Title:『バカな男、甘い女』   ...produced by 滝  ある日の事。  夕食後の長閑で起伏のない時間帯に、保奈美は台所に立っていた。  彼女が直樹と付き合いだしてもう随分経つ。  そして2月には、恒例の行事もある。 「よし……できあがり、っと」  さっきまで料理の香りが立ち込めていた藤枝家の食卓。  今に限っては、なんとも甘ったるい匂いで満たされている。  他でもない、チョコレートだった。  毎年保奈美は、ホワイトチョコレートを直樹に送る。  その他には、普通のミルクチョコレートを送って、さりげなくアプローチしていたが、彼はそれに気付くことはなかった。  それはともあれかくもあれ、去年は遂に二人が結ばれたのだ。今年のチョコレートは、一味違う。  凄まじいデコレーションを施されたチョコは、ありったけの愛を詰めた結果であった。  彼女は義理チョコも用意しており、それは料理部の試食に参加してくれた人や、直樹が世話になっている人へ送る分だ。  そしてその義理チョコと同じように、直樹へのチョコを普通にラッピングした。  彼女はそれなりに人目を気にする。そういうシャイな部分が、普通にラッピングした理由であったが、なにより彼女は和を好んだ。  箱の見た目を統一し、せめて外見だけでも平等を目指した。  “ことっ” 「ふぅ……」  包装された箱をテーブルに置き、保奈美は椅子に腰掛ける。  その手には、やはりチョコの入った箱。 (なおくん、喜んでくれるかな……)  緑色の包装紙に包まれた箱を見つめながらそう考える。  出来には自信はあるはずだが、やはり心配になってしまうのだろう。 「保奈美? お風呂空いたわよ」  そして一息ついていた保奈美に、ふりかかる声。  他でもない、彼女の母親の声だった。 「あ、はーい」  保奈美は返事をして台所を出る。  その際に、テーブルの端に直樹用のチョコレートを置いた。  他のチョコレートと分ける為の簡易的な措置。  それは完璧な行動ではなく、母親の意図を優先した結果だった。  閑話休題。  この世にどれだけ完璧な人間がいるだろうか?  その人間は全てをこなし、運命の悪戯に翻弄されることすらないのだろうか?  完璧である事は美しく、それは芸術品だ。  だが、例えば素晴らしい絵画にソースをこぼしたらどうなるか?  一瞬にして芸術品は、その価値を無くすだろう。  完璧とはそれほど脆く、儚い。  強く、気高くとも、それを崩すにはほんの些細なきっかけで良かった。 「あら、あのコったら、らしくもなく散らかしちゃって……」  そう言って母親は一つだけ避けられたチョコの箱を、全く同じに見える箱達の群れの中に置いた。  保奈美に和……つまり調和を教えたのは他でもない、彼女だ。  “ことっ”  それ故の行動でをとった後、彼女は台所を後にした。 「ん? これは……」  そして入れ替わるようにやってきたのは保奈美の父親だ。  彼は良く出来た妻と娘とは違い、ごく普通の、朴訥で優しい男だった。 「ははぁ……なるほど、明日はバレンタインデーか……」  そう言って彼は箱を手に取り、物珍しそうに見る。  さして怜悧とも言えない彼は、野次馬魂に駆られて箱を比べ、どれが本命なのか憶測する。  それはなんら意味のない行動だったが、彼は満足そうに笑みを浮かべていた。 「あなたー? ちょっと来てもらえる?」  そこに彼の妻の声が響く。  彼は自他共に認める愛妻家だった。  腰は軽く、彼は最愛の妻に呼ばれればすぐにそこに向かう。 「おっと、これを持っていっちゃまずいな」  台所を去る間際、彼は手に持ったままだった箱をテーブルに置いた。  それは丁度、保奈美が台所を出るときに置いた位置そのままである。  その中身が何であるか知りもせず、そこに置いたのだった――           #          #          #  翌日の2月14日。  直樹と保奈美はそれぞれの部活動を終え、暮れなずむ帰路を辿っていた。  保奈美は当然ながら、学校にいるうちに義理チョコを配り終えている。  