Title:『SMILE』   ...produced by 滝 > #     --==<< prologue >>==--  100年後に行ってきます。  突然そんな事言い出したら、みんなどんな顔するだろう?  久住先輩は事情を知っているからいいけど、茉理は納得してくれるかな?  仁科先生は、私の休学の理由を何にしたんだろう?  色々な物を残していく寂しさ。  今から旅立つ地への不安。  そして妹に……ちさとに逢えるかもしれないという、大きな期待。  そんな様々な感情を胸に私は時計塔の入り口の前に立つ。  振り返れば、久住先輩の姿。ずっと私を見てくれている。  私は最後にもう一度だけ言う。 「……いってきます」  おそらく、久住先輩には聞こえないぐらいの声量。  言葉は伝わっていないだろうけど、久住先輩の表情は優しい微笑みを見せてくれた。  私はそれに笑顔で応え、踵を返す。  もう振り返らない。  いつ帰ってこれるか分からないけど、振り返らない。  私は青いフォステリアナが咲く鉢植えを、しっかりと抱きかかえた。  そして私は時計塔へと、一歩踏み出す。  時計塔……未来へと続く道を、私は歩き始めた―― > #     --==<< despair >>==-- 「じゃあ、まずはキャンプに行くって事でいいのね」 「……はい」  問いかけてくる仁科先生に、私は最も簡単な肯定の言葉を返す。  突然吹いた風は地表を撫で、砂埃を立てた。 「それにしても……」 「どうしたの? 橘さん」 「前より……ずっと寂しい感じがしますね」  ほとんど廃墟と化した建物達。  私がここから避難した時にはついていた信号も、今はもう何の色も灯してしない。  道路はあっても車は走っていないし、どこを探したって私たち以外の人影はない。  そんな中に、私達は立っている。  凄寥たる風景……っていうのは、きっとこういう事を言うんだと思う。 「そうね……着実に、ウイルスに蝕まれているって事ね」 「…………」  私は返す言葉を逡巡する事もなく、ただ世界を見た。  社会というシステムが瓦解した世界。  ウイルスという、目に見えない程小さな敵の前に、世界は消えかけようとしていた。  そんな世界を救う為に、私達はここに居る。 「さあ、着いたわ。ここが橘さんに似た患者さんがいるキャンプ」  けれど私は、どうしても行かなければいけない所があった。  それがこのキャンプ。  キャンプとは呼ばれているけど、実際には廃墟にか見えない建物。  この中に乙種患者達が収容され、闘病しているはずだった。  私は仁科先生の案内に従い、階段を上り、廊下を歩き、ちさとがいるかもしれない病室を目指す。  やがて会議室と書かれた広い部屋へと辿り着き、カーテンで区画された室内を歩くと、仁科先生は壁際のカーテンの前で立ち止まった。 「……ここよ」  そう一言だけ言う仁科先生。  私が躊躇っている間にも、先生はカーテンを開ける様子を見せない。  つまり、自分で開けろという事。 「…………」  “しゃあっ”  意を決してカーテンを開ける。 「……え?」  その先にあったのは―― 「……おねえ……ちゃん?」  私が、切望した姿だった。 「ちさと……」  見間違えるはずがない。  例え何年と会っていなくても、その声、その顔を忘れた事なんてなかった。  私はゆっくりとちさとが横たわるベッドに近づく。  ゆっくりと、投げ出された手を握る。 「もう……ダメなの……かなぁ」  だけど……そこにあったのは私の切望した姿ではあったけど……。 「お姉ちゃんの……幻覚……見るなんて……」  決して、良い状況じゃなかった。 「……ちさと」  息も絶え絶えに話すちさと。  握った手は前よりずっと細くて、病状の重篤さを伝えてくる。 「幻覚なんかじゃ……ないよ」  抱きしめてあげたかった。  強く抱きしめて、私はここにいるよ、って言って上げたかった。  でもちさとは最後に会った時よりずっと痩せてしまって……抱きしめたら、壊れてしまいそうで……。 「しっかりして、ちさとぉ……」  いつの間にか私は涙声になって、ベッドにすがりついていた。  やっと会えたのに、嬉しいはずの再会なのに、それは私に悲愁だけを与えてくる。  ……だけど私は悲嘆にくれに来たわけじゃない。  私は深く沈み込んだ心を引き上げ、仁科先生を振り返る。 「仁科先生っ」 「……ええ」  仁科先生はポケットから瓶を取り出しながらベッドに近づき、私とは反対側からちさとの身体を支えた。  私は先生から瓶を受け取り、中に入った青フォステリアナの種を取り出す。 「ちさと……これを飲んで」 「なに……これ……?」 「薬だよ。これを飲んだらきっと治るから……だから飲んで」 「……うん」  ちさとは咳き込みながらも、種を嚥下した。  仁科先生はそっとちさとをベッドに横たえる。 「もう大丈夫だからね、ちさと……」 「う……ん、ありがと……お姉ちゃん……」  それだけ言うとちさとは寝息を立て始めた。  微かで、細い息。心なしか安らかな寝顔に、私は少しだけ安堵を覚える。 「……そろそろいいかしら。今日中に、宿舎と温室の場所を教えておかなければならないの」 「あ、はいっ」  出来る限りの元気な声で返事をして、立ち上がる。 (大丈夫、ちさとはきっと治る……また、元気な姿で会える)  私は自分にそう言い聞かせ、病室を後にした。 「またね……ちさと」             <――そしてその翌日、ちさとの意識が戻らなくなったと聞かされた――> > #     --==<< initiate >>==--  あれから一ヶ月。  