Title:『Future World』   ...produced by 滝  全身が痛かった。  まるでどこか高い所から落ちたかのように、酷い痛みが俺を支配していた。 「…………っ」  痛む肘や足を庇いながら、身を起こす。  風に舞う砂埃が俺の視界を狭める。 「……どこだ……ここ?」  どこかの町である事は分かった。  だけどこんな寂れた町は見た事もない。  誰も歩いていない道。変な形をした建物。  とても生きている町だとは思えない。 「…………痛っ」  立ち上がろうとして、そのまま尻餅をついた。  どうやら足を捻ってしまっているらしい。  全身を襲う痛みと気だるさに、俺は身を横たえる。  遠くに稜線が見え、夕陽の一部が隠れている事から、今は夕暮れ時だという事が分かった。 「俺は……」  俺はここで何をしていたんだろう?  どうして、ここに居るんだろう?  茜色の空と対面しながら考えても、何も浮かんでこない。思い出せない。 「……大丈夫?」  ふとどこからか声をかけられ、思わず身を強張らせる。 「こんな所で何してるの?」  俺が声のした方を向くより早く、声の主は俺の前にまわってきた。  俺と同じ歳ぐらいの、ポニーテールの髪型をした女の子だ。 「……分からない」  身体を庇いながら、再び身を起こす。 「名前は?」  そこで気が付いた。  俺はどうしてここにいるかという記憶だけじゃなく、自分の名前という記憶すら無い。 「どうしたの?」  女の子は心配そうな顔で俺を見る。 「……思い出せないんだ……」 「思い出せないって……自分の名前だよ?」 「ああ……」  記憶の引き出しをいくら開けようが、中身は空ばかり。  大変な事になった。大切な物を失くしてしまった。  そう頭で考えても何を失くしたのかすら分からないから、来るはずの喪失感も無い。  沈黙だけが、場を満たしていた。 「……ウチに来る?」  暫くした後、何故か彼女はそう言った。  まるで今から家に遊びにくるか?と聞くように。  本当に自然に、軽く。 「……そうする」  だから俺も軽く答えた。  どうせ行くあてなんか無い。  それなら、この女の子について行ってみようと思った。 「肩を貸してくれるか? 足、挫いちゃったみたいでさ」 「うん」  女の子に肩を借り、ゆっくりと立ち上がる。 「大丈夫?」 「まあ、何とか」  夕陽はいよいよ稜線の下に隠れようとしている。  変な形をした建物達は、夜の帳の中に身を沈めようとしていた。  そこで俺は忘れかけていた現状を思い出す。 「ところで……ここはどこなんだ? 日本なのか?」 「え? うん、日本だよ」 「ちなみに西暦は?」  女の子はさも当然という顔で、言った。 『2099年』           #          #          # 「……という事で、キミを養子に迎えたいと思うんだ」  随分と都合の良い話だった。  あれから女の子に肩を借りて歩き、辿り着いたのは小さな家。  家は見慣れないデザインをしていたけど、そんな事はどうでも良かった。  それから警察署らしき場所に連れて行かれ、いろいろ検査を受けた。  その後もいろいろたらい回しにされた挙句、引き取りに来てくれたのがこの男性だ。 「美琴も前から弟が欲しいって言っててね」  そう言って微笑みかけてくる、年嵩のいった女性。  あの女の子――美琴の母親にあたる人らしい。 「どうだろうか?」  人のよさそうな顔をした、こちらも年嵩のいったさっきの男性が俺に問いかける。  早い話が、記憶も身寄りもない俺を引き取ってくれるというのだ。  話自体は突拍子も無かったが、ありがたかった。 「…………」  場を沈黙が支配し、何の音も聞こえない。  俺の頭はフル回転していた。  何故か目覚めたら100年後。  100年後という事は分かるくせに、自分の事は分からない俺。  荒唐無稽な展開だらけで、頭がこんがらがる。  それでも、俺は選択しなければならない。 「……うん」  長い沈黙の後、そう一言だけ言った。  こんな軽々しく家族としての契りを交わしていいものかと思ったけど、俺には頼れる人など居ない。  居るとすれば、俺を受け入れてくれるというこの人達だけだ。  孤児院のような場所に放り込まれるぐらいなら、この場の流れに合わせた方がずっとかいい。 「よろしくお願いします……えっと、お、おと……」 「ははは、無理して呼ばなくていいんだよ。知り合ったばかりの人間を、『お父さん』なんて言えないだろ?  おじさんでいいよ」 「あ……うん。よろしく、おじさん、おばさん」 「やったー!」  そこで今まで黙って成り行きを見守っていた美琴が声をあげた。  満面の笑顔で俺に近づいてくる。 「ねえねえ、じゃあ私の事は『お姉ちゃん』って呼んで!」 「何でだよ。俺と同じ歳ぐらいじゃんか」 「こら、美琴。さっきまでのお話聞いてなかったの?」  母親に窘められ、頬を膨らませる美琴。 「だって、私は弟が……」 「まあそれは追々慣れていけばいいだろう? それより先に決めなければいけない事がある」  そう言っておじさんは俺を方を見る。 「名前、決めないとな」  そうだ……俺には名前がない。  俺が誰をどう呼ぶかなんて、それは後でどうにでもなる。  だが俺には、呼ばれる名前すら無い。 