■ 白の幻影 ―貴方の好きな人はきっと凄く優しくて、優しすぎて残酷なのね。…私の友達が好きだった方に、本当によく似てる。誰よりも繊細で脆いくせに強い振りをしていた、そんなあの人に。 灰色の空から流れる冷たい風が頬を撫で、少し長くなった髪を揺らす。 首元までしかなかった黒髪も、一年もすれば背中にかかる程度に伸びていた。まるで過去の恋を忘れろと言う様に、無情にもあの人との繋がりを消していく。 最初にあの人と会話したのは、確か今日の今頃。 そして最後にあの人の目に自分を焼き付けられたのも、この瞬間。 そっと唇の、わずかに傍を指でなぞる。あの人がくれた餞別。それは暗に「さようなら」を意味している。あれから出した手紙には、一切、返答はない。 私の事は忘れなさい。 呆れた様な、困った様な、そんな顔をして言っているあの人が夢に現れる。 どれだけ詰め寄っても彼女はいつも優しく微笑んで「ごめんね」を繰り返す。 彼女が着込む棘の鎧。決して誰も入りこめない、絶対の壁。なんて皮肉な話なのだろう。彼女を想うがあまり、彼女を求めるがあまり、夢に出て来る私の中の彼女ですらそれを着込んで心を曝け出してはくれない。 せめて片手。片手だけでも、彼女が差し出してくれたなら。どれほど幸せだったろうか。どれほど救われただろうか。 …いや、止めよう。そんな事は今更考えてもどうしようもない。 頭を振って前を見る。 淡く白みがかってきた視界の先、森に囲まれた教会が見えた。 イタリア郊外にある、名前も無いような小さな教会。 冬休みを利用して近くを散策していたら偶然見つけた場所。 古びた大きな門を潜り、小さいながらも厳かな空気を放つ通路を通る。両手には整然と椅子が並び、しかし誰も座っていない。そもそも、この教会は日曜日のミサ意外にはあまり利用されないものらしい。 誰も居ない道を通り、上を見上げるとそこには十字架に貼り付けられたイエス・キリストの姿。 世界の人々の罪を全て引き受けてくれたという聖人にして、世界で最も有名な神様。 リリアン女学園にもお御堂はあったが、あそこに鎮座していたのは聖母マリアであって、こことは随分雰囲気が違う。そこがまた、ここを厳粛な場所に感じさせる理由なのかもしれない。 「…あら。また、いらして下さったのですね」 誰も居ない筈の教会の中に、透き通った声が木霊した。 振り返ると、そこには白い薔薇を持ったシスターの姿があった。イタリア人ではない。その証拠に彼女は明らかにアジア系の顔立ちで、何より日本語を話していた。 「ごきげんよう、シスター」 「ごきげんよう、蟹名さん」 二人はこれが二回目の会合であると言うのに、まるで旧知の仲の様に自然に挨拶を交わす。 「歌のお稽古の方、順調にいっていますか?」 「ええ、それなりに」 会話を交えながら、シスターは薔薇を隅の花瓶に生けていく。シスターは白薔薇がお気に入りらしく、この教会の隣の苗床でたくさんの白薔薇が豊かな香りを放ちながら育てられている。最初見た時など、静は驚きのあまり声を失ってしまった。 まさかこんな所で、あの人の権化の様な花を見るとは思いもよらなかったし、何より― 『貴方、薔薇がお好きなの?』 『……ええ、とても。白いのは、特に』 『奇遇ね。私もなのよ?』 何より、そこにあの人の様に白薔薇の似合う人がいるなんて思いもしなかったから。 陳腐な物言いになるが、イタリア郊外で偶然出会ったシスターが自分と同い年の日本人で、お互いに白い薔薇が好きだなんて、あまりにも運命的すぎるというものだ。 「…何か、言った?」 「いえ、別に」 シスターは白薔薇を生け終えると、一度神に祈りを捧げて静の方に向き直った。 「お元気そうで何よりです」 「まだ二週間も経ってませんよ」 「それだけあれば、人はたくさんの経験をするものですから」 「…かもしれません」 シスターは微笑んで、静は笑わなかった。 微笑んだシスターの顔を見て、静は身動きが取れなくなった。 …ああ、そうか。 何故自分がここに来たのか、静は分かった気がした。 私はこの人に言いたかったのだ。今までの事。誰にも、親にさえも言えなかった今までの事を。全てこの人に。あまりにも彼女に似ている、この人に。 「…あの私のお話、聞いて下さいませんか?」 「それは、懺悔ということですか?」 「聞きようによってはそうなるかもしれません。でも、私はこの想いを罪とは思いたくないんです。誰にも、当の本人すらも認めてはくれない想いでも、私の大切な思い出ですから」 「…そうですか」 するとシスターは懺悔室ではなく最前列の席に腰を下ろして、静に隣に来るように手招きする。 静が指示されるままに座ると、シスターは言った。 「では私はシスターではなく、一人の貴方のお友達としてお話を伺った方がいいわね」 「…シスター」 何て優しい言葉だろう。 まだ会ったばかりだと言うのに、この人はまるで静の心を読んだかのように接してくれる。 もしも自分がこの人の様な人間だったら、彼女は心を開いてくれただろうか。 「私は、ある人に恋をしたんです」 今の私の様に、純粋な思いを述べてくれただろうか。 「高校の一つ上の先輩でした。