そして彼女の鞄の中にある箱は、残り一つ。 「はい、なおくん」  保奈美は道中、ふいに直樹にチョコの箱を差し出す。  その頬が赤いのは、夕陽の所為か、気恥ずかしさからか。 「お、さんきゅ」  直樹はそっけなく礼の言葉を放つが、本当は天にも昇る心地だった。  まさか忘れては居ないだろうが、いつ貰えるのだろうと、心待ちにしていたからだ。  保奈美としては二人っきりの時に渡したかっただけだが、結果として彼を焦らし、より大きな喜びを与える事に成功していた。 「今年は、一味違うからね」 「そりゃ楽しみだ」  そう言って直樹が笑うと、保奈美も表情を崩す。  だがそんな仲睦まじい二人にも、一旦の分かれの時がやってくる。  気付けば、もう渋垣家の前だった。 「じゃあなおくん、また明日ね」 「おう、気を付けて帰れよ」 「うん、明日感想を聞かせてね」 「任せとけ」  手を振り、惜しみながら別れる。  “ばたんっ”  直樹は保奈美の姿が消えるまで見送ると、急いで家の中へと入った。  それほど、彼女のチョコが楽しみだったのだ。  “ばたばた……がちゃ”  直樹はいつもより勢いよくリビングの扉を開ける。 「あ、おかえりー」  するとそこには珍しく茉理の姿があった。  今日は早くあがる日だったらしい。 「んふふ……直樹ー?」  好奇の色を目に灯した茉理。  直樹はそこで自分の失態に気付いた。  チョコの箱を持ったまま、リビングに入ってきてしまったのだ。 「それ、保奈美さんからのチョコでしょ?」 「そ、それがどうかしたかな、茉理くん?」 「見せて」  そう、保奈美のチョコを楽しみにしていたのは直樹だけではない。  茉理も、料理の師匠である保奈美がどんなチョコを作ってくるのか、密かに楽しみにしていたのだ。 「なんでだよ?」 「別にいいじゃない、減るものじゃないんだし」 「精神的に減る」 「もー、見せてくれなきゃチョコあげないよ?」  直樹は「別に俺は保奈美から貰えればそれで……」と言いかけて止めた。  そんな事を言ったら、また茉理にのろけだの何だのとからかわれてしまうからだ。 「はぁ……しょうがないな」  結局、彼は諦める事にした。  保奈美が今年は一味違う、と言っていた事から、どうあれその出来でからかわれる事は間違いなさそうではあったが。  “するっ、がさがさ……”  端然と包装された箱を開けていく。  そして満を持して表れるチョコレート。  黒い、黒いチョコレート。 「「あれ?」」  二人は同時に疑問の声を発する。  保奈美が直樹に送るチョコは毎年ホワイトチョコレートで、それは彼女と近しい人なら誰でも知っている事だ。  そのチョコレートが、今年は黒いのだ。そして驚くのはその色だけではない。  『 義 理 』  チョコの上には達筆としか表現出来ないような書風で、大きくその字が書いてあった。  今年は一味違う、とは言っていたが、違い過ぎるだろう、これは。  直樹の脳裏に嫌な考えがよぎる。 「ひょっとして……ふられた?」  茉理の言葉に、よぎっていた考えはそのまま直樹の心に深く突き刺さった。  まさか、そんな。 「な、何かの手違いだろ?」 「でも保奈美さんが、そんな間違いをすると思う?」 「う……」 「ましてや直樹に送るチョコだよ? それを間違えるわけないじゃない」  そうなのだ。二人とも保奈美には絶大な信頼を寄せている。  保奈美が本命チョコを渡し間違えるなんて事はしない、と信じきっていた。 「……遂に見捨てられちゃったか」  茉理はぼそりと呟く。  直樹はその言葉を間に受け、何が悪かったんだろうと反芻する。  いつまで経っても遅刻寸前まで寝ている事がダメだったんだろうか?  料理部の試食をする時、いつも食べすぎてしまうのが悪かったんだろうか?  それとも、最近ちょっとアレなプレイをする事が増えたのが、愛想を尽かされた原因なのだろうか?  いや、でもあれは合意の上であって、保奈美も満更ではなかったような……。  直樹は取り止めも無い思考の渦に巻きこまれていた。  