「ふふっ、それならいいのがあるじゃないですか」  おばさんは微笑みを絶やさないまま、おじさんに目で合図を送った。 「そうだな。もし美琴が男の子だったら、付けようと思っていた名前があるんだ」  美琴は初耳だといった感じで目を輝かせる。  俺も、耳を澄ませた。 「祐介……なんてどうだろう?」  ――祐介。  それが、俺に与えられた名前だった。           #          #          #  翌朝。  俺は妙に寝心地の良い布団の中で目が覚めた。  四畳半ぐらいの大きさで、本棚ぐらいしか置かれて居ない、殺風景な部屋。  今日から、俺の部屋ということになるらしい。 「…………はぁ」  そこまで思い出して、溜息が出た。  どうやら記憶が無いのも、100年後の未来に来てしまったのも、夢ではないらしい。  “ばたんっ”  俺はさっさと身支度を済まし、階段を下りてリビングへと向かう。  窓のようにガラス張りになっているドア。  確かここがリビングだったはずだ。  “きぃ……” 「お、祐介。おはよう」 「祐介、おはよう。昨夜はよく眠れたかしら?」 「おはよう。昨日はぐっすりだったよ」  リビングではおじさんは新聞を読み、おばさんは朝食を作っていた。  俺の気のせいかも知れないが、『祐介』と名前を呼ぶ時、二人は少し嬉しそうだ。 「美琴ももうすぐ起きてくると思うわ」  俺が食卓に着くと、次々に料理が運ばれてくる。  ご飯。味噌汁。玉子焼き。焼き魚。  どれも俺が良く知っている料理で、100年というギャップは感じない。 『……となり、来週はよく晴れた日が続きそうです。  さて、先日ついに感染者が10億人を越えたウイル……』  ただ俺が本当に100年という時を超えてしまったのだと確信させられる物がある。  TVだ。リビングにおかれたTVは凄く薄っぺらで、ディスプレイの部分以外は透明になっている。  その透明の部分には何本かのカラフルな線が通っており、それが情報を伝達している事が見て取れた。  少なくとも、俺が居た時代では出来るはずもない事だ。 「おはよ〜……」  丁度料理が全部揃ったところで、寝惚け眼の美琴が姿を現す。  美琴が席に着くと、口々に「いただきます」と言って食事が始まった。 「美琴。今日は祐介に町を案内してやってくれないか?」 「え? うん、いいよ」 「祐介も、町の事を知ってないと不自由するでしょうしね」 「本当なら父さん達もついて行ってやりたいが、ちょっと用事があってなぁ」  俺が口を挟む隙も無い程に、とんとん拍子に話が進む。  こういう会話のスムーズさは、家族であるが故に出来る事だと、俺は頭の隅っこで考えていた。 「帰りにでも身の回りの物を買ってくるから、今日のところは美琴と町を見てらっしゃい、祐介」  話の最後におばさんは俺に笑いかけながら言う。 「ああ、行ってくるよ」 「じゃあ、感染に気をつけてね」  その時はまだ、おばさんが何を言っているのか分からなかった。           #          #          # 「それにしても、いいタイミングだったね〜」 「……何が?」  俺は言われた通り、美琴に町を案内してもらっていた。  やはり建物は変な形というか、よくこれで建っていられるなと思うぐらい妙な構造をしている。 「昨日、祐介が倒れていた事だよ。丁度一昨日の夜、ウチで養子を取ろうっていう話が決まった所だったの」 「ふーん。何でまた養子なんて?」 「こんな時代だし、身寄りが無い子供がいっぱい居る。美琴がどうしても弟が欲しいっていうのなら、養子を取ろう」 「……っておじさんが言ったと?」 「うん! そこで狙い澄ましたかというぐらいのタイミングで祐介が現れたの」 「なるほど……」  そうこう話しているうちにアーケード街らしきところに着いた。  昨日俺が目覚めた場所と違い、沢山の人が歩いている。 「はい、ここが商店街ね。大抵の物はここで手に入るんだよ」 「……ところでなんでアーケードが黒いんだ?」  アーケードは黒いフィルターで覆われ、折角の太陽の光を相殺してしまっていた。  所々に道を照らすように照明が設けられ、無駄な事この上ない。 「えっと、紫外線を防ぐため、とか言ってた。夏場にずっと素肌を見せてたら、皮膚ガンになっちゃうからね」  俺は少し考え、すぐ理解した。  つまりオゾン層の破壊が進んだ結果だというんだろう。  オゾン層の破壊問題を覚えているくせに、自分の身の回りの事を何も覚えて無い自分に、少しだけ苛立った。 「あれが服屋さんで、その隣が靴屋さんで……」  美琴の案内のもと、商店街を練り歩く。  やがて商店街が途切れたところで、立ち止まった。 「ところで美琴」 「美琴じゃなくて、『お姉ちゃん』って呼んで欲しいなぁ」 「……やだ」 「なんでよぅ」  心底残念そうにする美琴。  どう見たって『お姉ちゃん』ぽくないし、何より『お姉ちゃん』なんて呼ぶのが恥ずかしかった。 「呼んでも『姉貴』だな」 「じゃあそれでいいよ、うん!」  美琴は満面の笑みを見せる。  姉と認めさえする呼び方であるなら、何でもいいらしい。 「姉貴」 「なぁに? 祐介」 「……やっぱ美琴」 「む〜」  やはりどうしても姉っぽくなかった。 「まあいいや。それで、何を言おうとしてたの?」 「そうそう……何で昨日俺が倒れていたところは人が居なかったんだ?」  