今日も私は、学園の温室とは比べ物にならないぐらい大きな温室で、栽培スタッフの指導にあたっていた。 「橘トレーナー。質問いいですか?」 「あっ、はい」  恐らく私より十歳は年上だと思われる男性に声をかけられる。  栽培スタッフはこの時代に残っていた健常者と、過去に避難していて、こっちに栽培スタッフになる為に戻ってきた人達とで構成されていた。  その数はおよそ50人。  老若男女様々な人達で、圧倒的に私より年上の人が多かったけど、みんな私の事を「橘トレーナー」とか「橘指導員」と呼ぶ。 「この受粉作業なんですが、どうも花粉のつき方が悪くて」  真面目そうな男性は、年下の私にも敬語で話しながら、実際に作業をして見せる。  男性は筆全体で花粉をつけようとしているらしいけど、それでは付き方にむらが出るし、強くすると折角ついた花粉を取っていってしまう。  これではダメだという事は分かるのだけど、なんて説明したらいいのかすぐには出てこない。 「えっと……こうです」  とりあえず、自分でやって見せる事にした。  これで分かってくれればいいんだけど……。 「なるほど、筆先を使えって事ですね?」 「あ、は、はいっ、そうですっ」 「分かりました。やってみます」  そういうと男性は作業に戻って行く。  私はつくづく、人にものを教える事の難しさと大変さを感じていた。  先生達がどれだけ努力して、人を教える立場に立っているか、その身になってみてやっと分かる。 「ふぅ……」  私は沈殿しがちだった息を吐き出し、温室を見渡す。  今日も額に汗して働く、栽培スタッフのみんな。  一番最初の顔会わせの時、何十人という人が私に向かって一斉に「お願いしまーす!」と頭を下げた瞬間、私は失神しそうになった。  そんな栽培スタッフ達を、指導者として立派にやっていけるレベルまで引き上げるのが私の仕事。  50人それぞれが担当する球根や花は全て観察記録がつけられ、それらを全部読んでアドバイスをつけたり、成功例があればそれを研究するのも私の仕事だった。  全員の栽培知識や理解度のテストの作成、それの記録と評価も私の仕事。  忙殺される日々。  事を考える暇すらほとんどない毎日は、今の私にとっては幸せな事なのかも知れない。 「橘指導員! ちょっと来てもらえますかーっ」  そして私呼ぶ、年嵩のいった女性の声。 「はーいっ、今行きますっ」  少し離れた所にいる彼女にも聞こえるように、大きな声で返す。  前まで大きな声を出す事だけでも恥ずかしかったけど、今は指導者として、そんな事を気にしている場合じゃなかった。  小走りに、プランターの立ち並ぶ温室を駆ける。  今日も、暮れていく―― > #     --==<< moonlight >>==--  その日は随分遅くまで作業していた。  廃墟と化した建物達に狭められた空を見上げれば、天を穿つように月が浮かんでいる。 「はぁ……」  吐いた息は白く、電灯もない闇に溶けてゆく。  時計を見れば、短針はもう深夜とも呼べる時刻を指していた。  今日もキャンプに行って、ちさとの看病をしてあげる事が出来ない……。  “じゃりっ、じゃりっ”  寂寞とした宿舎への道に、私の足音だけが響く。  ちさとはまだ意識不明のまま。  仁科先生が言うには、助かる望みはあるらしい。  マルバスがちさとを死に至らしめる前に、フォステリアナの種が抗マルバス免疫を作り上げれば、ちさとは助かる。  だけどマルバスが死を呼ぶのが先か、抗マルバス免疫が出来るのが先かどうかは、誰にも分からない。  キャンプでは今日も死亡者が出た、と風の噂に聞いた。  名前も知らないから、誰が亡くなったのかだって知らない。  ひょっとしたら……考えたくない事だけど、それがちさとかもしれない可能性だって、十分にあった。  堪え切れない不安。  身体に染み込んでくる、寒さと絶望感。 「久住先輩……」  無為に私は呟き、立ち止まる。  手入れしなればいけない道具や、資料や記録を抱えた腕は、熱と緊張をもって私に悲鳴を伝えた。  “がさっ”  腕に抱えた荷物を、一旦地面に置いた。  とても休憩無しでは持って帰れそうにない。  地面にへたり込みながら、私はふと反芻した。 『あの……やっぱり私も持ちます』 『いや、これくらい役に立たせてくれよ』 『でも……』 『大丈夫だから、ね』  いつだったか園芸用品を買いに行った時に、荷物を全部持ってくれた久住先輩。  そんな優しい久住先輩は、この世界にはいない。  どこを探したって……どんなに願ったって、ここには居てくれない……。 「辛い……」  意識とは関係なく紡がれる言葉。  体力的、精神的にも限界が近い事を、私は認識した。  もしかしたら……もう限界を超えているのかも知れない。 「……茉理」  空を見上げ、会いたい人の幻影を月に映す。  退廃した街並は、寂しさを増長させる。 『欲しいものは欲しいってちゃんと言わないと、何も手に入らないんだよっ!!』  いつも私を支えてくれていた、親友の言葉。  自己主張しろという、茉理の心からの吶喊(とっかん)。 「会いたい……」  口から出た主張は、夜の帳に消えてゆく。 「会いたいよぉ……茉理ぃ……」  会ってまた笑顔を見せて欲しい。  その笑顔で、私を元気づけて欲しい。 「会いたい……久住先輩に……」  近くにいて欲しい。  荷物を運んで欲しいだなんて言わない。  ただ微笑みをくれるだけで、きっと全てが満たされる。 「会いたい…………会いたい会いたい会いたいっ!!」  月に向かって、願いを投げる。  私らしさなんかどこにもなく、叫び続ける。 「うう……うあぁ……っ!」  そして、滂沱(ぼうだ)。             <――月光はこんなにも優しく私を包むのに……ただ虚無だけをくれた――> > #     --==<< longing >>==-- 「こんなもんかな……」  ちひろちゃんが未来に戻って1ヶ月。  温室での作業を終えた俺は観察記録を書き終えると、大きく伸びをした。 「うー……っと」  バキバキと間接が鳴る。  外を見れば、暗闇が世界を包んでいた。  ちょっと今日は頑張ったかな。 「疲れたぁ……なんて言えないか」  未来に旅立ったちひろちゃんに想いを馳せる。  きっと向こうじゃ、もっと大変に違いない。  ちょっと頑張っただけで疲れたなんて言ってたら、ちひろちゃんに笑われてしまう。  “がちゃり”  温室の明かりを消し、施錠する。  ふと空を見上げれば、明るい月。  思わず嘆息して、磨いたばかりの温室のガラスに身を預けた。 (この月……ちひろちゃんも見てるのかな……)  そう考えて少しした後、笑止の至りだったと気付く。  ちひろちゃんは……同じ月を見る事も出来ないぐらい、遠い所へいったんだ。  そう思うと、物凄い寂しさが俺を支配する。 「なおくん、やっぱりここに居たんだ」 「え……?」  会えない寂しさに心が沈みかけた瞬間、声をかけられた。 「保奈美……どうしてここに?」 「温室の方見たら、明かりが点いてたから」 「……随分遅くまで残ってたんだな」 「なおくんこそ」  そう言うと保奈美は俺に倣って、軽く温室のガラスに身を預ける。  キッと小さな音がした後、俺たちは二人揃って空を見上げた。  何も言い出さない俺に、保奈美もただ無言を返す。  そうして5分も過ぎようかという頃、保奈美はふいに口を開いた。 「丁度一ヶ月……だね」 「あ……?」 「橘さんが休学し出して」 「保奈美も……覚えててくれたんだ」 「当たり前だよ。私にとっても、橘さんは可愛い後輩なんだからね」  少しむっとする保奈美に、笑顔を返す。  ……素直に嬉しかった。  ちひろちゃんを愛してくれている人が、ここにも居た事が。 「ねえ、なおくん……聞いてもいいかな?」 「……何を?」 「橘さんの、休学の理由……」 「……ああ」  そう言えば茉理はともかく、保奈美は知らないんだな。  本当に信用できる人になら話してもよいと言ったちひろちゃん。  言ってもいいのだろうか?と逡巡すると、どういう考え方をしたって、言ってもいいという答えしかでない。 「漠然とした答えでも……いいのかな」 「……うん」  でも、全てを語る必要はないと思った。  全部喋らなくても、きっと保奈美は分かってくれる。 「ちひろちゃんはさ……どうしてもやらなければいけない事が出来たんだ」 「うん……」 「それはちひろちゃんにしか出来ない事で、だから俺は行くべきだと言った。  そしてちひろちゃんは……遠くへ行ったよ。それこそ、同じ月を見れないぐらい、遠くへ」 「そう……なんだ」  ぽつりとそう言うと、保奈美は暫く思案にくれた。  そんな保奈美の姿に、俺はかける言葉を思いつけない。 「心配……?」 「……ああ」  沈黙をやぶって問いかける保奈美に答える。  心配じゃないわけが無かった。  俺はちひろちゃんが100年後から来た事を話してくれた日の事を反芻する。 『指きり……してもらえませんか?』  そう言って差し出された、俺のよりずっと小さな小指。  あの時感じた、細さ、柔らかさ、儚さ……。  あんな小さな手が、100年後の世界の明日を握っている。  あんな小さな身体で、世界を背負ってるんだ。  心配で……心配でたまらない。 「じゃあね……お祈りしよう?」 「……え?」  そう言うと保奈美は温室のガラスから身を離し、俺の方を向く。 「ちょっと前読んだ本に書いてあったんだけどね、月って願いを伝える力を持ってるんだって」  月明かりは保奈美の端整な顔立ちを際立たせ、形容し難いオーラさえあった。  慈愛に満ちた保奈美の微笑みが、俺を真直ぐ見つめる。 「だから祈ろう? 橘さんが元気でやっていけるように、って」 「ちひろちゃんが……幸せであるように」 「うん……」  ただ静寂に満たされた夜に、月光が降り注ぐ。             <――俺たちは優しく輝く月に、ちひろちゃんの幸福だけを願った――> > #     --==<< tenderness >>==--  夏。  オゾン層がほとんど破壊されたこの時代では、日中は素肌を見せて歩く事は出来ない。  100年前よりずっとか暑く、いかいかしい夏。  私は久しぶりのお休みを、ちさとの病室で過ごしていた。 「ふふふ〜ふふん〜……ふっふふ〜ん♪」  鼻歌を歌いながら、りんごの皮を剥く。  何度もちさとの為にりんごを剥いたから、もう随分手馴れてきた。 「懐かしいね。その歌」 「そうだね。私達が、初めてお母さんに教えてもらった歌だもんね」  あれから夏になるまで、私にいくつかの幸せが訪れていた。  一番に、ちさとが意識を取り戻した事。  私は泣いて喜び、事情を知っている栽培スタッフに「良かったね」と言われる度に、私まで元気になっていく気がした。  二番に、こっちに来てから初めて青いフォステリアナの種が出来た事。  栽培スタッフ達と涙しながら抱き合って喜びを分かちあった日は、絶対に忘れない。  最後に、久住先輩から手紙が届いた事。  手紙には久住先輩の暖かさがいっぱい詰まっていて、空いていた心の隙間が埋められていくがした。  手紙と一緒に何枚かの写真が入っていて、私が去った時よりずっと花が増えた温室の中、 茉理が青いフォステリアナの花を抱いて笑っている写真を見た時、私は思わず笑みをこぼした後に大泣きしてしまった。  