いずれにせよ、自堕落な直樹にはいくらでも落ち度はある。 「直樹……骨は拾ってあげるからね」  何だか良く分からない茉理の優しさが、直樹を包んだ日の事だった。           #          #          #  翌朝、陽光が眩しい通学路。  「ねえなおくん、昨日のチョコ、どうだった?」  やはり寝坊を止められない直樹を起こし、渋垣家を出ると早速保奈美は直樹にチョコの感想を聞く。  だが、直樹はなんとも感想を述べづらかった。そもそも、あまりの衝撃に食べる事すらままならなかったのだから。 「なんていうか……ショックだった」 「え? 何が?」  予想外の反応に、保奈美は問う。 「もしかして……不味かった?」 「そりゃまあ……色々まずいだろ……」  具体的な答えを求める保奈美に、抽象的に答える直樹。  勘違いという交差は、こうして始まる。 「そ、そうだったの? ……ごめん」  ごめん、という台詞に、思いっ切り凹む直樹。  やっぱり俺は愛想を尽かされたのだと、心を沈めた。 「一応聞いておくけど……間違った物を送って来たんじゃないよな?」 「え? うん、間違いないはず」  間違いない。義理チョコで間違いなかったのだ。  遠まわしの、さよなら。  それでも直樹は、まだその事実を完全に受け入れる事が出来なかった。  だって、保奈美はこうして直樹を起こしては、一緒に通学しているのだから。 「そ、そんな事よりさ、もうすぐ学年末テストだな」  きっとあのチョコは保奈美の冗談だ。  そう思う事にした直樹は、何気ない話題をふる。  これできっと元通りだ、と。 「うん、そうだね」 「よかったら、また一緒に勉強しような?」 「あ、ごめん……テスト前日から三日前まで、勉強会とかの予定がつまってるの」  そこでまた直樹は凹んだ。  ほとんど必ずと言っていいほど、テスト前日には彼と保奈美は一緒に勉強していた。  その彼女が、自分を放り出して他の約束を取り付けてしまった……と直樹は身勝手な暗い念に押しつぶされる。  保奈美としては熱心に指導を請われて、無下に断るわけにはいかなかっただけなのだが。 「そ、そうか……」 「うん……本当にごめんね」  いかんせん、タイミングが悪かった。  それで直樹は、自分がふられたのだと、90%ぐらい信じた。  残りの10%は、保奈美が自分を捨てるはずが無いと、まだどこかで信じている部分だ。 「…………」  気まずい雰囲気。  徐々に喧騒の音量が増す通学路に、二人の声が混じる事はなかった。           #          #          #  放課後。  今日の天文部は、部長と一人の部員の諸事情により、急遽休みとなった。  理由は他でもない、直樹が弘司に相談を持ちかけたからだ。  そして意外な事に弘司の方からも相談があると言われ、事態を重く見た二人はこの決断を下した。  美琴は不満そうにしていたが、保奈美に料理部の試食を頼まれると笑顔でついていった。 「で、相談ってのは?」  そして、ここは蓮華寮の一室。  沈痛な面持ちの直樹と、これ以上ぐらい真剣な顔をした弘司。  二人は床にどっかと座りこみ、顔を突き合わせていた。 「まずは見てもらいたい物があるんだ……」 「……奇遇だな、俺も直樹に見て欲しい物がある」  二人の間を、視線の応酬が飛び交う。  眼差しで、意思を疎通させる。 「じゃあ、せーので、お互い出すって事で」 「分かった……じゃあいくぞ、せーのっ」  “ばっ”  それぞれの前に出される箱。  そしての箱の中にある物。 「そ、それって……」  直樹は絶句した。  今、弘司が出した箱の中身は、なんとホワイトチョコレートだったのだ。  それもとても素人では作れないような、繊細で華美なデコレーションを施されたチョコレート。  ハート型の、チョコレート。 「ああ……藤枝から貰ったチョコだよ」  その言葉に、直樹の思考は凍りつく。  いや、彼の頭は、考える事を拒否したのだ。 「一応聞くけど……直樹が出したチョコも、藤枝からの物だよな?」 