美琴に言われて、俺は忘れかけていた疑問を投げかける。  すると美琴は少し悲しそうな顔をしながら、さらりと言った。 「あそこはね、捨てられたの」 「……捨てられた?」 「うん。感染者が増えすぎちゃったから……」 「なあ、おばさんも言ってたけどさ。感染ってなんの事なんだ?」 「あ、そうか、祐介はウイルスの事も忘れちゃってるんだね」  ――ウイルス。  あまりいい話ではなさそうだ。  美琴は真剣な顔で、俺に語りかける。 「いい? 覚悟して聞いてね?」 「あ、ああ……」 「……二年ぐらい前からなんだけど、マルバスっていうウイルスが――」  美琴の話をまとめるとこうだ。  致死性のウイルス・マルバス。  マルバスには感染したらすぐ死んでしまう甲種と、感染しても何年か生きられる乙種がある。  乙種の感染方法は体液感染しかなく感染力は低いが、発見が遅れたため輸血用血液を中心にマルバスは世界中に蔓延した。  そしてつい最近、乙種感染者は10億人を突破。  ウイルスの抗体はおろか、ワクチンも出来ていない状態だという。  俺の倒れていたあの場所は感染者が増えすぎた為、人々は離散し、感染者はキャンプと呼ばれるマルバス患者専用の病院に収容された。  そして“あの町は捨てられた”というわけだ。 「でも、なんで感染力は低いはずなのにそんなに広まるんだ?」 「ウイルスを見つけるのが凄く難しいんだって。症状がでてからじゃないと患者だって分からないから、  どんどん広まっていっちゃった……っていう事なの。ほら、あれを見て」  そう言われて俺は美琴の指差した方を見る。  大きな……体育館のような建物が見えた。 「あれが、キャンプって言われている建物。キャンプの中には、本当にテントを張って作ってあるものもあるの。日本にはまず無いだろうけど」 「なんか……体育館みたいだな」 「うん、元は市民体育館だから」  それを聞いて、事態の深刻さを理解した。  病院だけじゃ手に負えない程、感染者が多いという事だ。 「看病していて感染……っていうのも多いらしいから、あんまり近づかない方がいいよ。  それに、病状が進むと凶暴化する事が……」  そこまで説明を聞いた時だった。  その“キャンプ”から走ってくる人影があるのだ。  人影はどんどん近づいてくる。 「うああああああああっっっ!!」  絶叫を上げながら接近して来たのは目を血走らせた中年男性だった。  獰猛な瞳の奥から、これでもかいうほどの狂気と危険を感じる。  これは異常だ。とにかく逃げなければ。  そう思ったところで、俺が行動を起こすより早く、美琴に手を引かれる。 「こっちっ!」  二人して路地裏のようなところに転がり込む。  “ぱすっ”  丁度俺達が逃げ込んだ路地の入り口を男が通りがかった時、その音が聞こえた。 「な……何なんだ?」  見れば男はバタリとうつ伏せに倒れ込んでおり、背中には何かが突き刺さっている。  恐怖で身体が強張って動けない。  やがて倒れ込んだ男性の元に二人の男が駆け寄り、手袋をした手で突き刺さっている物を抜き取る。  どうやら、男性に突き刺されたのは注射器であるらしい。  二人の男は俺達に気付いた様子もなく、さっさと男性を連れて視界から消えた。 「美琴……?」  美琴の方を見る。  さっき俺を路地裏に引き込んだ勢いはどこへやら、美琴は俺の服のそでを掴んで震えていた。 (一体どうなってるんだよ……『未来の世界』ってのは……!?)  ウイルスの所為で、どこかが狂いだした世界。  記憶が無いという不安より、もっと強大で圧倒的な絶望が、世界を支配していた。           #          #          #  ――あれから数ヶ月。  空っぽの俺の頭は、100年後の未来という現実を受け入れるのに適した器だったのだろう、もう随分とこの時代にも慣れてきた。  おじさんの計らいで、美琴と同じ学校にも通うようにもなった。  勉強自体は少し簡単になっているようで、ついていくのに苦労はしない。  だが歴史の授業で自分が元居た時代の事を勉強するのは、不思議な気分だった。 「祐介。最近学校はどうだ?」  夕食後のどこか緩慢な時間。  おじさんは最近上手くコミュニケーションが取れない息子に話かけるような話題のふり方で俺に問う。 「ああ、大分慣れてきたよ」  実際はコミュニケーション不足など全くなく、おじさんは実にいい“父親”だった。  美琴がどこか連れていってと言えば快諾し、俺が記憶がないというハンデに対して積極的にフォローしてくれた。  理想の父親そのものであり、感謝してもしきれない。 「仲の良い友達はできたか?」 「……まあ、そこそこ」 「そうか、なら安心だな」  ……嘘だった。  本当はまともな友達すらいない。  クラスメート全員の名前を言えといわれたら、きっと半分も答えられないだろう。  話かけられても最低限の返事だけで、必要以上に近づかないようにしていた。  勿論、理由も無しにそんな対応をしているわけじゃない――           ―          ―          ―  ある日の朝。  美琴は真剣な顔で電話していた。  そして電話を終えると、急いで家を飛び出して行く。  こんな日は“あれ”しかないと、俺はそこで感ずいた。  