Title:『杏仁クライシス』   ...produced by 滝  原体験となる出来事は、いつの事だったろうか。  天ヶ崎美琴と杏仁豆腐の、運命的とも言える邂逅。  それは美琴にとって過去であり、時間軸的には未来である事に違いない。  さてここに日記がある。  時間軸的に過去の物か、未来の物か定かではない。  赤いハードカバーの日記帳には、その豪奢な様相に似合わず、太いサインペンで殴り書いたような字が躍っている。  『杏仁日記』  果たしてこれは何なのか?  全く、想像し易い物である事は分かって貰えると思う。  そしてこの日記は、次のようなページで幕を開ける。 『4月7日  寮についた。すごくきれいな所だけど、食堂がなかった。  なんでも、学園のしきち内にあるカフェテリアまで食べに行かなければダメなんだって。  すごく面倒だと思っていたけど、私はカフェテリアに行ってみてその考えをあたためた。  料理がとってもおいしい! そしてデザートに頼んだ杏仁豆腐!  缶詰の杏仁豆腐ばかり食べいた私には、手作りの杏仁豆腐はしょうげきだった!  しっとりと柔らかい食感。主張しすぎないアーモンドエッセス。コクがあって、なおかつ杏仁の風味を大事にしてる。  そして好感がもてるのは、杏仁豆腐に勝ってしまいがちのフルーツがすごく少なかった事!  かわいいさくらんぼがちょこんとのっているだけ。もうミカンと一緒に杏仁豆腐は食べられないね!』  誤字脱字を多さを見ても分かるように、この日の美琴は相当に興奮していたらしい。  そして日記は以下のように続く。 『4月9日  今日の帰り道、久住くんにコンビニの場所を教えてもらった。  そこで買ったのはもちろん杏仁豆腐!  名前は『すっぱい青春! 杏仁豆腐』って書いてあった。  私はすごくわくわくしてそれを食べたけど、わたしの求める物とはちがった。  酸味が強すぎて、杏仁の風味をこわしてしまっていた。  それにフルーツ多すぎ。あんまり中身を見ないで買っちゃった。  今度から気をつけよう』 『4月18日  今日は寮の友達3人で、中華料理を食べに行った。  頼む前からセットに杏仁豆腐が入っているのは、すごくうれしい。  料理もおいしかったけど、ここの杏仁豆腐もなかなかおいしい。  でもちょっとさっぱりしすぎかな。デザートである事を意識しすぎてるみたい。  私はもっとコクがあるのか好きなんだよー』  日記は延々と続いた。  やがて『久住くん』は『直樹』になり、その固有名詞の登場回数が増えた。  エクスクラメーションマークの使用回数も増え、美琴を心情を書き表すには十分だった。  夏が終わる頃の日記には、杏仁豆腐とは関係ない事が沢山書かれたり、紆余曲折しながらも日記は続く。  そしてまだインクが滲んで乾き切っていないページが次だ。 『1月22日  今日直樹と行ったお店はほんとにすばらしかった。  ありえない、味わった事のないフルフル感。すさまじくクリーミー!  ほとんどばしる杏仁の風味! 杏仁豆腐を引き立てるげんせんされフルーツ!  私はほんとに感動した、こんなにおいしい杏仁豆腐があるなんて。  わざわざ杏仁豆腐のおいしいお店を探して連れて行ってくれた直樹にも感者しなきゃ!  そして私は目覚めた。こんな美味しいお店には中々これないから、もう自分で作るしかない。  そう思って私は帰りに直樹と一緒に食材がいっぱいおいてあるスーパーに行って、杏仁霜を買ってきた。  杏仁を粉末にした杏仁霜。杏仁霜はわたしに第二のしょうげきをくれた。  袋には「お飲み物等に入れても美味しくいただけます」って書いてあった。  お茶に溶かして飲んでみたら……まさしく次世代の味がした。