「……ああ」  そう、あの晩、保奈美の両親によってシャッフルされた本命チョコは、作り手の意思とは別に弘司の元へと流れついたのだった。  だんだん直樹の思考は溶け、再び動き始める。 「は……はは……」  かすれ気味の笑いを漏らす直樹。  一番ありそうで、嫌な考えが彼の脳裏を支配する。 「箱を間違えたんじゃないかって、藤枝に聞いたんだ。でも、これで間違い無いって言ってた」 「それは俺も保奈美に聞いたよ……」  そうか……保奈美は俺の事を見捨てたんじゃなくて、弘司の事が……。  直樹の表情にどんどん翳りがさす。物凄い喪失感が、彼を襲う。  彼はこれで自分がふられたんだと、95%ぐらい信じた。  残り5%は、やはり保奈美が自分を見捨てるはずが無いと信じている部分。  それは殆ど、彼の願望に近かった。 「…………」  立ち込める、永い沈黙。  弘司は口を開いて何かいいかけては、それを止める動作を繰り返した。  とてもじゃないが、彼から声をかけれる場面ではなかった。 「そう……か」  直樹はやっとの思いで声を出し、静寂を切り裂く。  彼の考えは纏まっていた。それは恐らく、一番男らしい結論だった。 「明日、保奈美に聞くよ。本当の事を。それで、その答え次第じゃ……」 「……直樹」 「弘司……保奈美を頼んだ……っ!」  そう言って直樹は弘司の部屋を飛び出した。  なんともマヌケな、名台詞だった。           #          #          #  その晩、保奈美は机と向き合って煩悶していた。 「何がいけなかったんだろう……」  薄暗い自室の中、彼女は独りごつ。  保奈美を悩ませているのは他でもない、昨日のチョコの事だ。  彼女がありったけの想いを込めたチョコ。  それを、想いを寄せた相手に否定されてしまったのだ。  それは保奈美の料理人としての矜持に、深く関わることだった。  “ぱらぱら……”  保奈美は引き出しからノートを引き出すと、そのページをめくる。  そのノートは、ホワイトチョコレートについての研究をまとめたものだった。  彼女はそれをよく読み、チョコを作る過程を思い出す。 「何も間違えてないはずなんだけどな……」  当たり前と言えばそうだが、彼女は原因を見つける事は出来なかった。  保奈美のチョコ作りは完璧だった。味見だってしたのだ。  もしかすると風邪を引いて舌がおかしくなったのかと思い、熱を測ったがそれも無駄に終わった。  そもそも、原因究明こそが無駄だった。 (やっぱり、明日直接訊いた方がいいかな)  保奈美はこれ以上の詮索は時間の無駄と判断する。  彼女は大きく伸びをした後、TVでも見ようと階下へと向かったのだった。           #          #          #  翌朝。  やはり直樹と保奈美は一緒に登校していた。  だがその二人の間にあるはずの会話は、昨日同様、無いままだ。 「…………」  お互い言いたい事があるのに言い出せない。  そんな雰囲気が出来上がってしまっていた。  その原因は、直樹の思い詰めた表情に違いなかった。  “とぼとぼ”  たまに挨拶をされれば、それに応えるだけの二人。  今朝交わした言葉と言えば、「今日も寒いね」と「そうだな」だけである。  直樹は保奈美に聞かなければいけない事があったが、やはり答えを聞くのが怖いのか言い出せない。  そんな彼の表情を読み取った保奈美は、ひたすら直樹の言葉を待つ。  だがそれも、校門の前まで来てしまったらお終いだ。 「ねえ、なおくん……この前のチョコ、何が悪かったのかな?」  保奈美は意を決して直樹に尋ねる。  直樹もついに言わなくてはならない時がきたか、と腹をくくる。 「なんて言うか……もっとはっきりして欲しいんだよ」 「はっきり……?」 「保奈美の気持ちをもっとはっきり、俺に伝えて欲しい。チョコなんかじゃ、分からないよ……」  立ち止まり、向き合う二人。  他の男を好きになってしまったのなら、それをはっきり伝えて欲しいと思う直樹。  チョコに込めた気持ちをはっきり伝えて欲しいと言われ、戸惑う保奈美。  “ざわざわ……”  そして校門の前の人通りは多い。  固まっている二人は、通り過ぎ行く人々の好奇の目に晒されている。  その人ごみの中には、弘司と美琴の姿もあった。 「あ、おはよー、お二人さんっ」 「ちょ、ちょっと……」  その場の雰囲気も読まずに声をかける美琴を制止する弘司。  彼は今、この場が修羅場である事を瞬時に理解したのだ。 「よう、お前らも見ててくれよ……俺の生き様をさ……」 「な、なおくん? 今、ここで……?」 「ああ、いいじゃないか。俺達が今どんな状態なのか、みんなに示すには良い場所だろ?」  直樹はもうすっかりドラマの中の人だった。  彼は覚悟を決める。  保奈美から放たれるのは、別れの言葉か、それとも頬への一閃か。  保奈美は覚悟を決める。  今ここで、チョコに込めた想い以上の行動を取る事を。  美琴と弘司は見守る。  二人の次の行動を。  そして―― 「…………んんっ」  保奈美は直樹にキスをした。  しっかりと直樹の首に抱きつき、歯がくっつかんばかりの、熱烈なキスをしたのだ。  それは保奈美がチョコに込めた想いを表す、一番の方法だった。  “ざわざわ、ざわざわ……”  そしてやはり校門の前の人通りは多い。  二人に注がれる視線もまた、多い。  唇を合わせ、離れるまで5秒。  目撃者は30人と言ったところか。 「もう……恥ずかしい……っ」  そう意って頬を赤らめると、保奈美は視線から逃げるように走っていってしまった。  残された3人は、ただ呆然と立ち竦むのみである。  弘司は混乱した。  どうして直樹に義理チョコを送っておいて、この場でキスを? 一体何なんだ?  美琴はテンションが上がった。  超恥知らず系バカップル……ここに爆誕!!  直樹はテンパった。  ゴミを出す日はパパとご飯が会合、マッシブ。  3人ともいい具合に沸いていた。  それから3人が動き出すまで10分という時間を要し、彼らは遅刻した。           #          #          #  昼休み。  今朝の出来事は、もうすっかり全校の噂となっている。  美琴が友人という友人全員に、今朝の話を事細やかに伝えた所為だ。  そしてそんな噂が冷め遣らぬ中、臆する事もなく保奈美は直樹の席へと近づいた。  その手に、二つの弁当箱を持って。 「はい、なおくん」 「…………はい?」  今度は一体何なんだと、身構える直樹。  その間にも保奈美は前の席の椅子を反対向きにして、一緒に食べる準備をする。 「こ、ここで食べるのか?」  直樹は恐る恐る保奈美に訊く。  いつもはクラスの視線を気にして屋上で食べているのだが、今日に限っては違うようなのだ。  今朝の混乱も納まらない中、保奈美の行動が全く理解出来ない直樹は、頭をフル回転させるしかなかった。 「なおくんは、ここの方がいいんじゃないの?」  しかし保奈美としては、何故か分からないが直樹が自分達の仲をアピールしようと思いこんでいるのだ。  彼女は手際よく弁当をあけ、箸を取り出す。 「な、なおくん……はい、あ……あーん」  そしておかずを取ると、その箸を直樹に向けた。  その顔は今朝と同じく朱色に染まり、照れまくっている事が分かる。  だがその恥ずかしささえ厭わず、保奈美は直樹の希望に応えようと献身するのだ。 「……あーん」  直樹はついそのはにかんだ表情に負けて、口を開く。  彼を苛んでいた悩みなど忘れ、絶品料理に酔いしれる。 「なおくん、美味しい?」  “じろりっ”  だがそこで直樹は状況の再認識を強いられた。  数多くの視線が、矢の如く彼に突き刺さっているのだ。  一見クラスの連中は全員そっぽを向いているようで、目線だけは二人に集中させている。 「あ、ああ……美味い……よ」 「そう? あんまり美味しそうには見えないんだけど……」  直樹は冷や汗をだらだらと流した。  張り巡らされた視線は、殺気すら含んでいたからだ。  男子学生E.Tは思った。  この年で務所送りか……。  それも悪くないな。  