Title:『day of...』   ...produced by 滝  朝。  瞼越しの陽光に視覚を刺激され、“彼女”は目覚めた。  彼女の一日は日の出とともに始まり、夜は月が天に昇る頃終わる。  庭先に咲かんとするアサガオより早く、彼女はすっかり覚醒していた。 「う…………」  彼女は太陽に向かって「おはよう!」と挨拶しようと思ったが、周りの人を起こしてはいけないと考え、言葉を途中で切る。  そんな思慮深い彼女の元に、意外な人物がトボトボと歩いてきた。 「…………」  美琴だった。  美琴はいつもはポニーテールで上げている髪を下ろし、パジャマ姿のままユラユラと揺れている。  下ろした髪はメデューサのようにのたうちまわっており、まだ寝ぼけている事を証明するには十分だった。 「…………」  無言の美琴に、彼女もまた無言で返すことにする。  美琴が寝ぼけている時は、5分も放って置けば覚醒する事を彼女は知っていたからだ。 「ふあ……ぁ……」  やがて朝の5分は矢の如く過ぎ、アサガオが太陽と見つめ合うのと同時に、美琴は大きく伸びをした。  そして美琴は起きたらすぐ傍にいた彼女に驚きもせず、共に目覚めたアサガオのように爽やかな笑顔で彼女に言った。 「おはよう、ロータス!」        #       #       #  午前10時。  二度寝を終えた美琴は、再びロータスの元を訪れていた。  寮で飼われているロータスの世話は寮生に分担されており、本日美琴はロータスの散歩係だからだ。 「さあ行くよっ、ロータス!」 「うをんっ!(ええ、早くいきましょう!)」  ロータスは利口な犬だ。  人の言葉を解する事が出来る。 「やっぱり夏場は朝に散歩するのがいいよねー」 「うをん(そうね。私も暑いのは苦手よ)」 「昼間だと外に出る気になれないもん」 「をんっ(確かに、日陰から出る気にはならないわ)」 「あはは、ロータスは今日も元気だね」  だが犬の言葉を理解する人間はいない為、会話はいつも一方通行なのがロータスの悩みだった。  だから美琴と話していても、かみ合っているようで、どこかズレているような会話になる。  でもロータスは美琴の事が大好きだった。  散歩の時、ロータスが走れば美琴も走ってくれるし、ロータスの好きな所に行かせてくれる。  美琴と散歩する時間、ロータスは自由になれるからだ。 「おや、あれは……」 「うをん?(どうしたの?)」  坂を下りきった所で、美琴は足を止める。  その視線の先には、買い物袋を持った二人の少女の姿があった。 「藤枝さんと茉理ちゃんだ。おっはよーー!」  声をかけられた二人は美琴の方を向くと、すぐに視線をロータスへと向けた。  美琴とロータスは二人の元へと駆け寄る。 「天ヶ崎さん、おはよう。それと……」 「美琴さんっ、この犬なんて言うんですかっ!?」  保奈美が口にするより早く、挨拶も忘れた茉理がロータスの名前を尋ねる。 「うをん!(私はロータス!)」 「ロータスって言うんだよ。寮で飼ってるの」 「あたしは茉理、よろしくね、ロータス!」 「私は保奈美だよ、ロータス」  保奈美達が話かけると、ロータスは瞬く間にひっくり返ってお腹を見せた。  これはロータスが特に喜んでいるときの癖だ。  人懐っこいロータスは、新しい人と出会い、名前を覚えてもらい、その名を呼んで貰う事が何より好きだった。  名前を呼ばれる事でロータスはただの犬から“ロータス”になり、その個を認められる。  だからロータスは、名前を呼ばれる事が好きなのだ。 「あのっ、触ってもいいですか?」 「うん、いいよー。ロータスはね、ここをこう……」  言いながら美琴はロータスの腹を撫でてやる。 「をんっ、をんっ!!(あははっ、やめてってば美琴っ。でももっと〜〜!)」 「撫でられるのが好きなの」  美琴の説明の通り、ロータスにとって腹を撫でられる事は、幸福のツボを押されるのと同じなのだ。  ロータスは元から振りっぱなしだった尻尾を更に激しく振った。 「そうなんだ〜。ほら、ロータス〜〜♪」 「私もいいかな? それっ」 「をんっ、をんっ、うをんっ!!(きゃははは! 茉理と保奈美までっ、もっともっと〜〜!)」  