すっきりして、すこくおいしい。  色々試してたら、杏仁豆腐作るの忘れちゃったけど、まあいっか。  それよりこの事実を後世に語りつがきゃ!』  さて、今一度誤字脱字の多さに着目し、いかに美琴が興奮しているか察して欲しい。  この杏仁霜(あんにんそう)との出会い。如何にして、美琴達に感化を与えるのか――           #          #          #  翌日。 「天ヶ崎先輩とご一緒するのって、久しぶりですね」 「そうだねー。食べる時間帯は大体一緒でも、中々一緒にならなかったよね」  美琴とちひろは、慎ましやかにテーブルを囲んでいた。  休日の夕暮れ時のカフェテリアは、寮生や部活帰りに一息つこうという連中で、僅かながらも賑わっている。 「ところで天ヶ崎先輩……この豆腐、どうするんですか?」 「ああ、これね」  ちひろの視線の先端。  そこには空になった食器に混じって、豆腐だけが装われた小皿があった。  美琴が「冷奴の醤油と生姜と鰹節抜き!」と稀有な注文をして、オーダーを取りにきた茉理に訝られた結果がこれである。 「ふふふふ、まあ見ててよ」 「はぁ……」  一体何が始まるのか、と少量の期待を込めてちひろは美琴の動向に注目した。  美琴はスッとジーンズのポケットから平たい小瓶を取り出し、テーブルの上に置く。 「じゃーん」 「これは……?」 「杏仁霜。杏仁豆腐の素みたいな物だよ」 「なるほど」  何故美琴がこんなにも楽しそうにしているのか得心のいったちひろは、小瓶の中身をまじまじと見た。  それには何の変哲もない白い粉末が、ぎっしりと詰まっている。 「で、これを豆腐にかけると……」 「杏仁……豆腐?」 「そう!」  ちひろの応えに満足のいった美琴は、小瓶を開けてパッパと豆腐に粉をかけた。  全くもって美琴らしい発想であるが、その結果は如何なるものか。 「いざ、即席杏仁豆腐!」  意気込んで美琴は粉のかかった豆腐を切り崩し、その一欠けらを口の中に放り込んだ。  舌を転がす美琴を、ちひろは心配そうに見つめる。 「…………」  沈黙。そして微量の冷や汗。 「ま、まあ、これはこれという事でっ、橘さんにお勧めの一品があるんだよっ」 「そ、そうなんですか?」  激しく話を切り替える美琴に、先輩にウケがいい娘トップ3に名を連ねるちひろは言及する事を止めた。  早い話が失敗だったという事は、誰にでも分かる事だ。 「名付けて杏仁ティーなんだけど、ちょっと待ってね」  そう言うと美琴はホットで頼んだ紅茶に杏仁霜を大さじ一杯程いれ、スティックでかき混ぜてそれを溶かす。  ちひろはさっきよりずっと心配そうに、件の飲料が作られていく過程を眺める。 「はい出来上がり。さあ、飲んでみて」 「……いいんですか?」  ちひろの遠慮は不安から来るものなのか、美琴の頼んだ物を先に口に付けてしまう事に対してなのかは不明だが、美琴は肯定の笑顔と共に首を縦に振った。 「い……いただきます」  意を決してちひろは“杏仁ティー”を飲む。  息を吹きかけて冷ましながら、少しずつ。 「…………」 「……どうかな?」  再び場を支配する沈黙に不安を覚えた美琴は、覗き込むようにちひろに伺いを立てる。 「……美味しい」 「……え?」 「美味しいです、凄くっ!」  綻ぶちひろの表情。  それに誘発されるように、美琴は顔の緊張を解く。  そう、果たして杏仁ティーは、万人に受け入れられうる可能性を持った、美琴製杏仁食品の筆頭となる物だったのだ。 「ほ、ホントに?」 「はい、凄く爽やかで、杏仁の風味とよく合ってると思います」 「やった!」  美琴はちひろの手を取るとブンブンと上下に振った。  