そんな嬉し涙が絶えなかった日々。  全てがプラスに動いていって、少しずつ笑顔が増えていく日々。  生きる事を切望する人達の姿は輝かしく、私に勇気をくれた。 「あ〜あ、私も早く外に出られるようになりたいなぁ」 「ダメだよ、退院許可が出るまで外に出たら」  ちさとはすっくとベッドから立ち上がると、薄い遮光フィルターが張られた窓越しに外を見た。  外には相変わらず人影はないけど……ちさとの視線の先には温室がある。 「えへへ、私退院したら、栽培スタッフになるんだ。もう申請もしてあるんだよ」  そう言ってあでやかに笑うちさと。  つくづく思うけど、ちさとは茉理に似ている。  ちさとは茉理ならこうするだろうな、っていう所で、全く予想通りの行動をしてくれた。  私が茉理と仲良くなれたのって、こういう背景があるのかも知れない。 「知ってるよ。もう名簿は着てるんだから」 「うわー、流石指導員様だねっ」  ちさとはおどけて言う。  既に何人かの栽培スタッフは、私が指導できるレベルだと判断した人から全国を飛び回っている。  抜けた穴を埋めるように新規の栽培スタッフ達が入ってきて、青いフォステリアナへの知識を深めていた。  そして次の新規栽培スタッフの名簿には、『橘ちさと』の文字が載っている。 「ちさと、覚悟して来てね。青いフォステリアナの栽培は、本当に難しいんだから」 「そ、それはお姉ちゃんの指導次第じゃないかなー?」 「もう、そんな人任せな事言って……」  私は怒ったフリをするけど、きっと表情は笑っているに違いなかった。  もう二度と会えないと思っていたちさとと、こうして以前と同じように喋れる事。  どれだけ想っても、叶わないと思っていた願い。  それが渺然(びょうぜん)と嬉しくて、私達は途切れる事なく喋り続けた。  やがて窓から見える世界は朱色に染まる。  ちさとが茉理に似ている事とか、私に恋人が出来たという話をしたら、ちさとは目を輝かせて色々聞いてくるものだから、ついつい時間を忘れてしまっていた。 「さてと……じゃあ私はそろそろ帰るね。明日の用意があるから」 「え? もう帰るの?」 「うん。また明日も来るからね」 「あ、ちょ、ちょっとだけ待ってっ」  慌てた様子のちさと。  スーッと息を吸い込んでは深く吐き、それを暫く繰り返した後、黙って待っている私に言った。 「……ごめん」 「え……?」  今までからは想像出来ないぐらい、ちさとは沈んだ表情をみせる。  話の見えない展開に、私は疑問符を浮かべた。  ただこうやって喋っているだけで幸せで、謝られる事なんて何もないのに。 「ごめんなさい……お姉ちゃんを騙して」 「ちさと……」 「勝手に私が死んだ事にしたら、お姉ちゃんが悲しむって分かってたのに……私は嘘の情報を流すように頼んだの。  そうでもしないと、お姉ちゃんは避難してくれないと思ったから……」  夕陽にが部屋に射し込み、私達を薄い赤で包む。  そんな中で、小さくなってしまっているちさと。  それをどうして責める事が出来るだろう?  私はちさとの想いに感謝こそすれ、怒る事なんて一つもないのに。 「いいんだよ……ちさと」 「お姉ちゃん……」 「嘘はいけない事だけど……それはちさとの優しさだもの。ちさとは何も悪くないんだよ」  私は言いながらちさとの頭を撫でた。  表情の緊張が解け、安堵の笑みがこぼれる。  そう、今笑っていられるなら、それでいい。 「私こそ……ごめん」  そして今度は私が謝った。  ちさとが怒ってないのは分かっていたけど、言わなければ気が済まない言葉。 「どうしてお姉ちゃんが謝るの……?」 「ちさとが大変な時に……私一人だけ笑っていて。私だけ……」 「お姉ちゃん。それでいいんだよ。それは私の望んだ事だもん」  ちさとはベッドに身を投げると、手を後ろで組んで話を続ける。 「逆にお姉ちゃんが笑っていなかった方が怒るよ。嘘までついて避難させたのに、何で幸せになれないの!? ……って」 「……ちさと」  優しい。  夕陽の赤と一緒に、優しさが沁み込んでくるみたいだった。 「なんかおかしいよね。どっちも怒ってないのに、謝りあうなんて」 「くすっ……それもそうだね」 「ごめん、引き止めちゃって」 「あ、うん。じゃあ、また明日ね」 「うんっ」  後ろ髪を引かれる思いで手を振り、病室を後にする。  さあ、早く帰って、久住先輩にお返事を書かないと……。 > #     --==<< friends >>==--  もうすぐ夏休みかという頃、俺はただ待っていた。  先日書いた、ちひろちゃんへの手紙。  俺のありったけの想いを綴った手紙。  そして何枚かの写真も同梱した。  カフェテリアでプリンを頬張る結先生の写真。  蓮華寮の前で、美琴と保奈美がひっくり返ったロータスの腹を撫でている写真。  『部屋はちゃんとそのままにしてあるよ』とコメントが書かれた、委員長がちひろちゃんの自室の前で笑っている写真。  ちひろちゃんが旅立ってすぐに行われたウェイトレス・オブ・ザ・イヤーで、トップと新人賞のダブル受賞を達成した時の茉理の写真。  きっとちひろちゃんに元気を与えてくれるはずの写真達。  そんな写真と手紙を封筒に入れて結先生に渡したのは、もう随分前の事だ。  ちひろちゃんの返事を待つだけの毎日。  それは空虚で、俺はまるで抜け殻になったかのような錯覚まで感じていた。 「……で、夏休みの観測会を最後に、俺達は引退っていうのを考えてるんだけど」 「そうだね、それが一番区切りがいいと思う」  渇望だけが自身を支配する中、俺はカフェテリアを訪れていた。  一応席はまだ天文部にあるので、こうして月一回ぐらいは顔を出している。  