何だ?」 「意外と、いい旦那さんになりそうだねっ」  それだけ言って、茉理は俺から離れた。  そうして四苦八苦しながらも、やっと出来上がったお好み焼き。  ソースは勿論、茉理さん御用達のおかめソースだ。 「うわぁ、全部直樹が作った料理って、初めてじゃないかな」 「ふはは、茉理が居ない間、伊達に家事を任されてはいなかったという事を証明してみせようぞ」 「何か回りくどい言い方……」  椅子を引き、戸惑い気味の茉理を食卓改め、シェフズテーブルに着席させる。  そして茉理の前には、白い皿に置かれたお好み焼き。 「それにしても……」 「ん?」 「お母さん、今日も残業なのかな……」 「……今日は遅くなるって言ってたな」  途端に沈んだ表情をみせる茉理。  こればっかりは、俺にはどうしようもない。 「そっか……無理して帰ってきて貰ったんだから、仕方ないよね……」 「でも……そうだ、言い忘れてたけど、四月には源三さんもこっちに帰ってくるって」 「え? ほ、本当にっ!?」  さっきまでの表情とは一転、茉理の表情が一気に明るくなる。  よかった。俺は一秒だって、茉理の辛そうな顔を見るのは嫌だ。  やっぱり茉理には、笑顔が一番似合う。 「だからさ、源三さんが帰ってきたら、もう一回お祝いな」 「うんっ」 「よし、それじゃ……いただきます」 「いただきまーすっ」  茉理は元気良く食事の開始を宣言し、箸でお好み焼きを一口サイズに切る。  やはり作り手としては茉理の反応が気になり、その一口が嚥下されるまでの過程をじっと見てしまう。 「茉理……どうだ?」 「……はい」  茉理は俺の問いには答えずに、一口サイズに切ったお好み焼きを突き出してくる。  ずいと出されて、思わず口を開けてしまったが、これはもしかして俗に言う食べさせっこでは……と、そこまで考えて、思考は停止した。 「シェフ? あたしはウェルダンが好みなんだけど」 「いやぁ、てっきりレアがお好みかと…………すまん」  簡単に言うと、半生だった。  これでもちゃんと焼いたつもりだったが、どうも詰めが甘かったらしい。 「はぁ、やっぱりお好み焼きは、あたしが焼かなきゃダメね」  そう言いながら、茉理は俺の隣の椅子にかけてあったエプロンを取った。 「面目ない……」 「いいよ、その……気持ちは、伝わったから」  少し顔を染めて、そんな事を言う茉理。  調理台に向かう茉理の背中に、俺は声を投げる。 「茉理は、いい奥さんになるな」 「旦那様が、こんなだからね」  そしてまた、台所は小麦粉が焼ける匂いで満たされた。           #          #          # 「遅いな、茉理……」  まだ夜も浅い時間帯。  茉理は風呂に入りに行ったっきり、リビングに戻ってこない。  もう寝てしまったんだろうか? とも思ったが、茉理はいつも寝る前に一言いいに来ていたし、それはないだろう。  それにしても、たった一時間顔を会わせないだけで心配になってしまう俺は、やっぱり過保護なんだろうか。  いや、ただの寂しがり屋なのかも知れないが。 「うーん……」  悩んでいても仕方のない事は、この一時間でよく分かっていた。 「……行ってみた方が早いか」  そう独りごちると、リビングを出て、茉理の部屋へと向かう。  “こんこんっ” 「…………」  ドアをノックしてみても、返事はない。  だけど、何となく人の気配はあった。  “こんこんっ” 「茉理、入るからな」  そう宣言して、ドアを開ける。  そしてそこには予想通り、茉理の姿があったわけだけど。 「すぅー……くー……」  照明はつけっぱなし、カーテンは開けっぱなし。そんな状態で茉理は寝ていた。  布団もかぶっていないから、ちょっと寝転がるつもりで横になって、そのまま寝てしまったんだろう。  やっぱり、知らず識らずの内に、茉理も疲れてたんだ。  夕食の後片付け、もっとしっかりと断ればよかった……なんて考えても、後の祭りだ。 「まったく……風邪引くぞ」  ぬいぐるみを抱きしめ、丸くなって眠る茉理は堪らなく愛らしかったけど、このままにはして置けない。  茉理の足元で畳まれたままになっていた布団を、茉理に掛けてやる。  “ぱちん”  無言で照明を消す。 「あ……?」  そこで、一気に世界が変わった。  部屋には予想していた闇はなく、淡く蒼い、ぼんやりとした明かりが満ちる。 「――――――」  思わず言葉を失う。  今宵は、驚くほど月が明るい。  くっきりと影ができるほど、月明かりが部屋を照らした。 「くー……んんっ……」  ベッド脇の窓から月光が射し込み、茉理の顔が蒼い光に映える。  俺は騎士が姫君にそうするように、跪き、茉理の顔を覗きこんだ。  いつもは可愛らしいとだけ感じていた茉理の顔。  だけど今は……ただ綺麗だった。  美しくて、儚げで……いや、儚いから美しいのだろうか。  “さらり”  月明かりに梳かされた茉理の髪。  掬えば、きめ細かい沙(すな)のように、指から逃げる。  仄かな蒼光に包まれた茉理の姿は、ひたすらに美しくて……俺は息をするのも忘れる程、魅入っていた。  “ぽたり” 「あ……れ?」  ベッドに、水滴が落ちた。  驚いて頬に手をあててみれば、温かく濡れている。  自分でもまさかとは思うけど、本当にあったのだ。  あまりの美しさに感動し、涙するなんて事が。 「……すー……」  でも、この状況は良くない。  安らかに眠る茉理と、その横で涙する俺。  嫌でも、あの時を思い出してしまう。  時計塔の病室で、もう意識が戻らないと言われた日の事。  胸に深く突き刺さる絶望と喪失感に、押し潰されそうになった日の事を。 「茉理……っ」  急に不安になる。あの頃に戻ってしまうなんて事はありえないけど……。  茉理の姿に心を奪われていたから、こんなちょっとした事で心が模様替えしてしまうのだ。  “ぎゅっ”  茉理の手を握る。  前のように痩せこけてはおらず、健康そのものな指。  するりと布団から出たその手には、あの日に送ったシルバーリング。 「な……おき……?」 「あ、ごめん。起こしちゃったか……?」  うっすらと目を開ける茉理。  まだ微睡みの中にいるような、そんな表情。  起こしてしまって悪いとは思うけど、その様子を見ると心が落ち着いていく。 「んぅー……」 「どうした?」 「直樹……好き……」  やっぱり茉理は寝惚けているらしい。  でも、夢境を彷徨っていてもなお、俺の事を想ってくれている。  ……だから。 「俺も、好きだよ」  今度は恥かしがらずに、言った。  こんな時に言うなんて卑怯だと思うけど……明日からは嫌というほど言ってやるから、許して欲しい。 「ん……すぅー……」  再び安らかな寝息を立て始める茉理。  窓から空を見上げれば、綺麗な星空が広がっている。  俺は、月夜に誓う。  一秒でも多く茉理のそばにいる。  一瞬だって、茉理を命の煌きを見逃さない。  一言だって、茉理の言葉を聞き逃すものか。  俺は茉理の全てを愛し、幸せにしてみせる。  強く、強く月夜に誓う。 「おやすみ……茉理」  茉理の指にはめられたシルバーリングは、月明かりに輝いていた。                                     <<...FIN>>