男子学生K.Hは思った。  うわ、今朝と負けず劣らずの事し出したよ。  本当にもう、歯止めが効かないな。  女子学生M.Aは思った。  凄いね、流石は次世代型バカップル。  もう見てられないよ。 「はい、あーん」 「あ、あーん……」  そんな大衆の心中など知る由もなく、保奈美はなおも箸を直樹の方に向ける。  直樹はそのはにかんだ笑顔に負けて、口を開く事の繰り返し。  地獄のような、天国だった。           #          #          # 「へぇ、今日の噂の背景には、そんな複雑な状況があったわけね」  恭子はそう言うとコーヒーを一口飲んだ。  放課後、直樹は保健室を訪れていた。 「そうなんですよ……一体どういう事なのか、全然分からなくて」  保奈美は義理チョコ送ってきたというのに、今日のあの行動はなんだったのか。  それをどれだけ考えても解せなかった直樹は、人生の先輩である恭子の元を訪ねたのだ。 「あ、チョコの話で思い出したけど……はい、これ」  そう言って恭子はポケットに入っていたらしいチロルなチョコを4つ渡した。  不吉な数だった。 「ちなみに手作り」 「……はぁ」  そしてかなり嘘だった。 「で、話を戻すけど、久住」 「はい」  恭子は組んでいた足を戻すと、椅子を回転させて直樹の方を向く。  その様子に直樹は背筋を緊張させる。  真摯な眼差しで、恭子の方を見る。 「昨日の火曜サスペンス、見た?」 「見てましたけど……話戻すどころか逸らしてるじゃないですかっ」  またからかわれているのか、と肩を落とす直樹。  だが恭子は真剣な表情のまま言う。 「いいから、見てたんなら内容を思い出してみなさいって」  そう言われて直樹は渋々昨日の番組の内容を回顧した。  自堕落な男と、それを包みこむ優しい女。  二人は愛し合ってはいたが、女は疲れてきていた。  それに気付かない男。愛想を尽かす女。  やがて女は人生を食いつぶす男に怒りさえ覚え、それは別の感情へと変化していく。  そしてある日、女は男にひたすら献身した。  飛びっきりの笑顔。甘やかなキス。  女は精一杯男を愛した後、彼を……という話だった。 「ま、まさか……」 「……そのまさかよ」  また足を組んでコーヒーを飲む恭子。  直樹はまさかそこまで話が飛躍するわけだろうと思っていたが、半分信じてしまっていた。  あまりにも状況が似ているからと、彼の心が弱まっているからだ。  彼は義理チョコを貰って以来、今まで暖気運転していた頭のアクセルを思いっ切り踏み込んだ。  それを二日続けた彼の頭はオーバーレブを起こし、最早クリープ現象すら起こらない程弱まっている。  何かを刷り込むには、いい状態だった。  “がちゃっ” 「失礼します。あ、なおくん、みっけ」  直樹はその声に慄然とする。  開いた扉から覗いた顔は、天使か悪魔か、保奈美だったのだ。 「ななな、何用でおじゃるか?」  あまりにも心臓に悪い登場の仕方に、変な日本語になる直樹。  恭子はその慌てっぷりにぷっと吹き出し、成り行きを見守る。 「あのね……チョコとお弁当じゃ上手く伝わらなかったみたいだから、リベンジしようと思うの」  そう言い放つ保奈美。  彼女はチョコを送ったり、弁当を食べさせてやったりしても直樹が満足いかなかったと思い込んでいる。  だからそのリベンジを……という意味で言ったのだか、彼は盛大に勘違いしていた。 「ほ、本気か……?」 「うん、だから家で待っててね。それじゃあ、失礼します」  保奈美はそう言って恭子に会釈をすると、扉を閉め、去っていった。  二人に残されたもの。恭子には愁眉、直樹には恐妻の念。 「久住……骨は拾ってあげるからね」  またもやよく分からない優しさが、直樹を包んだ放課後だった。           #          #          #  誰も居ないリビング。  直樹はソファに深く腰掛け、ただ宙を見つめていた。  彼は覚悟を決めたのだ。  保奈美が自分を手にかけるわけがないと信じ込む覚悟と、保奈美の手によって逝く事への覚悟。  