そして今日は大切なミーティングがあるとかで、直接お呼びがかかったのだ。 「で、直樹はどう思う?」 「……うん、それでいいと思う」 「久住くんも参加……するよね?」 「ああ、勿論だ」  よかった、と二人は笑いあった後、押し黙る。  ……妙に気まずい。 「なあ、今日は一年生達、どうしたんだ?」  雰囲気に絶えかねて、俺は質問を投げる。  美琴の元気溌剌な部活紹介オリエンのお陰で、今年は何人かの新入部員が入った。  ろくに顔と名前が一致していないけど、今日はその部員達の姿がない。 「文化委員やら風紀委員やらの集まりで、今日はみんな来れないってさ」 「……そう言えば今日は委員会のある日だったな」  そうか、みんな何かの委員会に入ってるのか。  真面目な奴ばかり集まってくれたみたいで、ちょっと安心だ。 「…………」  そして再び訪れる沈黙。  いつもは聞こえない回りの席の雑談がうるさく感じる。 「なあ、直樹」  それに絶えかねたのか、弘司が俺に問いかけた。 「最近温室のガラス、汚れてきてないか?」 「……ああ、夏休みに入ったら掃除しようと思ってる」  さりげなく責めているのだろうか、と思う。  天文部にはたまに来るぐらいなのに、温室は汚れている。  これは一体どういう事だ?って、責めているのだろうか。  そんな事を考えてしまう程、俺の心は空っぽになってしまったのだろうか……? 「ねえ、ミーティングは終わりなのかな?」  暗い念に駆られようとする俺の気持ちなど、微塵も気付いていない様子の美琴が問いかける。  こういう時の美琴は……俺には眩しすぎた。 「ああ、ミーティングは終わり」 「じゃあ、部活をはじめよう!」 「そうだね」  そう言うと二人は立ち上がる。  まさか、もう今から準備を始める気なのだろうか。 「さあ、久住くんも行くよ」 「お、おう……」  美琴に気圧されるようにして、俺は席を立った。  グラウンドの方に向かって歩く。  そして体育館の角を曲がり、道なりに歩いた先。 「おい、ここって……」  そこは温室だった。  ここで部活するって、全く何を考えているのか。 「よしっ」 「これを使えばいいんだよな」  そう言って外で干していた雑巾やらモップなどの掃除道具を持つ二人。 「お……」 「あ、カフェテリアに居ないと思ったら、やっぱりここに居たんですね」  俺が何か言おうとした瞬間、聞きなれた声が俺の言葉を遮る。  振りかえっても誰も居ない……という事はあの先生しかいないのだ。 「みなさんどうして掃除道具を…………あっ」  言いながら答えを導き出したらしい結先生。  困ったような、喜んでいるような、感情の入り混じった表情を浮かべる。 「ほら、私たち、部活で雑談に花を咲かせているって言う事実だけとると、園芸部の才能あるのかも、って」 「お、天ヶ崎さん、上手い事いうね」 「しょうがないですね……」  少しだけ肩を落とすと、結先生は俺達に笑みを投げながら言った。 「今日一日、天文部は臨時園芸部としますっ」 「やった、先生話せるっ!」  はしゃぐ美琴と、それとは反対に真面目な顔を浮かべた弘司が俺の方を向く。  無言で雑巾を突き出したので、俺も無言で受け取った。 「直樹……」 「ああ」 「温室、ピッカピカにしとこうぜ。いつ橘さんが帰ってきてもいいように」 「そう……だな」  俺は涙声になりそうなのを必死に堪えて、そう一言だけ言った――  やがて夕陽が全ての色に干渉を始める頃、温室の掃除は終わる。  一人で掃除していたのでは、こんなに早く終わらなかった。  俺の見上げた黄昏月が、それを物語っている。 「久住くん、ちょっと」  そんな夕暮れに想いを馳せていると、少し離れた所にいる結先生に声をかけられた。  俺は緩慢な動きで先生の元へと歩く。 「なんですか?」 「これ……」  そう言って差し出された結先生の手。  その手の中には……俺の名が書かれた封筒があった。 「これってっ」  半ばひったくるように、封筒を受け取る。  逸る気持ちを押さえつけ、慎重に封筒を開けた。 「…………」  上から下へと目を通す。  落ち着きなんか全くなくて、内容なんかちっとも分かっていなかったが、ちひろちゃんの字が見れただけで心が踊った。  その後何度も読み直し、やっと内容を理解する。 「そうか……」  手紙には大きく三つの事について書かれていた。  一つはちひろちゃんは妹に逢えて、フォステリアナの種によって病床から起きた事。  一つは未来に行ってから初めて種ができ、多くの人を救った事。  最後は俺の手紙と写真が、ちひろちゃんを元気付けた事。  ただ安心する。  空っぽだった心の水位は限界まで上がり、俺を満たす。 「よかった……本当に」  封筒を握りしめて、はたと気付いた。  封筒の中には、まだ何か入っているらしい。  逆さにして落ちて来たのは、何枚かの写真。 「はは……は……」  そこには馬鹿みたいに広い温室の中、大勢の人に囲まれたちひろちゃんの写真。  『初めて種が出来た日、栽培スタッフのみんなと』と書かれている。  若い人から還暦を越えてるんじゃないかという人まで、色んな人がちひろちゃんを囲んで笑っていた。  そんなちひろちゃんの手の中には、種が出来た青いフォステリアナ。 「…………っ」  思わず涙腺が緩む。  極度の安心は嬉し泣きを誘うなんて、初めて知った。 「久住くーんっ。片付け終わったよーっ!」  少し遠くから、美琴が俺を呼ぶ声が聞こえる。 「……おう!」  叫号にさえ聞こえる程、大きな声。  俺は写真をしっかり持って、美琴達の元へと駆けた。 > #     --==<< embrace >>==--  もう今年も残すところ少なくなった頃。 「お姉ちゃん、見てこれっ!」  広い温室の中、ちさとが私に向かって走ってくる。  錯覚すら覚える、懐かしい感覚。  フォステリアナが咲く中を駆けるちさとを見るのは、本当に久しぶりの事だった。 「ほら見てっ、花が咲いたのっ!」  そう言って私の目の前に差し出されたのは、大きな花弁を開かせた青いフォステリアナ。  ちさとは秋に退院した後、本人の希望通り栽培スタッフになった。  そしてこの花は、ちさとが咲かせた初めての花という事になる。 「うわぁ、綺麗に咲いたね」 「うん、これなら絶対に種が出来るよっ」 「でも種が出来るのは本当に難しいからね。頑張らなきゃダメだよ?」 「えへへ、大丈夫だよ。この花にかけた愛情は半端じゃないんだからねっ」  花の咲いた鉢植えを抱いて、本当に嬉しそうな顔をするちさと。  きっとちさとは、沢山のフォステリアナに種を実らす事が出来ると思う。  花を育てる事に喜びを見いだし、心の底から愛でる事が出来れば、きっとどんな花だって咲くし、種を付けてくれる。  確証なんてどこにもないけど、事務的に受粉作業をするよりずっと花が応えてくれる気がした。 「これでやっと、受粉作業を教えてもらえるね」 「うん、まずはね……」  集中して作業を教えていると、すでに夜が訪れていた。  所々から聞こえる「お疲れ様ー」という声。  見渡せば、温室は閑散としている。 「じゃあ、今日はこれぐらいにしよっか」 「そうだね、今日は疲れたー」  言いながらちさとはぐっと伸びをした。  表情には確かに疲労の色が浮かんでいるけど、元気そうな事に変わりはない。 「じゃあ今日はしっかり休むんだよ」 「それは勿論……ってお姉ちゃんは帰らないの?」 「うん、私はまだ仕事があるから」 「なら私も手伝う!」 「ダメだよ。さっき自分で疲れてるって言ったでしょ? 今日はゆっくり休むの」 「でも、お姉ちゃんだって疲れてるはずだし……」 「私は慣れてるから大丈夫。だから……ね?」 「う、うん……」  私の心配をしてくれるちさと。  いつも私の事を気にかけてくれるのは、昔からずっと変わらない。  確かに私は疲れていたけど、ちさとのその気持ちだけで疲れは吹き飛んでいった。 「じゃあお姉ちゃん。あんまり無理しちゃダメだからね?」 「うん、おやすみ。ちさと」 「……おやすみなさい、お姉ちゃん」  名残惜しそうにちさとは温室を後にする。  そうしてどんどん温室の人影は夜の帳に溶けていった。 「橘さん、お疲れ様」  最後の一人が出て行くのと入れ替わりに仁科先生が姿を現す。  いつもは私の方から研究室に行かないと会えもしない人が、珍しい事に研究室を出てここに来ていた。 「あ、はい、仁科先生もお疲れ様です」  簡単な挨拶の後、仁科先生は温室を視線で一巡する。  相当疲れているように見える仁科先生は、張り詰めていた表情を崩した。 「かなり、成果が上がってきたわね」 「はい、みんな頑張ってますから」 「知ってるかしら。先発の栽培スタッフ達が、出向先で種を実らせる事に成功したらしいわ」 「本当ですかっ!?」  私は思わず大きな声で尋ねる。  みんな各地で活躍している事が、素直に嬉しい。 「ええ、それとね。もう一つ良い知らせがあるのよ」 「……何ですか?」  私が期待に満ちた目を向けると、目を細める仁科先生。  何故か暖かい雰囲気が、温室を包む。 「橘さんの、任期満了の日が仮決定したわ」 「任期……満了」  頭の中をリフレーンする言葉。  それはつまり、私がこの仕事を完遂する目処がたったという事。  100年前の世界に……久住先輩の元に帰れるという事。 「今の所、3月という事は確定してるの。確かちさとさんの出向予定日も3月だったわね?」 「はい……予定では」 「おそらく、その予定に合わせる事になると思うわ」  久住先輩が……みんながいる世界に戻れるのは嬉しい。  でもそれは、ちさとと別れなければ叶わない事。  ちさととの生活を、ここに置いていかなければいけない。 「……橘」  別れの宣告に心に影がさした瞬間、抱きしめられる。  昔のように私の事を橘と呼ぶ、仁科先生。  ただぎゅっと……私は仁科先生に包まれた。 「頑張ったわね、橘……」  頭を撫でられると、強張った身体が緩んでいく。  ひたすらに懐かしい感覚。  無制限の優しさ。  全てが認められ、許されていく、圧倒的な許容感。  永く忘れていたこの感覚は……母親に抱きしめられる感覚そのものだった。 「辛かったわよね……ごめんね……」  抱きしめる力が強くなる。  私にはちさとがいてくれるから、辛くない。  ずっとそう思ってきたけど、言われてやっと気付く。  私……辛かったんだ。  ずっと……こうして抱きしめられたかったんだ……。 「けど、仁科先生だって……」  こんなに痩せて。  こんなに、疲れていて。 「私は大丈夫。私ももうすぐ、終わるから……」  それでも、私を支えてくれる。  完成された優しさで、私を包んでくれる。 「仁科先生っ……!」             <――私は奈落のように深い安堵に、身を委ねた――> > #     --==<< promise >>==--  無事受験も終わり、自主登校となった二月。  卒業式を目前に控え、それでも温室と家を往復する日々。  繰り返しの毎日は、心に風穴をあける。  そこから吹き込んでくる風は、ただ暗愁と空虚を拡げた。 「ふぅ……」  今日も温室の花達の世話を終え、真直ぐ家に帰ってくる。  気だるい身体が、ソファに沈み込んだ。  ちひろちゃんが未来へ行って、もう一年が過ぎた。  