やがて夕方になり、家に帰ってきた美琴は、案の定自分の部屋に閉じこもる。 「ぐすっ……うあぁ……」  すると必ず隣の美琴の部屋から嗚咽が聞こえてくる。  美琴が泣く理由は実にシンプルだ。  『友人の一人が、“また”ウイルスで亡くなった』 「……くそっ!」  まだ真新しいベッドを殴りつける。  ベッドは衝撃は吸収しても、やるせない気持ちまでもは吸い込んでくれない。  これ以上美琴の嗚咽を聞く事に耐えられない俺は、階下のリビングに行く。 「…………」  おじさん達も気付いているのか、リビングには重い沈黙があった。  それでも自分の部屋にいるよりずっとましだ。  “きぃ……”  やがて夕食を取る為に、美琴はリビングに現れる。  美琴は何事もなかったかのように、俺の隣に座った。 「ねぇ祐介。明日学校の帰りに寄って行きたいお店があるの」 「……うん」 「一緒に行ってくれるかな?」 「ああ、いいよ」 「良かったっ」  こんな時、美琴は必ず明日の話をする。  涙の跡が残る顔に、いつもと変わらない笑顔を浮かべて。  悲しい過去に囚われず、明日に希望を託して。  俺は堪らなく悔しかった。  美琴の悲しみを分かち合ってやれない、やるせなさ。  悲しみを分かち合うことに対する、躊躇い。  情け無い、ジレンマ。  ――そしていつしか俺は、家族以外の人と親しくなるのを避けるようになっていた。           ―          ―          ― 「別にいつだって友達を連れてきてもいいんだぞ? ここはお前の家でもあるんだから」  おじさんは笑顔で言う。  だが俺にはその笑顔に報いる事は出来ない。 「まあ、機会があったら」  曖昧な言葉で、茶を濁す。  美琴のように強くなれない自分が、堪らなく厭だった――           #          #          #  ……あれから二年が経過した。  二年前と比べて地球の人口は半分になり、その内半分は感染者となった。  構成成分の大部分を失った社会という名のシステムは半壊し、今にも崩れ落ちそうだ。  何故ここまで人口が減ったのか?  亡くなった人達の死因の多くは、マルバスの甲種だった。  甲種は乙種に比べ発見が容易だが、飛沫感染する。  甲種に感染した人達は隔離されていたが、社会の崩壊に伴って完全隔離がままならなくなり、中東を中心に感染の輪が広がっていったのだ。  メディアはこれを『DEATH EXPLOSION(爆発的に広がる死)』と呼び、世界を震撼させた。  マルバスの猛威は留まる事なく、今も感染者を増やし続けている。  そう。今、俺の目の前にいる人にまで―― 「お前達……そんなに頻繁に看病に来なくてもいいんだぞ? 出歩くだけでも危険だろう」 「でも、お父さんを放って置けないよ」  薄汚い、キャンプと呼ばれる建物。  この建物を初めて見たあの時は二度と近づくものかと思ったが、今は足繁く通っていた。 「おじさん……そう言わないでくれよ。来ないと心配でさ」 「そうよ。アナタも一人じゃ退屈するでしょうし……」 「でもなぁ……」  おじさんが感染したのは乙種のウイルス。  おじさんは自分が大変な事になっているというのに、俺達の心配を欠かさない。  感染の原因は、『病院から逃げ出し、暴れていた患者の近くに居た小さな女の子を助けようとしてその時に……』という事だ。  おじさんらしかったが、納得がいかなかった。           #          #          # 「さて、ちょっと待っててね。すぐ夕食にするから」 「あ、私も手伝うよ」  キャンプから家に帰ると、おばさんと美琴は夕食の準備を始める。  いつも通りの光景。  ……3人で夕食を取る事が“いつも通り”になってしまっているのが悲しかった。 「ほら、祐介はお皿用意してね」 「へいへい」  自分でもあまりやる気を感じられない動きで、皿を用意する。  美琴に言われるがまま準備を手伝っていると、いつの間にか夕食が出来上がっていた。 「いただきます」  各々がそう言い、食事が始まる。  料理も、相変わらず100年前とほとんど同じ物。 「あのさ……」  いつもなら美琴が何か喋りだすタイミングで俺が切り出す。  今日は、二人に話さなければいけない事があるからだ。 「どうしたの? 祐介」 「俺……キャンプで働く」  二人は箸を持つ手を止める。  全ての音が、ミュートされた。 「ゆ、祐介っ、何言ってるの!? ダメだよ、そんな危ない事っ」  キャンプで働くという事は、常に感染の危険にさらされるという事だ。  美琴が反対するのも理解できる。 「……どういう事かしら?」  真剣な眼差しで俺に問うおばさん。 「おじさんを、いつまでもキャンプに居させるわけにはいかないよ」  だが危険と引き換えに得られるものもある。  キャンプに研修期間として3ヶ月勤めれば、感染者の家族を病院に収容する事が出来るのだ。  誰もやりたがらない危険な仕事だからこそ、こういう特典を付ける事によって人員を確保してきたのだった。 「でも……ダメだよ。代わりに私がっ」 「それはダメだ」 「何でよ? 祐介だったらいいって言うの?」 「ああ……俺ならいいんだよ」 「どうしてっ」 「だって俺は……」  そこで一旦言葉を区切る。 「だって俺は、元は居なかった人間だから……ここに居るはずじゃ無かった人間だから」 「祐介っっ!!」  ……叫んだのはおばさんだった。  今まで見た事も無いほど厳しい顔で……だけど悲しそうな顔で、俺を見ている。 「バカな事を言わないでちょうだい。祐介は家族よ。ここに居て当然なの」 「……でも、俺は……」 「……いい? 祐介。美琴も」  そう言うとおばさんは厳しい顔つきを解き、俺と美琴を交互に見ながら話しだす。 「家族の絆っていうのは、血縁なんていう、物理的なものじゃないの」 「……うん」  美琴も腰を据えて、おばさんの話に聞き入る。 「本当の家族の絆はね、お互いを想う心よ。祐介はお父さんを事を想って働くって言ったわね?  だから祐介は家族なの。そう思うことは、家族の絆なのよ」  言い終わるとおばさんはいつもの優しい微笑みを浮かべながら、テーブルの上の俺の手を握った。  カサカサで、暖かい手。  “母さん”の手……。 「…………」  美琴も無言で俺の空いた方の手を握る。  少し頼りないけど、面倒見のいい“姉さん”の手。 「でも……いや、だからこそ……」  優しい静寂の中、俺は言葉を紡ぎだす。  俺は二人の手を強く……強く握り返しながら言った。 「俺は、“父さん”の為に働くよ」           #          #          #  どれほど今日という日を待ちわびただろう。  初めてじゃないだろうか?  こんなに期待して、何かを待ったのは。  俺はあれから父さんのいるキャンプとは別のキャンプに勤め始めた。  違うキャンプを選んだのは、余計な心配をさせたくなかったからだ。  次々死んでいく人々。  血に怯える日々。  永遠のような3ヵ月間が終わり、俺の手の内には入院許可証。  病院に入れば治るわけではないが、日に日に弱っていく父さんには良い環境が必要だ。  一刻も早く父さんを病院に……。  キャンプからの帰り道、俺の足は意識しないでも次第に早くなり、駆け出していた。 「ただいまっ」  息を切らせて、家に転がり込む。 「あれ……?」  リビングまで来ても、キッチンを覗いても二人の姿は無い。  いつもなら、この時間には帰ってきているはずなのに。 “プルルルル……プルルルル……”  どこへ行ったのか考えを巡らせていると、電話が鳴りだす。  誰だろう? 滅多に電話なんてかかってこないのに。  厭な予感を覚えつつ、受話器を取る。 「はい、天ヶ崎ですが……」 『祐介っ!? 今すぐキャンプに来てっ』  電話をかけてきたのは美琴だった。  随分狼狽しているようで、厭な予感が現実味を帯びてくる。 「美琴? どうしたんだよ、そんなに慌てて」 『いいから、早くっ。お父さんとお母さんが……』  ……そこまで聞けば十分だった。 「分かった。すぐ行く」  俺は受話器を力任せに置き、父さんの居るキャンプへの道を走り出した。           #          #          # 「美琴っ。父さんは? 母さんは!?」 「祐介……」  俺は父さんの居る病室……というより、仕切によって分けられただけの区画の中に入ると、開口一番に訊いた。  見れば父さんは眠っているようだが、母さんの姿がない。 「母さんは一緒じゃないのか?」 「…………検査」 「え……? 何だよ、検査って」 「甲種の検査……」 「あんなもの、触るだけで済むだろ?」  甲種は比較的発見が簡単で、検査用のパネルに触れれば感染している可能性があるかどうか分かる。  キャンプに入る時はこのパネルで検査する事が義務づけられているが、そんなに時間のかかるものじゃなかった。 「違うの……精密検査……」 「……何だって?」  ――精密検査。  精密検査を受けなければならないという事は、パネル検査で『感染の可能性有り』と診断されたことに他ならない。  鐘の中に頭を突っ込んでいる時に鐘を打ち鳴らされたかのような頭痛がした。 「……それで、父さんは?」  よくよく見れば、絶対に見たくなかった装置がベッドの隣に鎮座していた。  ピッ、ピッと電子音がする度、装置のディスプレイに表示されている線が歪んだ。  まさか……そんな……。 「意識が戻らないの……ぐすっ」 「……それって」  この状態は、3ヵ月間の間に嫌という程見てきたものだった。  乙種患者は緩やかに病状を悪化させた後、意識が戻らなくなり、やがて命の灯火を消す事になる。 「父さん……」  最悪だ。  よりによって、入院許可証が手に入った日に、こんな事になるなんて……。  “ピッ……ピッ……”  電子音の鳴る間隔が広くなっていき、線の歪みが少なくなっていく。  一歩一歩、死が迫ってきている―― 「お父さんっ」 「父さん!」  待ってくれ。  まだ何も返していない。  これからなんだ。 「父さんっ。いやだ、死なないでくれよ! 父さん!!」  誰よりも父親らしかった父さん。  孤独に凍えるはずだった俺に、暖かい手を差し伸べてくれた父さん。  記憶も何も持たない俺に、全てを与えてくれた父さん。 「お父さんっ。お父さん……死んじゃヤダぁ……」  死んじゃダメだ。  生きて、また俺達に笑顔を見せて欲しい。  生きて、また俺達を叱って欲しい。  生きて、また俺達を抱きしめて―― 「父さん……父さんっ!!」  “ピーー……”  ディスプレイの線はフラットを示す。 「お父さん……うわぁぁぁ……」  ……結局、何も返せなかった。  