ちひろははにかみながらも、それに応える。  嗜好性の一致は、連帯感と共により強い絆を作りだす。  美琴はある種の全能感さえ手に入れたような気分になっていた。 「あの〜……お皿お下げしてよろしいですか?」  一体何事なのかと不思議そうな顔をした茉理がテーブルにやって来ると、美琴はすかさず杏仁ティーを茉理に突き出す。 「さあ、茉理ちゃんもどうぞ!」 「ええっ!? あ、あの……いただきます」  美琴の勢いに負けた茉理は他のホールスタッフに見られていないか視線を巡らせた後、コップに口をつけた。  口を窄め、熱い杏仁ティーをすするようにして飲む。 「…………」  暫くの思案。 「なんか新しい味……でも美味しいですね、これ」 「やったぁ!」  美琴はちひろの時と同じく、茉理の手を取りブンブンと振った。  はしゃぐ美琴と翻弄される茉理は視線を集める。  だがその微笑ましい光景に多くの者は頬を緩ませ、また元の会話に戻っていったのだった―― 『1月23日  今日は晩御飯を橘さんといっしょに食べた。  その時に橘さんと茉理ちゃんに杏仁ティーを飲んでみてもらったけど、これが大ヒット!  杏仁の良さが世界的に認めらるまでの道のりの第一歩をふみ出した感じ。  それから昨日買ってきた杏仁霜をホットミルクに溶かしてみた。  杏仁豆腐を飲んでるみたいで、やっぱり美味しい!  でもやっぱりインパクトは杏仁ティーの勝ちかな。  きっと杏仁霜は何に溶かしてもおいしいんだろうなぁ』           #          #          #  翌日の月曜日。 「……で、俺のコーヒーにその粉を入れろと?」 「うんうん」  美琴達は相変わらず天文席で、“部活動に精を出していた”。  テーブルには、結と弘司の姿もある。 「天ヶ崎さんは、それを入れてコーヒーを飲んだ事があるの?」 「ないけど、きっと美味しいよ」 「……おいおい」  弘司の質問にさらりと流すように答える美琴。  その全く根拠のない自信に、直樹は思わず肩を下げた。 「そうだ、野乃原先生もどうですか?」 「え、私ですか?」  自家製プリンと微笑みあっていた結は、突然話題をふられて反問する。  美琴は杏仁霜の入った小瓶をずずいと結の前に置く。 「なんですか、これは?」 「杏仁霜です。これをかければ杏仁風プリンの出来上がりです」 「わあ、それは美味しそうですね」  結の瞳が未知なるプリンへの期待に彩られた。  じゃあ少し貰いますね、と言って結はプリンに杏仁霜を振りかける。  普通杏仁霜は熱い湯に溶かして使用する物だが、そんな事知ったこっちゃないといった感じで、躊躇いなくかけた。 「どれどれ……」  胸を躍らせながら結はプリンをすくい、口に運ぶ。  テーブルを囲んだ一同は、結の一挙一動を固唾をのんで見守る。 「これは……中々いけますね」 「ほらねっ、杏仁霜は何にでもあうんだよ」 「うーん……」  それでも直樹は疑惑の念が拭えない様子だった。  何せ結はファナティックなまでのプリン好きだ。  彼女はプリンと名打たれた物なら何でも食し、美味いと言うに違いない。  直樹はそう考えていた。 「まだ信じられない?」  美琴は子犬のような、何かを請うような眼で直樹を見る。  直樹はたじろぐ。 「そ、そんな事はないぞ」  結局、搾り出した声は美琴の申し入れを許容する方向を示した。 「はい、久住くん」  結はトン、と小瓶を直樹の前に置く。  直樹は落胆を隠しながら、その瓶の中身を少しだけコーヒーに入れた。 「さ、グイっと」 「グイっと飲んだら火傷するだろ」  言いながら、渋々とコーヒーを飲む。  直樹の表情は固くなる。 (ま、不味い……)  直樹は率直にそう思った。  コーヒー本来の風味と味を愛する直樹にとって、杏仁の風味を追加するなど邪道中の邪道だったのだ。 「ね、どう? 美味しい?」  そんな直樹の心中も知らず、美琴は期待に満ちた眼で彼を見つめる。  まるで手料理を振る舞い、その感想を請うかのような様相に、直樹は悩む。  はっきり言ってしまっていいのだろうか? 美琴の期待を切り捨ててしまっていいのだろうか? 「いいか美琴。俺の彼女たる者、読唇術ぐらい会得していなければならない。今から口パクで感想を言うから、読んでみろ」  苦悩と推敲の末に導き出した台詞は、全くもって理不尽なものだった。 「? よく分かんないけど」 「じゃあいくぞ」  直樹は口パクにて感想を示す。 (ま・ず・い!)  分かり易いように、大きく口を動かした。  だが直樹は失念していた。  美琴はシニシズムのあんちくしょうも大爆笑のスーパーポジティブシンキング回路の持ち主である事を。 (う・ま・い♪)  美琴回路は、そう判断した。 「よかったっ」  “ざっぱ、ざっぱ”  水位が上がったのが目に見えて分かる程、美琴は杏仁霜をコーヒーカップに入れた。 「ぬおぉぉぉっっ! 何しとんじゃあっ!!」 「え? 美味しいんじゃないの?」  いつの間にか美琴は直樹の手を取り、彼女は不安そうに彼をみる。  直樹は言葉に詰まった。強く握ってくる美琴の手が、次の言葉を塞ぐのだ。 「お客様ー、当店はバカップル反対同盟加盟店ですので、店内での耽溺的な愛情表現はご遠慮下さいー」  ……とそこに大声を聞きつけた茉理が、手を取りあう二人を勘違いしながらやってきた。 「おい、これのどこが耽溺的な愛情表現なんだよ」 「聞いてよ茉理ちゃん。直樹がわたしお勧めのコーヒーの感想を言ってくれないの」 「いやー、お熱いですねー。恋もコーヒーもお熱いうちにどうぞ。としか言えません」 「茉理……」 「あ、でも店内で召し上がるのはコーヒーだけにして下さいね。ではごゆっくり」  言いたいだけ言って、茉理は「熱い熱い」とトレーを振りながら仕事に戻っていった。  そこに残されたのは、一つの侘しさ、一つの期待、二つの苦笑だけである。 「……で、久住くんはそのコーヒー、どうだったんですか?」 「直樹、いい加減応えるべきだと思うぞ、俺は」  二つの苦笑は催促と化し、直樹をせっつく。  直樹は再び言葉に詰まったが、やがて腹を決めた。 「分かった。正直に言う。はっきり言って……」 「はっきり言って?」 「はっきり言ってはアレは――」 『1月24日  今日は学園に杏仁霜を持っていった。  結先生いわく、プリンにかけてもおいしいらしい。  飲み物だけじゃなく、食べ物でおいしいっていう事が分かった。これは大発見!  でも直樹のコーヒーに入れてもらったら、散々じらした後に「まずい」だって。  うーん、何でコーヒーはおいしくなかったんだろ?  何か足した方がよかったのかな?  ちゃんと直樹にも杏仁霜の良さを知ってほしいな……』           #          #          #  翌日。 「ねぇ、直樹。付き合ってくれる?」  ざわり。  教室に響き渡るような美琴の大声に、放課後のクラスの視線が一斉に直樹の方を向く。  メイプルシロップと胡麻油を持った美琴に戦慄を覚える直樹。 「今日もカフェテリアに行こう?」  視線は一旦美琴の持ち物に移った後、また直樹に方に戻る。  一体何が始まるんだ? と視線が詰問した。 「ちょっと待て。今日は弘司と結先生の都合が悪いから部活動は中止だと……」 「いいから行こうよー」  美琴は嫌がる直樹の腕を引っぱる。  