向こうで頑張っている事は知っている。  元気でやっている事は知っているけど……不安になる。  一体いつ帰ってくるんだろう?  俺が卒業したら、誰が温室を維持するんだろう?  受験の時は忙しい合間をぬってみんなが助けてくれたけど、温室をまかせっきりにする事は出来ない。  抱え切れない不安。  いつかは帰ってくるって事は分かっている。  頭では理解しているはずなのに……不安と会いたい気持ちは日増しに膨らんだ。 「ただいまーっ」  茉理の元気な声が、家に響き渡る。  ……茉理はちひろちゃんが去った後も、笑顔を絶やさなかった。  気持ちは俺と一緒のはずなのに……それでも笑えるのは、茉理の強さだと思う。 「あーあ、また直樹ったら沈みこんじゃって」  リビングに入り、ソファでダウンしている俺に言う茉理。  本当に、呆れる程明るい声で。 「そういう茉理は、今日も元気なことで」 「そりゃあね〜」 「そんなにウェイトレス・オブ・ザ・イヤー二年連続トップが嬉しいのか?」 「まあそれも嬉しいけど、今日は別に嬉しい事あったんだ」  言いながら茉理はごそごそと鞄をあさる。  そして取り出されたのは、一つの封筒。 「それって……」  それに書かれた文字を見なくても、それが何なのか分かる。  それがどれだけ待ち望んだものか、分かる。 「うん、宛名にあたしの名前もあったから、先に読ませて貰っちゃった」  差し出された茉理の手から封筒を受け取る。  期待に震える手で、既にあけられた口から手紙を取り出した。 「…………」  無理矢理気持ちを押さえつけて、一文一文を噛み締めながら理解していく。  内容は簡単で、いつもより短くて……一番嬉しいものだった。 「やっと……帰ってくるんだ」 「……うん」  ぱっと視界が明るむ。  そこにあって当然の色達が、鮮やかに輝き出す。 「やっと……やっと帰ってくる!」 「そうだよ、やっとちひろに会えるんだよっ」  茉理と手を取り、年甲斐もなくはしゃぐ。  この喜びを分かち合える人がそばにいて、本当に良かった。 「ちひろちゃんが帰ってくる!」 「うん、うんっ」  バカみたいに同じ事を言いながら、ぶんぶんと手を振る単調な喜びの表現。  だけどそれをいつまでもやっている分けにはいかない。 「はははっ……ふぅ」  ひとしきり嬉しがると、笑いが止む。  いつの間にか握られていた手は離れ、宙に浮いていた。 「…………」  茉理はポスッと俺の隣に腰掛ける。  なんとも言えない沈黙。  空気が変わっていく。  場を支配する感情が、露骨に変貌する。 「直樹、久しぶりに笑ったよね」 「……そうか?」 「うん、合格発表以来じゃないかな……」  今度はふと沈んだ表情を見せる茉理。  ……妙な雰囲気だった。 「直樹……あの……ね」  途切れ途切れの言葉は弾丸となり、頬をかすめ……。 「あたし……直樹の事が好き」  やがて俺を打ち抜く。 「ずっと、ずっと直樹の事が好きだった」  言葉の弾幕。  ……うすうす茉理の気持ちには気付いていた。  それとない仕草や、向けられる眼差し。  気付いていたけど……でも。 「どうして、今なんだ?」  どうして、ちひろちゃんが帰ってくる事が分かった日に。  こんな事言うべきじゃないって、茉理だって分かっているはずなのに。 「耐え切れなく……なっちゃった」  震える肩……泣哭の兆し。 「耐え切れなくなっちゃったんだよ、あたし」 「……茉理」 「さっきの直樹の笑った顔見て、あたしは悔しかった!  直樹が辛そうにしてる時、どうしてあたしじゃ癒してあげられないんだろうって悔しかった!  大好きって言って、抱きしめてあげたかったっ! だけど……だけどそれすら出来なくて……!」  切ない叫喚は、俺の心を大きく揺さぶる。  茉理の頬を流れる涙の川は、ただ美しく……尊い。 「もう我慢できないよっ! 直樹の応えは分かってる! 諦めだってついてる!  でも……でもこんなに好きって気持ちは止められないよ!  伝えられないなんて……辛すぎるよぉ……」  溢れる涙を拭おうともしない茉理。  俺を真直ぐ見つめる、濡れた瞳。  感情を攪拌する、ひたすらに強い眼差し。 「ごめん、直樹……あたしが一番ちひろの幸せを願ってあげなくちゃいけないのに……。  こんなの言っちゃダメだって分かってるけど……あたしのわがままだって分かってるけど……」 「いいんだよ、茉理」  茉理の目元に優しく指を添える。  今の俺に許された、最善の行動。 「いいんだ。自分の気持ちに素直でいいんだよ、茉理」 「直樹、ごめ……うっ……うわあぁぁ……っ!」  泣き崩れる茉理。  俺が出来るのは、震える肩に腕を回してやる事だけ。  茉理は俺に抱きつく事もなく、俺が茉理を抱きしめる事もない。 「ううっ……ぐすっ……うあぁ……!」  泣き続ける茉理の姿は儚くて、弱々しくて、守ってあげなくてはいけなくて……。  それでも、二人に抱擁を交わす事は許されない。  たとえ俺が茉理を抱きしめても、茉理はきっと俺をつっぱねる。  「どうしてちひろがいるのに、あたしを抱きしめるの」って怒るだろう。 「俺……さ」  嗚咽だけが響く部屋を言葉敵に、俺は声を投げる。 「茉理の気持ちを受け入れて、応えてやる事は出来ないけど……」  小さくなっていく嗚咽。  溶けていく言葉。 「ちゃんと受け止めたから。茉理の気持ちは受け止めたから……もう泣くな」  やがて訪れる静寂。  言葉のない部屋は、二人の存在を強調した。 「ぐすっ……ありがと、直樹……楽になった」 「……うん」 「で、でも勘違いしないでよね。あたしが好きなのは、ちひろに優しくする直樹なんだからっ」  さっきまで泣いていたとは思えない強い口調で言う茉理。  