二つの矛盾した覚悟を胸に、直樹は保奈美を待っていた。  “ぴんぽーん”  鳴る、チャイム。  直樹はさして慄く様子もなく、立ち上がり、玄関へと向かう。 「……よくきたな」 「うん、おじゃまします」  玄関より保奈美を招きいれ、リビングへ。  “ぼすっ”  直樹が黙ってソファに座ると、保奈美もその隣に腰掛ける。  そして保奈美は彼の前に箱を置いた。  四角い、大きな箱だ。 「……これは」 「じゃーん」  そして保奈美はそれを惜しげも無く開け、中身を外に晒す。  直樹の目に映る、真っ白なケーキ。  荘厳とも形容できる、凄まじい出来のケーキ。 「ホワイト生チョコケーキだよ」 「…………ひいぃ」  だが直樹の口から漏れるのは嘆息ではなく、半ば悲鳴に近いものだった。  そう、昨日の番組の結末は、食物への毒物混入だったのだ。 「保奈美……もしかして、昨日の火サス……見てた?」 「え? うん、見てたけど……」 「お慈悲!」  直樹はケーキから飛び退る。彼とて、やはり死を受け入れるには早すぎたのだ。  そんな直樹を見て、保奈美は疑問の色を隠せない。 「どうしたのなおくん? 食べてくれないの?」 「そ、そんなの自分から食べれるわけが……」 「じゃあ……はい、あ……あーん」 「そうじゃなくて!」 「あ、じゃあ…………く、口移しがいいのかな?」  今朝のキス、昼食時の弁当の食べさせ方にも満足させる事が出来なかったのだと思い出した保奈美は、今度は口移しを進言する。  彼女はケーキを口に含むと、直樹の方を見た。そして歩み寄る。 「ほ、保奈美っ。そんな事したら、おまえまで毒にやられてしまうかもしれ……」  “こくん”  保奈美は怯えた直樹を不思議そうにして、ケーキを嚥下した。  直樹は目を点にした。 「もう、最初の一口は、なおくんに食べて欲しかったのに……」 「あわわわわ……」 「ほら、毒なんか入ってないって、分かったでしょ?」 「そ、その部分は入ってないんだな?」 「もうっ、さっきからなおくん変だよっ」  理不尽な直樹の言分に、小さく怒る保奈美。  その様子を見て、彼は更に焦った。 「どうして毒が入ってるなんて思うの?」 「だ、だって保奈美が俺に義理チョコを送って、愛想を尽かして、弘司の事があれで、火サスが……」 「え? 私、なおくんには本命チョコを送ったはずだけど」 「…………何?」  本命チョコを送った、という言葉に反応した直樹は、「ちょっと待ってろ」と言って自室からチョコを持ってくる。  黒いミルクチョコに『義理』と書かれた、義理チョコ以外の何物にも見えない品。  それを保奈美の前に差し出す。 「あ、あはは……」 「……保奈美?」 「ごめん、間違えて送っちゃったみたい……」  “ばふっ”  直樹は気が抜けてソファに倒れ込んだ。  保奈美がそんな間違いをするなんてという驚きよりも、大きな安堵の方が勝っていた。 「という事は……本命のホワイトチョコは誰の所に行ったんだろう?」 「ああ、それ弘司」 「本当に? 後で謝っておかないと……」  そういって再び保奈美は直樹の隣に腰掛けけた。  二人の視線が絡まる。 「よかった……俺、保奈美に愛想尽かされて、昨日の火サスみたな事になるのかと」 「そんなわけないでしょ? だって……」  保奈美そこで口篭る。  直樹は、真っ赤になった保奈美の次の言葉を待った。 「なおくんは、これからずーっと、私が世話してあげるんだから……」 「は、はは……」  情けないような、嬉しいような笑みをこぼす直樹。  笑い合う二人。ずっと見詰め合っているのが恥ずかしくなって、視線を外す。  その先にあるのは、立派なホワイト生チョコケーキ。 「なあ、保奈美……ケーキ食べようか?」 「……うん」 「口移しで」 「……しょうがないなぁ」  その晩、二人は何百回とキスを交わした。  バカみたいに、甘いばかりのキス。  二人の気持ちは、ケーキの様に白く、美しかった。                             <<...fin>>