ふざけている様で、驚く程真面目な時があったり、無関心な様で、面倒見が良くて、どれが本当のその人か分からない位の顔を持っていて。色々と謎が多い人なんです。でも、私はそんなあの人にどうしようもなく惹かれてしまったんです」 「告白は、しなかったの?」 「しました。…振られましたけど。いえ、きっと私がその人に会う以前から答えは決まっていたんだと思います。その人はいつも誰かの陰影を捜していましたから」 それはまだ静が一年生だった頃の話。あの人が、久保栞という生徒と恋仲になったという噂を聞いたことがある。 そして彼女があの美しい髪を切り性格が一変した事にも、その久保栞が関係している事を。 しかし、それはリリアンの常識であって、シスターには分かる筈もない。 「告白にしても、賭けというよりも予定調和だったんです。ただ自分を納得させる為の」 「その時は誰にも相談しなかったの?」 「出来なかったんです」 「どうして?」 「その人は…、女性でしたから」 静は自嘲げに微笑んでシスターの顔を見た。キリスト教徒である彼女にしてみれば、許されるどころか罪以外の何物でもない恋心だろう。 果たしてこの人は、それでも私を許してくれるだろうか。 …シスターは一瞬、その微笑みを消した。 そして、その脅えたような視線こそが静が一番恐怖していた物だった。 ああ、やはり。 神様は許してはくれないのだ。 静は衝動的に溢れそうになった涙を堪えた。ここで泣いても、それはあまりにも醜い涙でしかない。 「すみません、とんだ醜態を晒してしまって。大切な思い出だなんて、虫が好すぎますね」 シスターは答えてはくれない。その顔を見るのも恐かった。 ただ重い沈黙だけが二人を包んだ。 私は馬鹿だ。この人は彼女じゃないのに。何故だか分かって貰える気がしたという、それだけの理由でこの人を遠ざけてしまった。 また大切な物を失ってしまった。 なんて大馬鹿なんだ。 「ごめんなさいっ」 静が耐え切れなくなって、立ち上がって踵を返した、その時だった。 静の腕がシスターに強く捕まえられ、その前につんのめった反動でシスターの胸の中へと一気に引き寄せられた。 気が付いたら、逃げ出した筈の静はシスターに抱き締められていた。 「私の方こそ、ごめんなさい」 「…シスター?」 「貴方の好きなその人ね。私の友達の話に出て来る人とあんまりにも似ていたから、ちょっと驚いてしまったのよ」 恐る恐る見上げると、そこにはいつものマリア様のようなシスターの微笑み。 なんて、神々しい。 「私の友達はね。ある上級生の方がすごく好きで、それは許されない道だと分かっていてもどうしようもなくて。きっとその人とならどこへだって行ける、今までの大切な物全てを捨ててでも一緒に居たいって思っていたのよ。その位に素敵な人だったの」 シスターは震える静の背中を優しく撫で続ける。 「結局、友達とその人は色々あって一緒に居る事が出来なくなってしまったのだけれど、少なくとも友達は今でもその人の事を忘れてはいない」 「……」 「貴方の言ったように、大切な思い出としてその人は生き続けている」 「真っ白な人。穢れを知らない、純粋な人。でも、どうしようもなく屈折していて、自分でそれに気付いているのにどうしようもなくて、強く抱き締めただけでも壊れてしまいそうな繊細な心を持つ人がね」 そう。それはまさしくあの人の幻影。 「誰よりも優しくて、誰よりも強欲で、誰よりも意地っ張りで」 「…でも、私はそんなあの人が大好きなんです」 「ええ」 「―貴方の好きな人はきっと凄く優しくて、優しすぎて残酷なのね。…私の友達が好きだった方に、本当によく似てる。誰よりも繊細で脆いくせに強い振りをしていた、そんなあの人に」 「…シスター」 静の頬に、暖かい雫がポタリと落ちる。 それはどんな気持ちを代弁している涙なのか、静には分からない。 けれど少なくとも、今の自分のような未練がましい涙でない事だけは分かる。 たくさんの試練や壁を乗り越えた人の、言い知れない思いの結晶なのだろう。 「そのお友達。今はどうしてますか?」 「え?」 「大切な人と別れて、思い出を胸にそれだけでも大丈夫でしょうか?」 シスターはゆっくり、そしてはっきりと首を縦に振ってくれた。 「大丈夫。人の心は実は強いのよ。どんなに辛く死にたくなるような事があっても、心を支えてくれる大切な思い出と、ほんの少しの勇気があればどんな事でも乗り越えられるものだから。…友達も、今は強く生きている」 もし。もしそれが本当ならば、私は― シスターの温もりを感じながら、静は鳴咽を洩らした。 あの人と別れて一年。初めて流す涙だった。 外へ出ると、空が嘘の様に晴れ上がっていた。 静は振り返る事なく、青々とした森を抜けていく。 多分ここには二度と来ない。 貴方も、私も、そしてあの人も、きっと強く生きていけるから。 自然と歌が口からこぼれ出した。 勉強の為でも慰めの為でもない。純粋な喜びの歌だ。 歌うってこんなに気持ちの良い事だったろうか。 何時しか空気を突き抜ける様なトーンになった静の歌。 風にのって、大空の彼方へと溶けていった。
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