それは相手の事を気づかったが故の行動で……茉理の強さだった。 「ちひろに会って、泣いちゃったりしたら、あたし怒るからね」 「分かってるって」 「じゃあ、約束して」  そういって茉理は小指を差し出す。  いつかちひろちゃんと交わした、指切りが頭をよぎった。 「ちひろと会う時は笑顔でって、約束して」 「……ああ」  小指を絡ませる。  ちひろちゃんと同じで、小さくて細い指。 「約束だ。俺は絶対に、ちひろちゃんを笑顔で向かえる」  強く……しっかりと言う。  俺はこの二つの約束を、必ず守る。 「……再会は、笑顔で」 「……うんっ!」  茉理の笑顔に、強く誓った日だった―― > #     --==<< smile >>==--  温室で開かれた、予想以上に盛大だった私とちさとの送別会の帰り道。  月明かりの中、私達はゆっくりと歩いていた。 「ついに、明日だね……」 「……うん」  ちさとは明日、栽培スタッフの指導者として旅立ち、私は過去の世界へと帰る。  一歩一歩近づいてくる別れの時は、もうすぐそこまで来ていた。 「覚悟してたけど……やっぱり寂しいね」 「そう……だね」  思わず遅くなる歩み。  一歩踏み出すたびに別れに向かって歩いているようで、やがて私たちは立ち止まる。 「ごめんね……ちさと」 「え? ……どうして謝るの、お姉ちゃん?」  お姉ちゃん。  私にそう呼ばれる資格なんてあるのかな。  ちさとの元に残ってやれない……家族を置いて行ってしまう私に、そんな風に呼んで貰える資格が。 「ごめんね……一緒に居てあげれなくて……私だけ、平和な世界に帰っちゃうなんて」  知らず知らず震える声。  そんな私の手を、ちさとは優しく握ってくる。  小さくて、暖かい手……。 「いいんだよ、お姉ちゃん。そこにお姉ちゃんの大切な人がいるんだったら、絶対に帰るべきなんだから」 「でも……」 「ねえ、お姉ちゃん。別れって、悲しいだけなのかな?」  突然そんな事を言ってくるちさと。  そんなの……。 「悲しいに決まってるよ……私はちさとと別れるのが悲しい」 「私もお姉ちゃんと別れるのは悲しい。寂しくて堪らないよ。  でもね、別れは人を強くすると思うんだ」  そう言ってちさとは微笑む。  握ってくる手に、少しだけ力が入った。 「お姉ちゃんは過去の世界で、笑う事が出来た?」 「うん……色んな人に助けられて、ちゃんと笑えたよ」 「じゃあそれは悲しみを乗り越えたって事だよ。  お姉ちゃんは強くなった。だから、またきっと笑える。  今は悲しくても、お姉ちゃんはそれを乗り越えれるよ」  ちさとの言うとおりだった。  それは前向きで正しい考え方で……少しだけ納得がいかない。 「でも……ちさとは?」  ちさとは強くなれるの?  ちさとは笑えるの? 「私は大丈夫だよ。ほら、見て」  ふとちさとが指差した先。  その先には明かりが灯った家達。 「あれはね、お姉ちゃんが運んできてくれた希望の光だよ。  お姉ちゃんが伝えてくれたあの花の種は、この世界の希望」  街灯に照らされるちさとの顔は本当に嬉しそうで……私のやってきた事が全て認められていくような気がした。  ちさとの目は強い意思で満たされ、私を元気づけるように輝く。 「お姉ちゃんは死にそうだった私を助けてくれただけじゃなくて、  この世の全ての可能性を運んできてくれたんだよ?  それなのにこれからも一緒にいて欲しいなんて、贅沢だよ」  ちさとは握っていた手を解く。  そして宣誓するように、高らかで強い声で言った。 「私はきっと笑える。この世界を、笑顔でいっぱいにしてみせる!」 「ちさと……ちさとぉっ」  はたと抱きしめる。  月明かりが私たちを包むように、優しく。 「だから……お姉ちゃんも笑って?  お姉ちゃんの大切な人に、笑顔を見せてあげて……?」 「うん……うんっ!」 「約束だよ……お姉ちゃんも、私も笑う……」  ちさとの腕が私の背にまわり、強く抱きついてくる。  胸に広がる暖かさと、切なさ。  別れへのアンチテーゼ。 「私はきっと笑顔でいっぱいにしてみせるから……だから」  限りなく懐かしくて……きっと最後の抱擁。  だから……もう……。 「今だけは……泣いてもいいよね……?」  もう私達に、言葉は要らなかった―― > #     --==<< epilogue >>==--  春。  私たちが出会った季節。  暖かな日差しの中、桜が舞う。  懐かしい風景。  何度も辿った、温室への道。  私はゆっくりと歩みを進める。  “きぃ……”  温室の扉を開け、中へと入る。  晴れやかに咲いた花たちが、私におかえりと言ってくれているような気がした。 「ふぅ……」  まだ久住先輩は来ていない。  早く来ないかな。  早く……会いたいな。  “かさり”  しゃがみ込み、美しく咲いた花を撫でる。  愛情いっぱいに育てられた花。  そんな花だけに許される、目に見えない輝きに満ちている。  “きぃ……”  そして開く、温室の扉。  ひたすらに待ち望んだ人の姿。  私は立ち上がる。 「…………」  あまり変わっていない久住先輩。  その手には、卒業証書の筒。  その顔には、微笑み。  思わず涙がせり上がってくる。  ダメ……こんなんじゃ、ダメ……。 「おかえり」  響く、優しい声。  きっと今までで一番の笑顔。  だから……だから、私も……。 「ただいま……戻りました」             <――精いっぱいの笑顔で、そう言った――> << THE END of 『SMILE』...Thank you for reading. >>