ロータスの頭の中でスリーセブンが出揃い、溢れ出すコインの如くノルアドレナリンが放出される。  こうなってしまうと、ロータスは撫でられるのが終わるまで悶えるしかなかった。 「ねえ、ロータスは男の子? 女の子?」  やがて撫でるのを止めた茉理が、ロータスの眼を覗き込みながら問いかける。 「をんっ(女の子よ)」 「女の子だよ」 「そっか、女の子かぁ」  ロータスと美琴が発言するのが同時だった為、ロータスには美琴の声が聞こえていなかった。  もしかしたら茉理は私の言葉が分かるのかもしれない。  そう考えたロータスは茉理に質問を投げかける。 「うをんっ?(茉理は私の言葉が分かるの?)」 「茉理ちゃんは料理が出来るの? だって」 「うーん。ちょっとだけね」 「をんっ、をんっ!(そうなの? まさか私の言ってる事を分かってくれるなんて!)」  美琴が勝手に翻訳して茉理に伝えるが、茉理に夢中になっているロータスにその声が聞こえているはずがない。  ロータスは嬉々として茉理に質問を続ける。 「をん、をんっ?(茉理の好きな食べ物は何?)」 「茉理ちゃんはどんな本を読むの? だって」 「えっと……漫画かな」 「うをんっ!?(ええっ、漫画を食べるの!?)」  ロータスはかなり勘違いしていた。 「をんっ、うをん?(漫画って……紙でしょ? 紙を食べるの?)」 「茉理ちゃんは女の子なの? だって」 「うん、そうだよ。……そうは見えないかな?」 「うをん……(ええ、とても紙を食べているようには見えないわ……)」  保奈美は2人と1匹の会話を聞きながら、黙ってロータスの背中を撫で続けていた。  一見すれば、『3人の女の子に可愛がられているわんこ』という微笑ましい光景だが、当の本人――いや、本犬はかなり焦っていた。 「をん、をん?(その……紙を食べなきゃいけないぐらい、生活に困っているの?)」 「茉理ちゃんはカフェテリアでウエイトレスをしてるんだよね? だって」 「うん、そうだよー」 「うをん、うをんっ!(そうなの……でも絶対にやましい職業に就いちゃダメよ!)」 「茉理ちゃんは将来美人になるね! だって」 「どうかなー。なっちゃうかもね〜♪」 「をん……(ま、茉理……)」  ロータスは驚愕した。  見るからに愛を一身に受けて育ってきたような少女が、もうそんな事を考えているなんて。今の日本はどうなってるの!?  ロータスは日本のあり方について憤慨したが、彼女には選挙権すらなかった。 「をん……うをんっ!(茉理……強く生きるのよ!)」 「……? 茉理、強く生きるのよ! だって」 「え? う、うん……」  何故か最後だけは合っている美琴だった。 「ところで……」  これまで黙って微笑んでいた保奈美が、2人と1匹に声をかける。 「これから茉理ちゃんの家でお昼ご飯を作ろうと思うんだけど、天ヶ崎さんもどうかな? ロータスも」 「あ、それいいですね!」 「えっ、いいの?」 「をんっ?(えっ、いいの?)」  見事に美琴とロータスの台詞がかぶったが、かぶったと思っているのはロータスだけである。 「でも、私達がお邪魔しちゃうと、材料とか足りなくなっちゃうんじゃ……」 「それなら大丈夫です。間違えて直樹の分まで材料を買ってしまいましたから」 「あ、今日久住くん居ないんだ」 「なおくんったら、お昼の事を言う前とどこかに出かけてしまって……」 「ロータスの分は大丈夫かな?」 「をんっ(私、そんなに食べないわよ)」 「大丈夫ですよ。多めに買ってきてますから」  かくして一行は、渋垣家へと歩みを進める事になった。        #       #       # 「さて……」  いざ台所に立った保奈美は、思案に暮れていた。  今日作る料理は決定しているし、材料も十分。 「ほらほらロータス〜〜それ〜〜」 「をんっ、をんっ!(もう、茉理ったらっ、きゃはははは!)」  ただ人手が足りなかった。  今日は茉理に料理を教えるという約束で、台所という名の教卓に立ち、包丁という名のチョークを手にしているのだが、たった一人の生徒は一身上の都合により欠席しているのだ。 「ロータス〜〜ロータス〜〜♪」 「をんっ、をんっ、をんっ!!(止めてったら茉理っ、でも止めないで〜〜!!)」  早い話が、茉理とロータスは二人の世界の旅立ってしまっていた。  