集まっていた視線は、「何だ、またバカップルの茶番か」と霧散していく。  人の興味など、その程度のものだ。 「今日こそ、杏仁霜のよさを分かって貰うよ」 「本気か?」  直樹は冷や汗を感じながら、美琴の手の内にあるメイプルシロップと胡麻油を見る。  マジっすか。美琴さんそれ入れるんすか。本気で、それを俺のコーヒーに入れるんすか。 「本気。ほら、二人っきりの部活動も楽しいよ、きっと」  直樹にとってそれは危機だった。  よっぽど肝が据わっていないと、危機を楽しめるわけがない。  何かこの窮地を脱する案はないのかと、直樹は逡巡する。 「待て美琴、今日は父親の十回忌で……」 「ありえるとしたら五回忌か六回忌だね。はい、レッツゴー」  バレバレの嘘で、直樹は自分の首をしめた。  これで退路は断たれたのだ。 (まずい……あんな物をコーヒーに入れられた日には……)  直樹は甘ったるくて胡麻と杏仁の風味がするコーヒーを思い浮かべ、ぞっとした。  それだけは避けねばなるまい。  いつもは半分も使っていない脳をフル回転させて、直樹は打開策を探す。 (そうだ! コーヒーを頼まなければいいんだ)  誰でも辿り着きそうな答えを導き出すと、直樹は胸を張って歩きだした。 「よし、行こうじゃないか、カフェテリアへ!」 「? 急に態度変えちゃって、変な直樹」 「ほら、おいてくぞ」 「うわわっ、引っ張らないでよ〜」  二人は腕を絡ませたまま、カフェテリアを目指した。           #          #          # 『1月25日  今日は直樹と二人っきりでカフェテリアに行った。  直樹はいつもと違って、カフェオレを注文した。  出来れば直樹の好きなコーヒーで杏仁の風味を楽しんで欲しかったんだけどな。  まあそれは仕方ないか、と思ってまた杏仁霜を入れようとしたら、意外な事に直樹ったら「どんと来い!」って言ってくれた。  だから私は思いっきりメイプルシロップと胡麻油と杏仁霜を入れたけど、あの匂いは無いよね。  さすがに私は飲む気になれなかったけど、直樹はがまんして飲んでた。すごいと思う。  ざっしの運勢占いで「今月のラッキーフーズ」にメイプルシロップと胡麻油って書いてあったから入れてみたけど、  やっぱり運任せはダメだね、うん。  もうちょっとマジメに考えてみよう……』  美琴はそこまで日記を書くと、ペンを置いて息を吐いた。  彼女は考える。一体どうすれば、杏仁とコーヒーをマッチさせる事が出来るのか。  思案に暮れる彼女の姿は、一義的な好意を異性におくる献身的な女性以外の何物でもない。 (コーヒーと杏仁豆腐の中間をとれば、ちゃんと飲める物になるかな……?)  “ばふっ”  考えながら、ベッドに飛び込む。  そばにあったぬいぐるみを抱くと、髪が絡まる事も厭わずにそのままゴロゴロと転がった。 「うーん、どうすれば……」  “ごろごろ、ごろごろ……”  懊悩の極み。  転がるのを止めて、ぬいぐみを天井にかざす。 「なかなか難しいねー……」  語りかけてみても、思案に余る事に変わりはない。  その日美琴は何千回と転がった末に、眠りについた――           #          #          # 「ふあぁ……」 「なんだ美琴、眠そうだな」 「そう言えば天ヶ崎さん、授業中ずっと寝てたよね」 「あはは……昨日、ちょっと寝るのが遅かったから」  翌日の放課後。いつもの席と部活動。  甘やかな冬の日差しに抱かれた天文部員達は、無為な雑談に興じていた。 「それに、ちょっと早起きしちゃったし」 「いつも遅刻寸前の美琴が? 珍しいな」 「まあまあ、早起きはいい事ですよ」  ふとそこへ結が現れる。  