父さんは、二度と目を開ける事は叶わない。  止め処なく涙が溢れ、零れ落ちる。  こんなのってない。  父さんは死ぬべき人じゃない。  あんまりだ……どうして父さんが死ななきゃいけないんだよ!  父さんは、ただ人を助けようと……! 「父さん……父さぁん……っ」  俺達は二人、父さんにすがり付き、いつまでも泣いていた――           #          #          #  ――数日後。  あれから甲種に感染したと診断された母さんは、間も無くして死亡した。  隔離されていて、死に目にすら会えなかった。  枯れたと思っていた涙は、洪水のごとく溢れ出して止まらなかった。  その日の夜。  俺と美琴は食卓のいつもの席に座っていた。  いつも俺達は隣同士に座って、目の前には父さんと母さんがいて……。  4人だった家族は3人に減り、2人に減り……ついに俺達だけとなってしまった。 「…………」  今だって、ちょっと気を緩めたら泣き出しそうだった。  重たい沈黙が場を支配し、胸を締め付ける。 「とうとう……二人になっちゃったね」 「ああ……」  沈黙を破ったのは美琴だった。  こんな時だって、俺を気にかけて喋りかけてくれるのだ。 「え、えへへ……これからは二人、力合わせて頑張っていこうねっ」 「何で笑ってるんだよ……?」 「誰かが言ってたんだ……。家族に迷惑をかけてもいいけど、心配はかけちゃダメなんだって」 「だったら……何で泣いてるんだよ?」  美琴はポロポロと涙を零していた。  実の親を一遍になくし、俺より遥かに悲しいはずなのに、いつもと変わらない笑顔を浮かべて。  笑みで歪んだ頬に、跡切れることのない涙の川が流れる。 「だ、ダメだなぁ……弟の前でなんか泣いちゃ……」  何がダメだって言うんだろう?  俺は美琴に我慢をさせる自分の存在が疎ましかった。  何でここに居るんだろうと思う心と、ここに居なければいけないという使命感がぶつかり合う。 「……いいんだよ、泣いたって。家族の前では泣いたっていいんだ」 「祐介……」 「泣き顔は見ないから……我慢しないでくれ……姉貴」  そう言って俺は美琴……姉貴の頭を抱き、肩に押し付けた。  それぐらいしか、してやれなかった。 「やっと、お姉ちゃんって認めてくれたんだね……っ」 「……照れくさかっただけだよ」 「ぐすっ……あぁぁ……うわぁぁぁ……っ!」  姉貴は思いっきり泣いた。  俺は服越しに涙の暖かさが伝わってくるまで強く、しっかりと姉貴の頭を抱いていた。 「祐介、お母さんが……お父さんがっ……!」 「大丈夫……俺がいるから……」  この世界でたった二人になった俺達。  いつまでも……いつまでも涙を流し続けた――           #          #          #  ――俺が天ヶ崎家の一員となってから、もうすぐ5年が経とうとしていた。  人口は5年前に比べて1万分の1以下になり、多くの人が亡くなった。  感染者が増えた所為で社会というシステムはバラバラと崩れ、電力の供給さえ侭ならなくなってきている。  世界は、着実に終焉へと向かっていた。 「祐介、ご飯できたよー」 「ああ、今行くよ」 「大丈夫? 立てる?」 「そのぐらい大丈夫だって」  そして俺は多くの例に漏れず、『マルバスウイルス感染者』の烙印を押されていた。  あれから生活の為、尚もキャンプに勤めた俺は、呆気なく感染したのだ。  感染の原因は両親の見舞いに来ていた子供を狂気に駆られた患者から守ろうとして……だ。  父さんと同じ感染原因なのは誇らしかったが、姉貴を悲しませてしまったのはいけなかった。 「じゃあ、早く下りてきてね」 「ああ」  姉貴に言われて、俺は緩慢な動きで階下へと向かう。  ……俺はキャンプには入らなかった。  キャンプの中に充満する死の足音を聞きながら気が狂っていくのを想像すると、とてもキャンプに入る気にはなれなかったからだ。  それに姉貴を一人にするわけにはいかなかったのも理由の一つだが、結果として姉貴に迷惑をかけてしまっているのは本末転倒だった。  “きぃ……”  いつものようにリビング入ると、自分の席に座った。  隣合って座ると目の前に人がいない事が寂し過ぎるので、俺達はあれから向き合って座るようにしている。 「今日はね、オムレツにしたんだ。見て、この卵の輝きっ」  両親を無くした直後は塞ぎ込んでいた姉貴だったが、最近は随分元気になった。  そして何より、美しくなった。  この5年の間で、誰もがその容姿を認める程に。 「本当だ、美味く焼けてるな」 「でしょ〜?」  そう言って姉貴は笑顔を見せる。  俺はこの笑顔に何度も救われてきた。  終わりかけた世界、死しか残されていない中、正気で居られるのはこの笑顔のお陰だ。  この笑顔があるから、俺は生きていける。 「姉貴……」 「何? 祐介」 「卵に出汁入れるの忘れただろ?」 「あっちゃー、バレたかー」  何気ない食事中の会話。  残り少ない事が分かっているからこそ、大切に思える。 「むぅ、次から気を付けます」 「そうしてくれ」  俺は偉そうに言うが、本当なら姉貴にはこんな事言えた立場じゃない。  俺が感染する前までは家事は分担していたが、感染してからは家事全般を姉貴に任せっきりなのだ。 