優しさと厳しさを同居させる事が出来ない保奈美は、無邪気に戯れている茉理に声をかける事が出来ないでいた。 「よしっ」 「え……天ヶ崎さん?」  さっきまで台所の周りをウロウロしていた美琴は、一枚の布を持って保奈美の横に並ぶ。  その手にあるのは、いつも茉理が使っているエプロンだった。 「家にお邪魔させて貰って、ただ料理をご馳走になるっていうのも気が引けるしね。茉理ちゃーん、エプロン借りるねー」 「はいはーい。どうぞ〜〜……ロータス〜〜♪」  美琴の言葉の意味を全く考えずに茉理が返事をする。  なにはともあれ、これで人手は足りた。 「それじゃあ天ヶ崎さんにはこのジャガイモの皮を剥いてもらって、それが終わったらベーコンを焼いて欲しいの」 「了解です!」  美琴は元気良く返事をして、鼻歌をくちずさみながらジャガイモを手にとった。        #       #       #  網焼きハンバーグに保奈美特製スパイシートマトソース。  美琴(電子ジャー)渾身の白米蒸しと、ハンバーグとの合性を考慮したフライドポテトサラダ。  見ているだけで口元が緩んできそうな料理が鎮座する中、茉理は一人だけしょんぼりしていた。 「すいません、保奈美さん。私から料理教えて下さいって頼んだのに……。  美琴さんにも手伝わせてしまって、何とお詫びしたらよいのやら……」 「茉理ちゃん。そんなに気にしなくても大丈夫だよ。ほら、茉理ちゃんは基礎が出来てるから、  ポイントさえ抑えれば、料理も上達するよ」 「そうそう、気にしなくてもいいよ。私もただ待ってるよりも何かした方が性にあってるし」  二人は口々に茉理を宥める。  責任感の強い茉理は、放っておけばどんどん落ち込んでいきそうだったからだ。 「それでは手を合わせて――」  そんな状況を見越してか、それともただ早く料理を食べたかっただけなのか、美琴はいつもより声を大きくして言う。 「いただきまーすっ」 「いただきます」 「いただきます……」 「をんっ!(いただきますっ!)」  それぞれが食事の開始を宣言すると、全員がメインディッシュであるハンバーグを最初の標的にする。 「美味しいっ! やっぱり藤枝さんの作ったものに間違いはないねぇ」 「流石保奈美さんですねぇ……あたしにも出来るのかな?」  ロータスの前に置かれた皿には、食べやすいようにサイコロ状に切り崩してあるハンバーグが乗っている。  ロータスは保奈美の気遣いに感謝しつつ、皆に倣ってハンバーグを頬張った。 「をんっ、うをんっ!(美味しいっ、凄く美味しいよ保奈美っ!)」  今まで味わった事もない旨みがロータスの味覚を蹂躙し、快のパラメータが急上昇する。  いつも出来合いのドッグフードしか食べていないロータスにとって、保奈美の料理は今世紀最大の衝撃だった。 「ほら、ロータスも美味しいって言ってるよ」 「ふふっ、ありがとう、みんな」  分かりやすく尻尾を振る速さを変えたロータスを見て、保奈美は安堵の笑顔を見せる。  今回ばかりは相手が人間ではないだけに、流石の保奈美も少し心配だったのだ。 「ところで保奈美さん。今回の料理のポイントをお教え願いたいのですが……」 「うん。このハンバーグは通常のみじん切りにしたたまねぎの他に、旨みを引き出す為にペースト状の――」  “カツーン”  美琴はいざ食べんと開いた口の形をそのままに、フォークを落とした。 「をんっ、うをんっ!?(きゃああああ!! た、たまねぎぃ!?)」 「はれ? どうしたんですか、美琴さん? ロータスまで」  茉理は突然固まってしまった美琴と、慌て出したロータスを交互に見る。 「をんっ、をんっ!!(保奈美っ、まさか貴女が一杯盛るなんて!!)」  ロータスが慌てるのも無理は無い。  たまねぎに含まれる硫黄化合物は、犬の赤血球を溶かして溶血性貧血を引き起こす。  摂取量によっては、万が一の事も考えられるからだ。 「あ、勿論ロータスの分にはたまねぎは入ってないからね」 「あはは、びっくりしたー」 「うをん……(そ、それを早く言ってよ……)」 「…………?」  一人だけ事情を飲み込めていない茉理は、ロータスの尻尾のようにツインテールをパタパタとさせていた。        #       #       # 「ただいまー」  玄関のドアを閉めたところで、直樹は見慣れない靴がある事に気付いた。 「はて……?」  一つは保奈美の靴。もう片方は見かけた事があった気がするが、誰の物かは思い出せない。  行ってみれば分かるかと思い、直樹はリビングのドアを元気良く開けた。 「おっ、保奈美と美琴が来てたのか。それにロータ……」  そこまで言って、直樹は保奈美と美琴が人差し指を口に当てている理由を視認した。  茉理がロータスを枕にして眠っているのだ。 「やっぱり茉理ちゃん。カフェテリアの仕事で疲れてるのかな」  ロータスが呼吸をする度に、茉理の頭が微かに上がったり下がったりする。  ロータスは眠ってはいなかったが、茉理を起こしてはいけないと思い、直樹が来ても黙って枕役に徹していた。 「でも、何時までも寝かしておくわけにはいかないだろ?」 「そうだねー。私もそろそろ帰らないと」 「私も、そろそろ御暇しようかなって思ってたんだけど……」  3人は小声で話し合う。  陽はもう、随分と傾いていた。 「なら起こしてやればいいだろ?」 「いやいやー。そこに適材適所というか」 「いつも茉理ちゃんに起こされてるんだし、たまにはなおくんが起こしてあげたら?」 「うーん……まあそれは一理ある」  保奈美と美琴の意思を了承した直樹は、安らかな寝顔をみせる茉理に近づく。  保奈美が後ろから「変な起こし方しちゃダメだよ」と付け添えたが、日頃茉理にアグレッシブな起床を堪能させられている直樹である。  直樹は聞こえなかった事にした。 「すぅーー…………うおんっ!!(起きろっ!!)」 「うをんっ!(うわぁっ、急に大きな声出さないでよっ!)」  大きく息を吸い込んだ直樹は、茉理の耳元でロータスの声を真似する。  茉理は寝ぼけ眼でのそりと起き上がり、キョロキョロと部屋を見渡す。 「ふぁ……うぅー……」  茉理はまだ寝惚けているようで、大して驚いている様子もなかった。  むしろロータスの方が驚いている。  これでは『茉理のビックリ目覚ましSHOW作戦』が失敗に終わってしまうと考えた直樹は、次の手を繰り出す。 「おはよう、茉理。目覚めのキッスの味はどうだった?」 「おはよう直樹……って! め、目覚めのキッス!?」  直樹の言葉で一気に目が覚めた茉理は、真っ赤になって保奈美と美琴を交互に見た。  突然の直樹の言葉に、二人は曖昧な笑みを返すのみである。 「ちょ、ちょっと直樹! そんな、みんなの見てるところでなんて……」  茉理は嬉し恥ずかしといった感じでもじもじするが、直樹はあっけらかんと言い放った。 「うそやっちゅーねん」 「…………へ?」 「恥かしい奴だな、茉理は」  作戦大成功である。  茉理の頬の赤が、羞恥の赤から怒りの赤に変わったが、大笑いしている直樹がそれに気付くはずもない。 「直樹の……」 「……お?」 「うすらとんかちっ!!」  “ぱっかーん” 「うをん(まだまだ若いわねぇ)」  ぽつりと紡ぎ出されたロータスの声は、金属音でかき消された。        #       #       #  陽が完全に山の稜線の彼方へと消えて久しい頃。  寮へと戻ったロータスは、ぼんやり輝く月を見つめ、佇んでいた。  夜風に優しく毛並みを撫でられる心地良さの中、今日の出来事を反芻する。  朝早くに美琴が寝惚けて起きてきた事。  犬の言葉がわかる人・茉理に出会った事。  美味しかった保奈美の料理の事。  突然耳元で大声を出してきた直樹の事。  思い出して見れば、実に充実した一日であった。 「うをーーーんっっ!!」  不意にロータスは、月に向かって吠えた。  その遠吠えに意味は無く、ただ月に向かって、大きな声で吠えた。  何か意味があるとすれば、それは犬である事を忘れない為だったのかも知れない。  人間社会に慣れ親しんだ事によって、本能がそうさせているのだろうか。  やがてロータスは家として与えられた小屋に入ると、身を横たえた。 「うをん……(おやすみ……)」  誰に向けたものでもない、一日の終わりを告げる言葉は、闇へと吸い込まれ消えた。  静かに目を閉じたロータスの意識は、それと同じ様にまどろみの淵へと吸い込まれる。  深い眠りについた“彼女”の寝顔は、いつもより幸せそうだった。 <...fin>