彼女がちょこんと椅子に座ると、近くにいた茉理が注文を取りにきた。 「いらっしゃいませー。何になさいますか?」 「私は自家製プリンで」 「俺はカプチーノとミックスピザ」 「わたしはコーヒー!」 「美琴がコーヒーとは更に珍しいな。じゃあ俺はコッフィで」 「メニューに無いご注文はお受けできませーん」 「まだまだ修行が足らんな。コーヒーをネイティブっぽく発音しただけだ」 「だったら『じゃあ俺は』とか言わないでよ、似非ネイティブ」 「なんて態度の店員だ。責任者に出てきて貰おう」 「ご注文は以上ですか?」 「はい、以上で」 「かしこまりました。少々お待ち下さい」  直樹の発言を見るも鮮やかに放置すると、茉理はテーブルを離れる。  直樹の表情は渋面を呈していた。 「く、屈辱っ」 「直樹が変な事言うからだよ。それより何で早起きしたか聞きたくない?」 「聞いて欲しいなら素直にそう言えよ」 「いいよ、勝手に言うから。今日はなんと、これを買って来たのです!」  美琴はそう言いながら小さな袋を取り出し、ビシッと直樹につき付ける。 「天ヶ崎さん、何ですかそれは?」 「コーヒー用ホワイトチョコレートムース、です」 「おお、今回はまともそうだ」  直樹は安堵に表情を緩める。  「なんで買ってきたのか」とか、「どこで買ってきたのか」等とあまり意味の無い会話を交わしていると、注文した品が各々の前に並べられた。  さて、これからが要である。 「じゃあ、直樹もこれを入れてみてね。あと、杏仁霜も」 「はいはい」  そう言うと二人はムースと杏仁霜をコーヒーに溶かす。  コーヒーの香りと、ホワイトチョコの甘い匂い。そして微量の杏仁の香り。  以前のように不安はなく、二人の中で期待が膨らむ。 「へえ、今日のはちょっと美味しそうなんじゃない?」 「ええ、色々混ざってますけど、悪くはない香りですよね」  それは二人以外の者にとっても同じ事のようで、弘司と結は好意的な感想を述べた。 「さて、肝心なのは飲んでうまいかどうかだ」 「うん、それじゃあ……」  美琴と直樹は目配せすると、同時にコーヒーを飲んだ。  じっくり味わった後に食道を通過させ、後味に舌を任せる。  口腔と鼻腔で、風味を解釈する。 「うまい……」  ボソリと、空気が漏れるように直樹は言う。 「おいしい……」  それに倣ってか、美琴は同じように感想を漏らす。  そう、コーヒーと杏仁は、ホワイトチョコレートムースという架け橋を経て、見事なコラボレーションをして見せたのだ。 「やった、直樹! おいしいよ、これっ!!」 「ああ、杏仁とコーヒーでも合うもんだな」  美琴は大喜びしながら直樹の手を取ってブンブンと振る。  直樹は「しょうがないな」いった感じでそれに応える。  苦笑する結と弘司。  たまたまそばを通りがかった茉理は、やれやれと肩をすくめた後、微笑んでその場を後にした―― 『1月26日  ついにコーヒーと杏仁があいまみえる事ができた!  やっぱり自分の好きな物を認めてもらえるって嬉しい。  好きなものを共有できるっていうのも、すごく嬉しい。  昨日遅くまで考えて、早起きして買いに行ったかいがあった。  もっともっとこんな事があれば、私たちはきっともっとお互いを分かりあえるよね……直樹?』           #          #          #  こうして、杏仁霜を発端とした物語は幕を閉じる。  そしてこれは余談になるのだが、美琴はきたるバレンタインデーに、ホワイトチョコレートを直樹に送った。  ホワイトチョコレートムースがコーヒーと杏仁を結んだように、「そのチョコレートが二人をもっと強く結ぶように」と―― <Fin>