「ごちそうさま」 「おそまつさまでした」  やがて食事を終えた。  姉貴は落ち着く暇もなく、食器を洗う為に席を立つ。  ……俺は呆けてその様子を眺めていた。  手伝おうとしても、絶対にそれを許してはくれないのだ。 「よしっ、洗い物終わりっ。じゃあ私は、これから勉強してくるね。  何かあったら、すぐ飛んでくるから」 「あ、うん」  そう入って姉貴はテキパキと自室へと戻って行った。  とっくの昔に学校という教育機関は無くなり、残されているのは教材のみ。  姉貴は1日に決めた時間だけ勉強をしている。  学校があった頃、姉貴は勉強が好きではなかったはずだが、何故か学校がなくなってからずっと続けている事だった。  する事がないからか、それとも勉強という日常を失う事が嫌だったのか、理由は定かではない。  “きぃ……”  手持ち無沙汰になった俺は、姉貴に倣って自室に戻る。  俺は机の引き出しから、『封筒』を取り出して、ベッドに腰掛けた。 『時空転移装置による避難勧告』  切手も貼っていなければ、住所もかかれておらず、『天ヶ崎美琴様』とだけ書かれた封筒。  これは俺が何か暇つぶしに本でも読もうと、父さんの書斎で本を選んでいる時、偶然見つけたものだ。  まるでヘソクリでもしているかの様に、本に挟んであったこの封筒には、二枚の紙が入っていた。  一枚の紙は、時空転移装置の実用化に伴う100年前への避難のすすめと、計画の予定表。  一枚の紙は、その申し込み用紙。  時空転移装置なんていう常識から外れた物で、この世界から逃げ出す計画。  “感染者を置き去りにして”安全な過去へと逃げ出す計画。  ひねくれた考え方だったが、感染者の俺から見ればそうとしか思えなかった。  俺がこの封筒を見つけた時には、すでに申込書の提出期限が切れており、申込書は白紙の状態だった。  つまり、姉貴はこの話を断ったという事だ。  何故か?  自惚れでも、自意識過剰でもなく、俺の所為だった。  もし感染したのが俺じゃなくて姉貴だったとしたら、俺は絶対にこの話を断っただろう。  『家族を放って自分だけ安全な場所に逃げるなんて、考えられない』  きっと、姉貴もそう思って断ったに違いなかった。  それ以外に、この終わりかけた世界に残る意味などない。 「くそっ……」  自分を嫌いになりそうだった。  ここに居るべきではないが、ここに居ないといけない。  俺はいつまで経っても、このジレンマから抜け出すことは出来なかった。           #          #          #  翌朝。 「じゃあ、行ってくるからね。安静にしてなきゃダメだよ?」 「分かってるって」  今日は週に一度の買出しの日だった。  勿論俺も一緒について行ってやりたかったが、いつ体調が悪くなるか分かったものではないので、姉貴はそれを許してくれなかった。 「では、いってきまーすっ」  全く素肌を見せないように完全武装した姉貴。  それに甲種予防用の特殊マスクをつけて出て行く。  感染者が殆どの中では、これでもまだ心配なぐらいだ。  “きぃ……”  姉貴を見送ってから、リビングに戻る。  安静にしていろとは言われたけど、俺はそこまで病状は進んでいない。  まだ元気に歩き回る事が出来るし、その気になれば運動だって出来るはずだ。  病状の進行が遅いのは、不幸中の幸いだった。  “ぴんぽーん”  俺はする事もなく、何も映らないTVを見つめていると、呼び鈴が鳴った。 (さては姉貴のやつ、鍵を持つの忘れた上に、何か忘れ物したな?)  座ったばかりのソファから立ち上がり、再び玄関へと向かう。  俺は呆れながら鍵を外し、ドアを開いた。 「姉貴、何やって……」 「こんにちは。あなたが、天ヶ崎祐介君ね?」  だがそこに居たのは姉貴ではなかった。  素肌を見せないようにしている為、顔までは分からなかったが、声から察するに若い女性であるが分かる。 「そうですが……どうして俺の事を?」 「ちょっとお話があるの。いいかしら?」  女性は落ち着いた口調だったが、有無を言わさぬ雰囲気を持っていた。 「……どうぞ、上がって下さい」  どうせする事もない上、このまま帰られたのでは気味が悪い。  少々無用心だが、俺は女性を招きいれる事にした。 「コーヒーで良かったですか?」 「お気使いなく」  初めてじゃないだろうか。  この家に二人で住むようになってから、客人が訪れるというのは。 「それで、話というのは?」  俺と女性はテーブルを挟んで対面するようにソファに座り、話を切り出す。 「ええ……まずは、私はこういう者よ」  そう行って女性は俺に名刺を渡した。  仁科恭子……それが彼女の名前らしい。 「ウイルスのワクチン・抗体の研究をしているの」 「……その先生が、何故俺の事を?」 「貴方はキャンプでの業務中、凶暴化した患者から子供を守るため感染した。そうね?」 「どうしてその事を……」 「研究機関が、病院やキャンプとコネクションが無いと思う?」 「……いえ」  仁科さんはコーヒーを一口飲み、ふぅと息を吐く。  この人の言わんとしている事が、何となく分かってきた。 「マルバスに感染した者は必ずキャンプが病院に収容されなければならない。  罰則は無いけど、貴方がここに居るという事は、れっきとした違反よ」 「……俺を捕まえに来たんですか?」 「まあ、それに近いわね」  やっぱりだ。  感染者はこれ以上の感染を防ぐため、何らかの医療機関に入る事が義務付けられている。  だが、何故わざわざワクチンの研究者が俺の元に来たのか分からない。 「話は変わるけど……時空転移装置による避難の話は知っているかしら?」 「? ……ええ」  本当に掴み所のない会話だ。  一体、何を言おうとしているのだろう? 「貴方のお姉さん……美琴さんがその話を断った事は?」 「……知っています」 「自分の所為だと思った?」 「……はい」  本当に、何から何まで知っている。  何者なんだ? この人は。 「じゃあ話を戻して……はっきり言うわ。  祐介君……被験者になってくれないかしら?」 「え……?」  被験者……つまり臨床実験の実験体になるという事だ。 「勿論危険なのは確かよ……でも一番治る確率が高いのも確かなの。  もし了承して貰えるなら、祐介君も100年前の過去に行って貰う事になるわ」 「ちょっと待ってくれよ。感染者を過去に連れて行くって、もし感染したら……」 「その点は細心の注意を払うわ」 「でも、何でわざわざ過去で実験する必要があるんですか?」 「それはね……ウイルスの研究者が、私と私の父以外居ないから。  研究者が居なくなれば……この世界を滅亡から救う事が出来無いからよ」 「は……?」  ウイルスの研究者が、この世に2人だけ……?  初めて知った。ここまで世界は追い詰められていたなんて。 「だからここに居るわけには……死ぬわけにはいかないのよ。  お姉さんにはこちらから避難するように説得してみるわ」  場に静寂が訪れる。  俺は口を閉ざし、考え込んでいた。  被験者になるというのは確かに危険だが、ただ病状の悪化を待っているより治る可能性がある。  それに俺が居なくなれば、姉貴は安全な過去へと避難出来る。  だが姉貴を支えてやる事が出来ないのが気がかりだ。 (過去の世界にも、俺が居ればなぁ……)  なんてバカな事を考える。  だが顔見知りしない姉貴の事だ。  過去の世界でもすぐ友達は出来るだろうし、その中に姉貴の支えとなってくれる人が居るかもしれない。  そう希望を持つ事は、悪い事じゃないと思った。 「どうかしら? 返事は今すぐじゃなくても……」 「いえ」  俺は仁科さんの言葉を遮り、言う。  もう、迷う必要はなかった。 「俺が、被験者になります」           #          #          #  ――出発の日。  あれから俺は、姉貴に「いい病院が見つかった」とだけ説明した。  姉貴には、俺も過去に行く事を教えてはいけない約束になっているからだ。 「祐介……私」 「心配するなって……凄くちゃんとした所なんだ」 「うん……」  姉貴は本当に寂しそうな目で俺を見る。  別れは辛いけど……これがお互いにとって一番良い方法だ。  今更後悔はしない。 「ねぇ祐介……? 私の心配はしてくれないの?」  姉貴は少し不服そうな顔でそう言う。 「そうだな……あんまりしてない」  嘘だった。本当は心配で心配で手放したくなかった。  けれど俺は姉貴の肩に両手を置き、続けた。 「だって、姉貴はすぐ人を仲良くなれるだろ?  いつもの明るい姉貴なら大丈夫。何も心配する事なんてないよ」 「でも私……心細いよ……」 「そんな弱気になるなよ。大丈夫、俺がいつでもそばにいる、きっとまた……会える」 「うん……」  俺はいつかのように、姉貴の頭を自分の肩に抱き寄せる。  このまま離したくない。  このまま時が止まってしまえばいい。 「祐介……」  ……でも俺達は別々に生きなければならない。  お互いの為に。お互いの未来の為に―― 「姉貴……向こうに行っても元気でいてくれよ」 「祐介も……絶対にウイルスなんかに負けないでね」  やがて送迎の車が現れ、どちらからともなく離れた。  別れへのカウントダウンが始まる。 「先生……祐介をよろしくお願いしますね」 「ああ、任せておいてくれ」  ペコリと頭を下げる姉貴と、それに応える往年の男性……仁科先生のお父さんだ。 「祐介君、もう準備は出来たかな?」 「あ、はい」 「じゃあ車に乗ってくれ。美琴さんは後から野乃原という女性が迎えに来るから、そちらの指示に従って欲しい」  そう言われて俺は車に乗り込む。  窓を開けると姉貴は手を差し伸べ、そっと俺の頬に手を当てた。 「祐介……私達は、たとえどこに居たって――」 「想い合っていれば、家族の絆は繋がっている。そうだろ?」 「……うんっ」  たとえ俺がウイルスに倒れても……この命が尽きようとも、姉貴は俺の家族だ。  何がどう変わろうが、それだけは絶対に変わらない。  何があっても、絶対に。 「じゃあな、姉貴……」 「バイバイ……祐介……っ」  姉貴が一歩身を引くのを確認すると、ゆっくり車は動きだす。  涙を湛えた姉貴の姿が、どんどん小さくなる。  枯れたと思っていた涙は次々と溢れ、止まらない。  俺も姉貴も、お互いの姿が見えなくなるまで手を振っていた。                さようなら、姉貴。               俺の、たった一人の家族。              俺の、支えになってくれた人。                俺の、一番大切な人。                俺の……大好きな……。 <Fin>